ディーパンカラ・サヤレーは、アメリカからの帰路、日本に立ち寄られます。
当初2日間の瞑想会を予定していましたが、ニュースでも報じられているように、ミャンマーでは大雨による洪水被害が起きています。
そのため予定を繰り上げ、21日夜に法話会を行い、翌22日に帰国されることになりました。
8月21日(金)18:30~20:30 板橋区南常盤台集会所 東上線「ときわ台」駅より徒歩5分

およそのスケジュール
18:30~「お経」のチャンティング
18:45~ 法話
20:30 頃閉会
予約の必要はありません。座布団はあります。
参加費:無料、サヤレーへのお布施を受け付けています。
瞑想しやすい服装でおいで下さい。(タンクトップ、短パンは厳禁)
参加される方は、「お経」をプリントしてご持参ください。
ディーパンカラ・サヤレー について
サヤレーは子供の頃から瞑想を始め、ミャンマーのいろいろな指導者について瞑想指導を受けました。
1990年、パオ瞑想センターにて出家し、それ以降瞑想指導者としての訓練を受けました。
1996年より世界各地の仏教センターに招かれ、オーストラリア、アメリカ、カナダ、台湾、イギリス、マレーシア、シンガポール、日本などで瞑想指導をしています。
ミャンマー・メイミョ―にサヤレーの瞑想センターがあります。
サヤレーの瞑想センター「brahmavihari」のホームページ
http://brahmavihari.wix.com/brahmavihari
サヤレーの本:「The Happiness of a Beautiful Mind」
こちらのサイトからダウンロードできます。
http://brahmavihari.wix.com/brahmavihari#!gallery/c11fl
問い合わせ:はらみつ法友会事務局(paramifriend@gmail.com)
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お経
○礼拝
ナモ タッサ バガヴァト アラハト サンマ サンブッダサ
Namo tassa Bhagavato Arahato Samma ?Sambuddhassa
私は、阿羅漢であり正自覚者であるかの世尊を礼拝いたします
○三帰依
ブッダン サラナン ガッチャーミ ダンマン サラナン ガッチャーミ
Buddham saranam gacchami Dhammam saranam gacchami
サンガン サラナン ガッチャーミ
Sangham saranam gacchami
私は、仏に帰依いたします、私は、法に帰依いたします、私は、僧に帰依いたします。
ドゥティヤンピ
Dutiyampi--- (再び) 再び私は、―――
タティヤンピ
Tatiyampi--- (三度) 三度私は、―――
◯仏の十徳
Itipi(イティピ) so(ソ) bhagava(バガヴァ) arahan(アラハン) samma (サンマ)sam buddho(サンブッド)
Vijja(ヴィッジャ) carana(チャラナ) sampanno (サンパンノ) sugato (スガト) lokavidu(ローカヴィドゥ)
Anuttaro(アヌッタロ) purisadamma(プリサダンマ) sarathi(サーラティ)
Satha(サッター) deva(デーヴァ) manussanam (マヌッサーナン) buddho (ブッド)bhagavati(バガヴァティ)
かの世尊は、阿羅漢、正自覚者であり、明行具足、善逝、世間解であり、無上士 調御丈夫であり、神々、人間の師、仏陀、世尊である
◯法の六徳
Svakkhato(スヴァッカート) bhagavata (バガヴァタ)dhammo (ダンモ) sanditthiko (サンディッティコ) akaliko (アカーリコ)
Ehipassiko(エーヒパッスィコ) opanayiko(オーパナイコ) paccattam(パッチャッタン) veditabbo(ヴェーディタッボ) vinnuhiti(ヴィンニューイティ)
法は世尊によってよく解かれたものであり、 自分で見るべきものであり、即時のものであり
来たり見よと招くものであり、自己の心に獲得すべき、 各自に経験して識らるべきものである
◯僧の九徳
Supatipanno(スパティパンノ) bhagavato(バガヴァト) savakasangho (サーヴァカサンゴ) Ujupatipanno(ウジュパティパンノ)
bhagavato(バガヴァト) savakasangho (サーヴァカサンゴ)
Nayapatipanno(ニャーヤパティパンノ) bhagavato(バガヴァト) savakasangho (サーヴァカサンゴ)
Samicipatipanno(サーミチパティパンノ) bhagavato(バガヴァト) savakasangho (サーヴァカサンゴ)
Yadidam (ヤディダン)cattari (チャッターリ)purisayugani (プリサユガーニ)attha purisa puggala(アッタプリサプッガラ)
Esa(エーサ) bhagavato(バガヴァト) savakasangho (サーヴァカサンゴ)
Ahuneyyo(アーフネイヨー) pahuneyyo(パーフネイヨー) dakkhineyyo(ダッキネイヨー) anjolikaraniyo(アンジョリカラニヨー)
Anuttaram(アヌッタラン) punnakkhettam(プンニャケッタン) lokassati(ローカサッティ)
世尊の弟子の僧は、善行者であり、世尊の弟子の僧は、真直ぐに行ずる者であり、世尊の弟子の僧は、涅槃を目指して行ずる者であり、世尊の弟子の僧は、尊敬に値する行者である。
これらが四双八輩である。 これら世尊の弟子である僧は、 供食、供献、供養、合掌に値し、世界における無上の福田である。
○Karaniya Metta Sutta (慈経) (中村元訳)
カラニーヤ マッタ クサレーナ ヤン タン サン タン パダン アビサメッチャ究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達して
Karanîya mattha kusalena Yantam santam padam abhi-samecca なすべきことは、次のとおりである。
サッコー ウジューチャ スージューチャ スワチョー チャッサ ムドゥ アナティマーニー 能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、
Sakko uju ca sûjû ca Suvaco cassa mudu anatimâni 柔和で、思い上ることのない者であらねばならぬ。
サントゥッサコー チャ スバロー チャ アッパ キッチョー チャ サッラフカ ヴッティ足ることを知り、わずかの食物で暮し
Santussako ca subharo ca Appa-kicco ca sallahuka-vutti 雑務少く、生活もまた簡素であり
サンティンドゥリョー チャ ニパコーチャ アッパ ガッボー クレース アナヌギッドー 諸々の感官が静まり、聡明で、
Santindriyo ca nipako ca Appa-gabbho kulesu ananu giddho 高ぶることなく、諸々の(ひとの)家で貪ることがない
ナチャ クッダン サマーチャレー キンチ イェーナ ウィンニュー パレ- ウパワディユン他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、
Naca khuddham samâcare kinci Yena viññû pare upava-deyyum 決してしてはならない。
スキノー ワー ケーミノー ホントゥー サッベー サッター バワントゥ スキタッター 一切の生きとし生けるものは、
Sukhino vâ khemino hontu Sabbe sattâ bhavantu sukhi-tattâ 幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ
イェーケーチ パーナ ブータッティ タサーワー ターワラー ワー アナワセーサー いかなる生物生類であっても、
Ye keci pâna bhû-tatthi Tasâvâ thâvarâ vâ anava sesâ 怯えているものでも強剛なものでも悉く、
ディーガー ワー イェー マハンター ワー マッジマー ラッサカーヌカ トゥーラー長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、
Dighâ vâ ye mahantâ vâ Majjhimâ-rassa-kânuka thûlâ 短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、
ディッターワー イェーワアッディッター イェーチャ ドゥーレー ワサンティ アヴィドゥーレー目に見えるものでも、見えないものでも、
Ditthâ vâ yeva additthâ Ye ca dûre vasanti avidûre 遠くに住むものでも、近くに住むものでも、
ブーターワー サンバウェースィーワー サッベーサッター バワントゥスキタッターすでに生まれたものでも、これから生まれようと
Bhûtâ vâ sambhavesi vâ Sabbe sattâ bhavantu sukhi-tattâ 欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。
ナ パロー パラン ニクッベーター ナーティ マンニェータ カッタチナン カンチ何びとも他人を欺いてはならない。
Na paro param nikubbetha Nâti-mannêtha katthaci nam kanciたといどこにあっても他人を軽んじてはならない。
ビャーローサナー パティガ サンニャー ナーンニャマンニャッサ ドゥッカ ミッチェッヤ 悩まそうとして怒りの想いをいだいて
Byâro-sanâ patigha-saññâ Nâññâ-maññassa dukkha-miccheyya 互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない
マーター ヤターニヤン プッタン アーユサー エーカ プッタ マヌラッケーあたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように
Mâtâ yathâ niyam puttam Âyusâ eka-putta- manu rakkhe そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、
エーワンピ サッバ ブーテース マーナサン バーワイェー アパリマーナン 無量の(慈しみの)こころを起すべし。
Evampi sabba bhûtesu Mânasam-bhâvaye apari-mânam
メッタンチャ サッバ ローカスミン マーナサン バーワイェー アパリマーナンまた全世界に対して無量の慈しみの心を起すべし。
Mettañca sabba lôkasmin Manasam-bhâvaye apari-mânam
ウッダン アドーチャ ティリヤン チャ アサンバーダン アベーラン アサパッタン 上に、下に、また横に、
Uddham adhô ca tiriyanca Asam-bâdham averam asa-pattam 障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。
ティッタン チャラン ニスィンノーワー サヤーノーワー ヤーワタッサ ヴィガタミッドー立ちつつも、歩みつつも、
Tittham caram nisinno vâ Sayâno vâ yâva tassa vigata middho 坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、
エータン サティン アディッテェッヤ ブラフマメータン ヴィハーラン イダマーフ この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。
Etam satim adhitthheyya Brahma metam viharam idha-mâhu この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。
ディッティンチャ アヌパガンマ スィーラワー ダッサネーナ サンパンノー 諸々の邪まな見解にとらわれず、
Ditthiñca anupa gamma sîlavâ Dassa-nena sampanno 戒を保ち、見るはたらきを具えて、
カーメース ヴィネッヤ ゲーダン ナヒジャートゥ ガッバ セッヤン プナレーティー ティ諸々の欲望に関する貪りを除いた人は
Kâmesu vineyya gedham Nahi jâtu gabbha seyyam punaretî ti 決して再び母胎に宿ることがないであろう。
○ 廻向
エタヴァタッチャ アンメーヒ サンバダン プンニャ サンパダン
Ettavata ca amhehi Sambhatam punna sampadam 私達の積んだ功徳をすべてのデーヴァたちに廻向します
サッベ デーヴァ アヌモダントゥ サッバ サンパティ スィディヤ
Sabbe deva anumodantu Sabba sampatti siddhiya 幸せでありますように
エタヴァタッチャ アンメーヒ サンバダン プンニャ サンパダン
Ettavata ca amhehi Sambhatam punna ampadam 私達の積んだ功徳をすべての(餓鬼を含む)生き物たちに廻向します
サッベ ブータ アヌモダントゥ サッバ サンパティ スィディヤ
Sabbe bhuta anumodantu Sabba sampatti siddhiya 幸せでありますように
エタヴァタッチャ アンメーヒ サンバダン プンニャ サンパダン
Ettavata ca amhehi Sambhatam punna sampadam 私達の積んだ功徳をすべての衆生に廻向します
サッベ サッタ アヌモダントゥ サッバ サンパティ スィディヤ
Sabbe satta anumodantu Sabba sampatti siddhiya 幸せでありますように
Sadhu! Sadhu! Sadhu!