オバサ・セヤドー経典学習

2019年12月 9日 (月)

12月経典学習会のお知らせ

12月の経典学習会は、12月22日(日)に開催予定です。

 

12月22日(日)13:30~17:00 
中板橋 MCWA
(今回は中板橋ですのでお間違いなく)

 

予定

 

13:30より自主瞑想(法話は14時からですが、それまで自主的に瞑想しています)
14:00より経典の解説
16:00より質疑応答
17:00ころ終了

 

参加費無料
予約の必要はありません

 

内容: トゥ・ミンガラ比丘(Thu Mingala Bikkhu)によるダンマパダ(法句経)の解説です。
ダンマパダ(法句教)170,173偈
「世の中は泡沫(うたかた)のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王も彼を見ることがない。」
「以前には悪い行ないをなした人でものちに善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす――雲を離れた月のように。」
(岩波文庫「真理の言葉 感興のことば」中村元訳 より)
参加される方はテキストをプリントしてご持参ください

 

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1月の予定 1月19日(日)和光市、新精舎にて
オバサ・セヤドー 念住経の解説

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テキスト

ダンマパダ170偈
Yathā bubbulakaṃ passe yathā passe marīcikaṃ 
Evaṃ lokaṃ avekkhantaṃ maccurājā na passati.
「世の中は泡沫(うたかた)のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王も彼を見ることがない。」

 

500人の比丘の物語
祇園精舎に滞在しているとき、ブッダは500人の比丘に関してこの偈を読みました。
ある時、五百人の比丘たちは、ブッダから瞑想の主題を与えれれた後に、それを実践するために森に行きました。 しかし、彼らはほとんど進歩しませんでした。 そこで彼らはもっと自分に合った瞑想の主題を与えてもらうようブッダのところに戻っていきました。ブッダのところへ向かう途中、彼らは蜃気楼を見たので、それについて瞑想しました。彼らが僧院の敷地に入るとすぐに、嵐がやってきました。 大粒の雨が降り、地面に泡ができ、すぐに消えました。それらの泡を見て、比丘たちは、「私たちの体は、泡のように壊れやすいものだ」と熟考しました。そして、五蘊の無常である本性を認識しました。ブッダは香りの部屋から比丘たちを見て、力を送り、彼らのイメージの中に現れました。

 

そして、次のような偈を読みました。
「世の中は泡沫(うたかた)のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王も彼を見ることがない。」
説法の後、500人の比丘たちは阿羅漢道を得ました。

 

ダンマパダ173偈
Yassa pāsaṃ kataṃ kammaṃ kusalena pithīyati 
So imaṃ lokaṃ pabhāseti abbhā mutto'va candimā. 
「以前には悪い行ないをなした人でものちに善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす――雲を離れた月のように。」 

 

アングリマーラ長老の物語 
 祇園精舎に滞在しているとき、ブッダはアングリマーラ長老に関してこの偈を読みました。
アングリマーラは、コーサラ国のパセナディ王の宮廷で、司祭長の息子でした。 彼の名前はアヒムサカといいました。年齢になると、有名な大学町であるタキシラに送られました。 アヒムサカは賢く、先生にも従順でした。 それで彼は先生とその奥さんに好かれました。 その結果、他の生徒は彼に嫉妬しました。 そこで、彼らは教師のところへ行き、アヒムサカが先生の奥さんと関係があるとウソの報告をしました。 最初、教師はそれを信じませんでしたが、何度も言われるので、信じるようになりました。 そして彼は少年に復讐することを誓いました。 少年を殺せば後で後悔することになるでしょう。 それで彼は殺人よりも悪い計画を考えました。 彼はアヒムサカに1000人の男か女を殺すように言い、その見返りに貴重な知識を与えると約束しました。 少年はこの知識をほしいと思いましたが、命を奪うことについてはとても気が進みませんでした。 しかし、彼は言われたとおりに行うことに同意しました。

 

 このようにして、彼は人々を殺し続けました。そして、その数を忘れないために、殺した人の指を糸に通し、首に花輪のようにして掛けました。 それで、彼は「アングリマーラ」として知られ、その地方の人々の恐怖の的になりました。 王はアングリマラの悪業について知り、彼を捕まえる準備をしました。 アングリマーラの母であるマンタニは、王の意向を聞いて、息子への愛から彼を救おうと必死で森に入りました。 この時までに、アングリマラの首の輪には990本の指があり、1000本に1本足りませんでした。その日の早朝、ブッダは洞察力でアングリマーラを見ました。ブッダが止めなければ、1000人目の最後の人を探していたアングリマーラが母親を見て殺すかもしれないと考えました 。 そうなれば、アングリマーラは無限に地獄でに苦しむことになります。 慈悲の思いから、ブッダはアングリマラがいる森に向かいましました。

 

 アングリマーラは、多くの眠れぬ日夜を過ごした後、とても疲れ、消耗していました。 同時に、最後の1人を殺して千人の目標を達成しその仕事を完了させることをとても気にかけていました。 彼は出会った最初の人を殺そうと決心しました。 そのとき、彼は外を見ていてブッダを見つけ、ナイフ起こして追いかけました。 しかし、彼がへとへとになるまで追っても、ブッダには追い付きませんでした。そして、ブッダを見て彼は叫びました。「おい比丘よ、止れ、止れ」。ブッダは答えました。「私はすでに止っている。ただあなたが止っていないだけだ」。 アングリマーラはブッダの言葉の意味が分からずに尋ねました。「比丘よ、あなたが止っていて、私が止っていないと言うのはなぜなのか?」。

 

 ブッダは彼に言いました。「私は止っていると言った。それは、私は、すべての生き物を殺すことを止め、すべての生き物を虐待することを止めたからだ。そして内省を通して普遍的な愛と忍耐、そして智恵を確立したからだ。 しかし、あなたは他人を殺したり虐待したりすることをあきらめておらず、まだ普遍的な愛と忍耐を確立していない。だから、あなたは止まっていない人なのだ」。ブッダの口からこれらの言葉を聞いて、アングリマーラは深く考えた。「これは賢い人の言葉だ。この比丘はとても賢く、とても勇敢だ。彼は比丘たちの指導者に違いない。確かに彼は、ブッダ(覚者)その人に違いない。そして彼は私に光を見せるために特別にここに来たに違いない」 。そのように考えて、彼は武器を捨て、ブッダに比丘になることを認めてくれるよう頼みました。 そこで、ブッダは彼を比丘にしました。

 

 アングリマーラの母親は、森のいたるところで息子の名前を叫びましたが、彼を見つけることができずに家に帰りました。 王と彼の家来がアングリマーラを捕らえるために来たとき、ブッダの僧院にいる彼を見つけました。 アングリマーラが悪の道をあきらめ、比丘になったことを知ると、王とその家来たちは宮殿に帰りました。 僧院に滞在中、アングリマーラは熱心に、そして勤勉に瞑想を実践し、すぐに阿羅漢道を達成しました。

 

 その後のある日、彼は托鉢をしているときに、幾人かの人がけんかをしている場所に来ました。 彼らがお互いに石を投げあっているとき、飛んできたいくつかの石がアングリマーラ長老の頭に当たり、彼は重傷を負いました。 しかし、彼はなんとかブッダのもとに戻ってきました。ブッダは彼に言いました。「わが息子、アングリマーラよ、あなたは悪を止めた。忍耐しなさい。あなたは自分の行った行為のツケを、今の存在で支払っている。これらの行ないは、地獄で無限の歳月あなたを苦しめたであろうものなのだ。その後まもなく、アングリマーラは平安のうちに亡くなりました。 彼はパリニッバーナ(般涅槃)を実現しました。

 

 他の比丘たちはブッダに、アングリマーラがどこに生まれ変わったかを尋ねました。ブッダが、「私の息子はパリニッバーナを実現しました」と答えたとき、彼らはそれをほとんど信じることができませんでした。 それで彼らはブッダに、あれほど多くの人を殺した男がパリニッバーナを実現することが可能なのか尋ねました。 この問いに対して、ブッダは答えました。「比丘たちよ、アングリマーラには善友がいなかったので、多くの悪事をなしました。しかし、後に彼は善友を見つけました。 善友の助けと良いアドバイスによって、彼はダンマの実践において不動でありそしてマインドフルでありました。 したがって、彼の邪悪な行為は、善によってのり越えられました(すなわち、阿羅漢道)。

 

 そしてブッダは次の偈を読みました。
「以前には悪い行ないをなした人でものちに善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす――雲を離れた月のように。」

 

 

 

2019年10月22日 (火)

11月経典学習会(日時、場所変更)のお知らせ

11月の経典学習会の日時、場所を下記のとおり変更いたします。

11月24日(日)13:30~17:00 
中板橋MCWA事務所
住所 板橋区仲町39-1 電話03-3973-3348 

 

 

予定

 

13:30より自主瞑想(法話は14時からですが、それまで自主的に瞑想しています)
14:00より経典の解説
16:00より質疑応答
17:00ころ終了

 

参加費無料
予約の必要はありません

 

内容: トゥ・ミンガラ比丘(Thu Mingala Bikkhu)によるダンマパダ(法句経)の解説です。
ダンマパダ(法句教)158,165偈
「先ず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことが無いであろう。」
「みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることはできない。」
(岩波文庫「真理の言葉 感興のことば」中村元訳 より)

 

12月の予定 12月15日(日)和光市、新精舎にて
オバサ・セヤドーがミャンマーへ帰国されるため、引き続きトゥ・ミンガラ比丘にダンマパダの解説をしていただきます。

 

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Dhammapada 158

 

先ず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことが無いであろう。
Attanameva pathamam patirupe nivesaye
athannamanusaseyya na kilisseyya pandito.

 

釈迦族の人、ウパナンダ長老の物語
祇園精舎に滞在するとき、ブッダは釈迦族のウパナンダ長老に関してこの偈を唱えました。
ウパナンダはとても雄弁な説教者でした。 彼は、貪欲などもたず、ほんのわずかな物しか持たないように説教し、自足と質素、および厳しい実践の価値について雄弁に語っていました。 しかし、彼は自分が教えたようには実践せず、他の人が断念した衣やその他の必需品を自分のために取っておきました。

 

ある時、ウパナンダは雨安居(ワサ)の直前に村の僧院に行きました。 彼の雄弁さに感銘を受けた若い比丘たちは、僧院でワサを過ごすように頼みました。 彼は、僧院ではワサのときにお布施として何着の衣が受け取れるのか、と聞きました。いつもは1着の衣を受け取ると比丘たちは答えました。 そこで彼はその僧院には滞在しませんでしたが、スリッパを僧院に置いて行きました。

 

次の僧院では2着の衣を受け取ることを知りました。 そこで彼は杖を置いて行きました。 次の僧院では、3着の衣をワサのお布施として受け取ります。 そこで彼は水筒を置いて行きました。 最後に、4着の衣を受け取る僧院で、彼はワサを過ごすことにしました。

 

ワサの終わりに、彼は自分の持ち物を置いておいた僧院に衣の受け取りを求めました。 その後、彼はすべてのものを手押し車に乗せて、昔からいる僧院に戻りました。 途中で、彼は2人の若い比丘に会いました。彼らは、2着の衣と、高価な1枚のベルベット毛布の分配について争っていました。 彼らは友好的に解決することができなかったので、ウパナンダに仲裁を依頼しました。 ウパナンダは彼らにそれぞれ一着の衣を与え、仲裁人として高価なベルベットの毛布を取りました。

 

2人の比丘はこの決定に不満足でしたが、どうすることもできませんでした。 不満と落胆の気持ちから、彼らはブッダのところへ行き、この問題を報告しました。 それに対してブッダは、「他の人を教える者は、まず自分自身を教え、教えたとおりに行動するべきだ」と言いました。

 

それからブッダはつぎの偈を唱えました。
「先ず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことが無いであろう。」
この説法が終わったとき、2人の若い比丘は預流果を得ることができました。

 

Dhammapada 165

 

みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることはできない。
Attana hi katam pipam attana samkilissati
attana akatam papam attanava visujjhati
suddhi asuddhi paccattam nanno annanam visodhaye.

 

在家の弟子チュラカラの物語
祇園精舎に滞在しているときに、ブッダは在家の弟子であるチュラカラに関してこの偈を読みました。
在家の弟子であるチュラカラは、ある安息日、ウポサタの戒律を守り、一晩中宗教的な説法を聞きながら、祇園精舎で過ごしました。 朝早く、修道院の近くの池で顔を洗っていると、泥棒たちが彼の近くに束を投げ込みました。 盗まれた財産のそばにいる彼を見た所有者は、彼を泥棒と思って激しくたたきました。 幸いなことに、水を汲みに来た奴隷の少女たちが、彼を知っていて、泥棒ではないことを証言しました。 それで、チュラカラは解放されました。

 

ブッダがそのことについて言及したとき、チュラカラに言いました。「奴隷の少女たちが証言したからだけでなく、あなたが泥棒ではなく、盗みもしていないので、無実だから、あなたは解放されたのです。 悪を行う者はニラヤ(地獄)に行き、善を行う者はデーヴァの世界で生まれ変わるか、涅槃を実現します」。

 

そしてブッダは次の偈を唱えました。
「みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることはできない」
法話を聞いたチュラカラは預流果を得ました。

2019年10月 4日 (金)

10月経典学習会のお知らせ

10月の経典学習会は、10月20日(日)に開催予定です。

10月20日(日)13:30~17:00 
和光市、新精舎にて
住所 和光市新倉2丁目27-18  
和光市駅から徒歩20分くらい。バス:北口より新倉小学校下車3分。

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予定
13:30より自主瞑想(法話は14時からですが、それまで自主的に瞑想しています)
14:00より経典の解説
16:00より質疑応答
17:00ころ終了

参加費無料
予約の必要はありません

内容: オバサ・セヤドー念住経の解説 「心の随観」、法に関する随観「障害の部」

11月の予定 11月17日(日)和光市、新精舎にて
トゥ・ミンガラ比丘(Thu Mingala Bikkhu)によるダンマパダ(法句経)の解説です。
ダンマパダ(法句教)158,165偈
「先ず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことが無いであろう。」
「みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることはできない。」
(岩波文庫「真理の言葉 感興のことば」中村元訳 より)

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Dhammānupassanā 法に関する随観
A. Nīvaraṇapabbaṃ 障害の部

Kathaṃ ca pana, bhikkhave, bhikkhu dhammesu dhammānupassī viharati?
Idha, bhikkhave, bhikkhu dhammesu dhammānupassī viharati - pañcasu nīvaraṇesu.
Kathaṃ ca pana, bhikkhave, bhikkhu dhammesu dhammānupassī viharati - pañcasu nīvaraṇesu?
Idha, bhikkhave, bhikkhu santaṃ vā ajjhattaṃ kāmacchandaṃ ‘atthi me ajjhattaṃ kāmacchando’ ti pajānāti, asantaṃ vā ajjhattaṃ kāmacchandaṃ ‘natthi me ajjhattaṃ kāmacchando’ ti pajānāti, yathā ca anuppannassa kāmacchandassa uppādo hoti taṃ ca pajānāti, yathā ca uppannassa kāmacchandassa pahānaṃ hoti taṃ ca pajānāti, yathā ca pahīnassa kāmacchandassa āyatiṃ anuppādo hoti taṃ ca pajānāti.

比丘たちよ、また比丘はどのようにして法において法を随観し続けるのか。ここに比丘たちよ。比丘は五つの障害の法において(五つの障害の)法を随観し続けるのである。では比丘たちよ。比丘はどのようにして五つの障害の法において(五つの障害の)法を随観し続けるのか。
  ここに比丘たちよ。比丘は内に貪欲(欲貪)があれば「私の内に貪欲がある」と知り、あるいは内に貪欲がなければ「私の内に貪欲がない」と知る。また、未だ生じない貪欲がどのように生じるかを知り、すでに生じた貪欲がどのようにして捨断されるかを知り、捨断された貪欲が将来どのようにして生じないかを知る。

Santaṃ vā ajjhattaṃ byāpādaṃ ‘atthi me ajjhattaṃ byāpādo’ ti pajānāti, asantaṃ vā ajjhattaṃ byāpādaṃ ‘natthi me ajjhattaṃ byāpādo’ ti pajānāti, yathā ca anuppannassa byāpādassa uppādo hoti taṃ ca pajānāti, yathā ca uppannassa byāpādassa pahānaṃ hoti taṃ ca pajānāti, yathā ca pahīnassa byāpādassa āyatiṃ anuppādo hoti taṃ ca pajānāti.

次に内に怒りがあれば「私の内に怒りがある」と知り、あるいは内に怒りがなければ「私の内に怒りがない」と知る。また。未だ生じない怒りがどのように生じるかを知り、すでに生じた怒りがどのようにして捨断されるかを知り、捨断された怒りが将来どのようにして生じない かを知る。
      
Santaṃ vā ajjhattaṃ thinamiddhaṃ ‘atthi me ajjhattaṃ thinamiddhaṃ’ ti pajānāti, asantaṃ vā ajjhattaṃ thinamiddhaṃ ‘natthi me ajjhattaṃ thinamiddhaṃ’ ti pajānāti, yathā ca anuppannassa thinamiddhassa uppādo hoti taṃ ca pajānāti, yathā ca uppannassa thinamiddhassa pahānaṃ hoti taṃ ca pajānāti, yathā ca pahīnassa thinamiddhassa āyatiṃ anuppādo hoti taṃ ca pajānāti.

あるいは内に惛沈・睡眠があれば「私の内に惛沈・睡眠がある」と知り、あるいは内に惛沈・睡眠がなければ「私の内に惛沈・睡眠がない」と知る。また、未だ生じない惛沈・睡眠がどのようにして生じるかを知り。すでに生じた惛沈・睡眠がどのように捨断されるかを知り、捨断された惛沈・睡眠が将来どのようにして生じないかを知る。

Santaṃ vā ajjhattaṃ uddhaccakukkuccaṃ ‘atthi me ajjhattaṃ uddhaccakukkuccaṃ’ ti pajānāti, asantaṃ vā ajjhattaṃ uddhaccakukkuccaṃ ‘natthi me ajjhattaṃ uddhaccakukkuccaṃ’ ti pajānāti, yathā ca anuppannassa uddhaccakukkuccassa uppādo hoti taṃ ca pajānāti, yathā ca uppannassa uddhaccakukkuccassa pahānaṃ hoti taṃ ca pajānāti, yathā ca pahīnassa uddhaccakukkuccassa āyatiṃ anuppādo hoti taṃ ca pajānāti.

 あるいは内に落ち着きのなさ。後悔があれば。「私の内に落ち着きのなさ。後悔がある」と知り、あるいは内に落ち着きのなさ、後悔がなければ「私の内に落ち着きのなさ、後悔がない」と知る。また、未だ生じない落ち着きのなさ、後悔がどのように生じるかを知り。すでに生じた落ち着きのなさ、後悔がどのようにして捨断されるかを知り、捨断された落ち着きのなさ。後悔が将来どのようにして生じないかを知る。

Santaṃ vā ajjhattaṃ vicikicchaṃ ‘atthi me ajjhattaṃ vicikicchā’ ti pajānāti, asantaṃ vā ajjhattaṃ vicikicchaṃ ‘natthi me ajjhattaṃ vicikicchā’ ti pajānāti, yathā ca anuppannāya vicikicchāya uppādo hoti taṃ ca pajānāti, yathā ca uppannāya vicikicchāya pahānaṃ hoti taṃ ca pajānāti, yathā ca pahīnāya vicikicchāya āyatiṃ anuppādo hoti taṃ ca pajānāti.

あるいは内に疑いがあれば「私の内に疑いがある」と知り。あるいは内に疑いがなければ「私の内に疑いがない」と知る。また、未だ生じない疑いがどのようにして生じるかを知り、すでに生じた疑いがどのように捨断されるかを知り、捨断された疑いが将来どのようにして生じないかを知る。

Iti ajjhattaṃ vā dhammesu dhammānupassī viharati, bahiddhā vā dhammesu dhammānupassī viharati, ajjhattabahiddhā vā dhammesu dhammānupassī viharati, samudayadhammānupassī vā dhammesu viharati, vayadhammānupassī vā dhammesu viharati, samudayavayadhammānupassī vā dhammesu viharati, ‘atthi dhammā’ ti vā panassa sati paccupaṭṭhitā hoti. Yāvadeva ñāṇamattāya paṭissatimattāya anissito ca viharati, na ca kiñci loke upādiyati. Evaṃ pi kho, bhikkhave, bhikkhu dhammesu dhammānupassī viharati pañcasu nīvaraṇesu.

このように自己の法において法を随観し続け、あるいは他の法において法を随観し続け。あるいは自他の法において法を随観し続ける。また法において(法を)生法なりと随観し続ける。
 あるいは法において滅法なりと随観し続け、あるいは法において生滅の法なりと随観し続ける。
 そこで「法のみあり」との念が彼に起こる。それこそは智慧の(増大の)ため、念の(増大の)ためになる。彼は(愛着・誤った考えに)よることなく(随観し)続け、世の何ものにも執着しない。比丘たちよ。比丘はこのように五つの障害の法において法を随観し続けるのである。
                                    
 障害の部終り

2019年9月12日 (木)

9月経典学習会のお知らせ

9月の経典学習会は、9月22日(日)に開催予定です。

9月22日(日)13:30~17:00 
和光市、新精舎にて
住所 和光市新倉2丁目27-18  
和光市駅から徒歩20分くらい。バス:北口より新倉小学校下車3分。

Wakocity

予定

13:30より自主瞑想(法話は14時からですが、それまで自主的に瞑想しています)
14:00より経典の解説
16:00より質疑応答
17:00ころ終了

参加費無料
予約の必要はありません

内容: トゥ・ミンガラ比丘(Thu Mingala Bikkhu)によるダンマパダ(法句経)の解説です。
ダンマパダ(法句教)146,147偈
「何の笑いがあろうか。何の歓びがあろうか?―世間は燃え立っているのに―。汝らは暗黒に覆われている。どうして燈明を求めないのか?」
「見よ、粉飾された形態を!(それは)傷だらけの身体であって、いろいろのものが集まっただけである。病に悩み、意欲ばかり多くて、堅固でなく、安住していない。」
(岩波文庫「真理の言葉 感興のことば」中村元訳 より)

10月の予定 
10月20日(日)和光市、新精舎にて オバサ・セヤドー念住経の解説 

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Dhammapada Verse 146
Visakhaya Sahayikanam Vatthu

Ko nu haso kimanando niccam pajjalite sati
andhakarena onaddha padipam na gavesatha.
「何の笑いがあろうか。何の歓びがあろうか?―世間は燃え立っているのに―。汝らは暗黒に覆われている。どうして燈明を求めないのか?」
(岩波文庫「真理の言葉 感興のことば」中村元訳 より)

146偈 ヴィサカの仲間の物語

祇園精舎に滞在中ブッダはヴィサカの仲間に関してこの偈を詠みました。サーヴァッティから来た500人の男たちは、自分たちの妻を、ヴィサカの妻のように寛大で、親切で、高潔にしたいと望み、ヴィサカのところに連れて行きました。 7日間続くバッチャナリアンのお祭り期間中、男たちの妻はヴィサカの不在中、夫が残した飲み物をすべて飲んで酔っぱらいました。この悪い行いのために、彼女たちは夫に打たれました。

またある時、彼女たちは、ブッダの法話を聞きたいと言って、ヴィサカに連れて行くように頼み、服に小さな酒瓶を隠して持って行きました。僧院に到着すると、彼女たちは持ってきた酒をすべて飲み、ボトルを捨てました。ヴィサカはブッダにダンマを説くように頼みました。その時までに、女性たちは酔っていて、歌ったり踊ったりしたく感じていました。マーラはこの機会に彼女たちを大胆かつ恥知らずにしてやろうと思いました。すぐに彼女たちは僧院内で騒々しく歌い、踊り、拍手し、飛び回りました。

ブッダは、マーラの手の内にある、女性たちの恥知らずな振る舞いを見て、「マーラに機会を与えてはならない」と自分に言いました。それで、ブッダは体から暗青色の光を送り、部屋全体が暗くなりました。女性たちはおびえ、冷静になり始めました。それから、ブッダは彼の席から消え、メール山(須弥山)の上に立ち、そこから白い光を送ると、空は千の月に照らされたように明るくなりました。こうしてブッダは神通力を表したのち、500人の女性たちにこう言いました。「このような気づきのない状態で僧院に来るべきではありません。あなたたちは怠慢だったので、僧院のなかで恥知らずに振る舞い、笑い、大声で歌わさせるような機会をマーラに与えてしまいました。さあ、あなたたちの中にある貪欲の火を消すように努めてください」。

それからブッダは次の偈を唱えました。
「何の笑いがあろうか。何の歓びがあろうか?―世間は燃え立っているのに―。汝らは暗黒に覆われている。どうして燈明を求めないのか?」

Dhammapada Verse 147
Sirima Vatthu
Passa cittakatam bimbam arukayam samussitam
aturam babusankappam yassa natthi dhuvam thiti.

「見よ、粉飾された形態を!(それは)傷だらけの身体であって、いろいろのものが集まっただけである。病に悩み、意欲ばかり多くて、堅固でなく、安住していない。」(岩波文庫「真理の言葉 感興のことば」中村元訳 より)

147偈 シリマの物語
祇園精舎に滞在中ブッダはシリマに関してこの偈を詠みました。かつて、シリマという名のとても美しい遊女がラジャガハに住んでいました。 シリマは毎日八人の比丘に食事のお布施をしました。比丘の一人は、たまたま他の比丘にシリマの美しさについて語り、また彼女は毎日非常に美味しい料理を比丘にお布施していると言いました。 これを聞いて、若い比丘はシリマに会ってもいないのに恋してしまいました。翌日、若い比丘はもう一人の比丘と一緒にシリマの家に行きました。シリマはその日、調子が良くありませんでしたが、比丘に敬意を払いたいと思ったので、彼らの前に現われました。シリマを見た若い比丘は、「病気であるにもかかわらず、彼女はとても美しい!」と思いました。 そして彼は彼女への強い欲求を感じました。

その夜、シリマは死にました。ビンビサーラ王はブッダのところに行き、ジーバカの姉妹であるシリマが亡くなったことを報告しました。 ブッダはビンビサーラ王に、死体を墓地に運び、カラスやハゲタカから護り、埋葬せずに3日間保管するように話しました。王は言われたとおりにしました。 4日目に、美しいシリマの死体は、もはや美しくも望ましくもなくなりました。それは膨らみ、ウジが9つの穴からから出てきました。その日、ブッダは比丘たちを墓地に連れて行き、シリマの遺体を観察させました。王も部下と共に来ました。シリマに必死に恋していた若い比丘は、シリマが死んだことを知りませんでした。彼はブッダと比丘たちがシリマを見に行くと知ったとき、そこに加わりました。墓地のなかで、シリマの死体は、ブッダに率いられた比丘たちと、王と彼の部下に囲まれていました。

ブッダは王に、シリマが一晩につき現金千で手に入ると発表するように頼みました。 しかし、現金千であっても、五百、二百五十、あるいは無料であっても、彼女を連れて行く人はいません。それからブッダは人々に言いました、「比丘たちよ!シリマを見てみなさい。彼女が生きていたとき、彼女と一晩過ごすために千を出す人がいました。しかし今では、ただでも彼女を連れて行く人はいません。人の体は劣化し壊れていくものです」

それからブッダは次の偈を唱えました。
「見よ、粉飾された形態を!(それは)傷だらけの身体であって、いろいろのものが集まっただけである。病に悩み、意欲ばかり多くて、堅固でなく、安住していない。」

2019年7月28日 (日)

8月経典学習会のお知らせ

8月の経典学習会は、8月18日(日)に開催予定です。

8月18日(日)13:30~17:00 
和光市、新精舎にて
住所 和光市新倉2丁目27-18  
和光市駅から徒歩20分くらい。バス:北口より新倉小学校下車3分。
(地図参照)
Photo_20190728204401

予定

13:30より自主瞑想(法話は14時からですが、それまで自主的に瞑想しています)
14:00より経典の解説
16:00より質疑応答
17:00ころ終了

参加費無料
予約の必要はありません

内容: オバサ・セヤドー念住経の解説 「心の随観」
テキストは、ブログ「3月経典学習会のお知らせ」をご参照ください。
http://parami-library.cocolog-nifty.com/blog/2019/03/3-3bde.html

9月の予定 9月22日(日)中板橋MCWAにて
トゥ・ミンガラ比丘(Thu Mingala Bikkhu)によるダンマパダ(法句経)の解説です。
ダンマパダ(法句教)146,147偈
「何の笑いがあろうか。何の歓びがあろうか?―世間は燃え立っているのに―。汝らは暗黒に覆われている。どうして燈明を求めないのか?」
「見よ、粉飾された形態を!(それは)傷だらけの身体であって、いろいろのものが集まっただけである。病に悩み、意欲ばかり多くて、堅固でなく、安住していない。」
(岩波文庫「真理の言葉 感興のことば」中村元訳 より)

2019年7月16日 (火)

7月経典学習会(日時変更)のお知らせ

7月21(日)に開催予定の経典学習会は都合により7月28日(日)に変更しました。

 

7月28(日)13:30~17:00 
中板橋MCWA事務所
住所 板橋区仲町39-1 電話03-3973-3348 

予定

 

13:30より自主瞑想(法話は14時からですが、それまで自主的に瞑想しています)
14:00より経典の解説
16:00より質疑応答
17:00ころ終了

 

参加費無料
予約の必要はありません

 

内容:
トゥ・ミンガラ比丘(Thu Mingala Bikkhu)によるダンマパダ(法句経)の解説です。
ダンマパダ(法句教)133,134偈、136偈
「荒々しいことばを言うな。言われた人々は汝に言い返すであろう。怒りを含んだことばは苦痛である。報復が汝の身に至るであろう。こわれた鐘のように、声をあららげないならば、汝は安らぎに達している。汝はもはや怒り罵ることがないからである。」
「しかし愚かな者は、悪い行ないをしておきながら、気がつかない。浅はかな愚者は自分自身のしたことによって悩まされる。―火に焼きこがされた人のように。」
(岩波文庫「真理の言葉 感興のことば」中村元訳 より)

 

8月の予定:8月18日(日)和光市、新精舎にて オバサ・セヤドー念住経の解説 「心の随観」

 

3a

 

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ダンマパダ 133,134
Mavoca pharusam kanci vutta pativadeyyu tam
dukkha hi sarambkakatha patidanda phuseyyu tam.
Sace neresi attanam kamso upahato yatha
esa pattosi nibbanam sarambho te na vijjati.

 

コンダーナ長老の物語
祇園精舎に滞在しているときブッダはコンダーナ長老に関してこの偈を詠みました。
コンダーナがサンガに入った時以来、女性の影が彼に付きまといました。この影は他の人には見えましたが、コンダーナ自身には見えず、彼はそれに気づきませんでした。托鉢に行くと人々は、しゃもじで2杯分入れてこう言いました。「尊者、これはあなたの分です。そしてこちらは一緒にいる女性の分です」。比丘が女性と一緒に歩くのを見て人々はコーサラ国のパセナディ王にこの2人のことを報告しました。彼らは王様にこういいました。「王様、あの道徳に欠けた比丘を王国から追放してください」。

 

そこで王は比丘の滞在する僧院を部下に包囲させました。騒音と声を聞いて、その比丘は出てきてドアのところに立ちました。そして女性の影もそこから遠くないところにありました。王が来たことを知って、比丘は彼を待つために部屋に入りました。王が部屋に入ると、女性の影はありませんでした。王は女性がどこにいるか比丘に尋ねました。比丘は、女性など見ないと答えました。王は確かめようと思い、比丘ににしばらく部屋を出るように言いました。比丘は部屋から出ました。王が見ると、再び比丘の近くに女性がいるのが見えました。しかし、比丘が部屋に戻ると、女性はどこにも見当たりません。王は、女性は実在の物ではないと結論しました。比丘は無実ということになりました。そして、王は比丘に毎日、托鉢のため宮殿に来るよう招待しました。

 

他の比丘たちはこの話を聞き、戸惑って比丘に言いました。「不道徳な比丘よ、王は国から追い出すのでなく、宮殿に托鉢に来るように招いた。何たる運命だろうか」。一方の比丘は、「あなたたちこそ道徳に欠けている。あなたたちは女性とつき合うよう運命づけられている」と反論しました。比丘たちはブッダにこの件を報告しました。

 

ブッダはコンダーナに人を遣わしてこう言いました。「我が息子よ、皆があなたに話しているように、他の比丘たちが女性と共にいるのを見たことがあるか。他の比丘たちは君のそばに女性がいるのを見るけれど、あなたは他の比丘たちのそばに女性の影を見ない。あなたが過去世でなした不善な行いの結果をあなたは知らない。今、なぜ女性の影があなたに付きまとうのかをお話ししよう。あなたは前の過去世でデーヴァだった。そのとき、互いにとても愛着がある2人の比丘がいました。しかし、あなたは女性に成りすまして比丘の一人に付きまとうことで2人の間にトラブルを起こそうとしました。その不善な行いのため今女性の影に付きまとわれているのです。私の息子よ、これからはもう他の比丘と論争しないように。ふちの割れた鐘のように沈黙を守りなさい。そうすれば涅槃を実現できるでしょう」。そしてブッダは次の偈を詠みました。
「荒々しいことばを言うな。言われた人々は汝に言い返すであろう。怒りを含んだことばは苦痛である。報復が汝の身に至るであろう。こわれた鐘のように、声をあららげないならば、汝は安らぎに達している。汝はもはや怒り罵ることがないからである。」

 

ダンマパダ 136
Atha papani kammani karam balo na bujjhati
sehi kammehi dummedho aggidaddhova tappati.

 

大蛇のペータの物語
祇園精舎に滞在しているときブッダは大蛇のペータ(餓鬼)に関してこの偈を詠みました。
モッガラーナ大長老がラッカナ長老と共に霊鷲山を下っていた時、大蛇のペータを見て微笑みましたが何も言いません。祇園精舎に戻ったとき、モッガラーナ大長老はブッダの前で胴体が燃えている大蛇のペータのことをラッカナ長老に話しました。ブッダは、悟りを開いたすぐ後にそのペータを見たが、それを話しても人々は信じないだろう。そうするとブッダに対して不善をすることになるので慈悲の思いから沈黙していた、と言いました。そして、今モッガラーナもそれを見たのだからこのペータについて話そう、と言いました。

 

このペータはカッサパ・ブッダの時代に泥棒であった。泥棒として、冷酷な心を持っていた彼は7回にわたり、ある金持ちの家に火をつけました。それだけでは満足せず、カッサパブッダが托鉢に行っている間、この金持ちがブッダにお布施したホールにも火を放ちました。この不善な行いの結果、彼は長いこと地獄で苦しむことになりました。いま彼はペータとしてその長い胴体を端から端まで炎で焼かれているのです。比丘たちよ、愚者は悪い行ないをしてもそれが悪だと分からない。しかしその結果からは逃れられない。そしてブッダは次の偈を詠みました。
「しかし愚かな者は、悪い行ないをしておきながら、気がつかない。浅はかな愚者は自分自身のしたことによって悩まされる。―火に焼きこがされた人のように。」

 

 

2019年4月 5日 (金)

4月経典学習会のお知らせ

4月の経典学習会は、4月14(日)に開催予定です。

4月14(日)13:30~17:00 
中板橋MCWA事務所
住所 板橋区仲町39-1 電話03-3973-3348 
予定

13:30より自主瞑想(法話は14時からですが、それまで自主的に瞑想しています)
14:00より経典の解説
16:00より質疑応答
17:00ころ終了

参加費無料
予約の必要はありません


内容:トゥ・ミンガラ比丘(Thu Mingala Bikkhu)によるダンマパダ(法句経)の解説です。

ダンマパダ(法句教)104,105、115偈

バラモン・アナタプッチャッカの物語

Atta have jitam seyyo ya cayam itara paja attadantassa posassa niccam sannatacarino.

Neva devo na gandhabbo na Maro saha Brahmuna jitam apajitam kayira tatharupassa jantuno.

「自己にうち克つことは、他の人々に勝つことよりもすぐれている。つねに行いをつつしみ、自己をととのえている人、――このような人の克ち得た勝利を敗北に転ずることは、神もガンダルヴァ(天の伎楽神)も、悪魔も、梵天もなすことができない。」

ある時、アナタプッチャッカというバラモンがブッダのところに来て言いました。「尊者よ、あなたは有益な実践については知っているが、不利益な実践については知らなと思います」と。 ブッダは、不利益なだけでなく有害な実践についても知っている、と答えました。 そして、財産の散逸をもたらす6つの行ないについて述べました。
(1)日が昇るまで寝ていること、 (2)習慣的な怠惰、(3)冷酷、(4)酔いどれや過失の原因となる薬・酒への耽溺、(5)とんでもない時間に街を徘徊すること、 (6)性的な不道徳。さらに、ブッダはバラモンに、いかに稼いでいるかを尋ねました。バラモンはサイコロによって、すなわち賭博によって生計を立てていると答えました。 次に、ブッダは彼が勝ったか負けたかを尋ねました。 バラモンは、時には負け、時には勝つと答えると、ブッダは彼にこう言いました。「サイコロ賭博の勝利は、煩悩に対する道徳的な勝利に比べたら何ほどのものでもありません」。

115   バフプッティカ尼の物語

Yo ca vassasatam jive apassam dhammamuttamam ekaham jivitam seyyo passato dhammamuttamam.

「最上の真理を見ないで百年生きるよりも、最上の真理を見て一日生きることのほうがすぐれている。」

サーヴァッティに、7人の息子と7人の娘たちと暮らす夫婦が住んでいました。 すべての子供たちは結婚し、家族はとてもうまくやっていました。
それから、父親が亡くなると、母親は子供たちに何も与えず、すべての財産を守りました。 息子と娘たちは遺産が欲しかったので、母親に言いました。「遺産からどんな利益が得られるでしょうか? それを増やして、母さんの面倒を見てはいけないでしょうか」 。彼らはそれを何度も繰り返して言ったので、母親は子供たちが自分の世話をしてくれると思いました。そして、最後には自分の分を少しも取らずに財産を分割しました。

遺産を分けてから、彼女は最初に長男の所へ行きました。長男の嫁は、「義母は、まるで二人分の遺産を渡したような顔をしてやってきて泊まっている」と小言を言いました。それでバフプッティカは次男の所へ行って泊まりましたが、ここでも同じことを言われました。 こうして、彼女は息子から息子、娘から娘へと渡り歩きました。しかし皆彼女が長く留まることを喜ばず、誰も彼女に敬意を払いませんでした。
老婦人は傷つき、子供たちににがい思いを抱き、家族を捨て比丘尼ななりました。 彼女にはたくさんの子供がいたので、バフプッティカ(子だくさん尼)として知られるようになりましたた。 バフプッティカは年老いてから比丘尼になったので、怠けてはいられないこと、残りの人生に最善を尽くさねばならないことを知っていました。それで一晩中、ブッダが教えてくれたダンマに従って瞑想しました。 ブッダは祇園精舎から神通力によって彼女を見、自ら輝きを出し、彼女の前に座っているように見えました。
それからブッダは彼女に言いました。 「私が教えたダンマを実践しないなら、たとえ百年生きたとしても役に立たない。」

 


1a



5月の予定:5月19日(日)
オバサ・セヤドーによる経典「大念住経・ 受に関する随観、心に関する随観」の解説。
テキストは、3月のお知らせをご参照ください。
http://parami-library.cocolog-nifty.com/blog/2019/03/3-3bde.html








2019年3月14日 (木)

3月経典学習会のお知らせ

3月の経典学習会は、3月31(日)に開催予定です。

3月31(日)13:30~17:00 
中板橋MCWA事務所
住所 板橋区仲町39-1 電話03-3973-3348 
 

予定

13:30より自主瞑想(法話は14時からですが、それまで自主的に瞑想しています)
14:00より経典の解説
16:00より質疑応答
17:00ころ終了

参加費無料
予約の必要はありません

内容:オバサ・セヤドーによる経典「大念住経・ 受に関する随観、心に関する随観」の解説。
テキストは、下記をご参照ください。

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4月の予定:4月14日(日)トゥ・ミンガラ比丘(Thu Mingala Bikkhu)によるダンマパダ(法句経)の解説です。

ダンマパダ(法句教)104,105、115偈
「自己にうち克つことは、他の人々に勝つことよりもすぐれている。つねに行いをつつしみ、自己をととのえている人、――このような人の克ち得た勝利を敗北に転ずることは、神もガンダルヴァ(天の伎楽神)も、悪魔も、梵天もなすことができない。」
「最上の真理を見ないで百年生きるよりも、最上の真理を見て一日生きることのほうがすぐれている。」
(岩波文庫「真理の言葉 感興のことば」中村元訳 より)


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受に関する随観  Vedanānupassanā

Kathaṃ ca pana, bhikkhave, bhikkhu vedanāsu vedanānupassī viharati?
Idha, bhikkhave, bhikkhu sukhaṃ vā vedanaṃ vedayamāno ‘sukhaṃ vedanaṃ vedayāmī’ ti pajānāti; dukkhaṃ vā vedanaṃ vedayamāno ‘dukkhaṃ vedanaṃ vedayāmī’ ti pajānāti; adukkhamasukhaṃ vā vedanaṃ vedayamāno ‘adukkhamasukhaṃ vedanaṃ vedayāmī’ ti pajānāti. Sāmisaṃ vā sukhaṃ vedanaṃ vedayamāno ‘sāmisaṃ sukhaṃ vedanaṃ vedayāmī’ ti pajānāti; nirāmisaṃ vā sukhaṃ vedanaṃ vedayamāno ‘nirāmisaṃ sukhaṃ vedanaṃ vedayāmī’ ti pajānāti. Sāmisaṃ vā dukkhaṃ vedanaṃ vedayamāno ‘sāmisaṃ dukkhaṃ vedanaṃ vedayāmī’ ti pajānāti; nirāmisaṃ vā dukkhaṃ vedanaṃ vedayamāno ‘nirāmisaṃ dukkhaṃ vedanaṃ vedayāmī’ ti pajānāti. Sāmisaṃ vā adukkhamasukhaṃ vedanaṃ vedayamāno ‘sāmisaṃ adukkhamasukhaṃ vedanaṃ vedayāmī’ ti pajānāti; nirāmisaṃ vā adukkhamasukhaṃ vedanaṃ vedayamāno ‘nirāmisaṃ adukkhamasukhaṃ vedanaṃ vedayāmī’ ti pajānāti.

 比丘たちよ、また比丘はどのようにして受において受を随観し続けるのか。ここに比丘たちよ、比丘は楽の受を感じれば、「私は楽の受を感じる」と知り、あるいは苦の受を感じれば、「私は苦の受を感じる」と知り、あるいは、「苦でもなく楽でもない」受を感じれば、「私は苦でもなく楽でもない受を感じる」と知る。 また欲に関する楽の受を感じれば、「私は欲に関する楽の受を感じる」と知り、あるいは無欲に関する楽の受を感じれば、「私は無欲に関する楽の受を感じる」と知る。また欲に関する苦の受を感じれば、「私は欲に関する苦の受を感じる」と知り、あるいは無欲に関する苦の受を感じれば、「私は無欲に関する苦の受を感じる」と知る。

 また欲に関する苦でもなく楽でもない受を感じれば、「私は欲に関する苦でもなく楽でもない受を感じる」と知り、あるいは無欲に関する苦でもなく楽でもない受を感じれば「私は無欲に関する苦でもなく楽でもない受を感じる」と知る。


Iti ajjhattaṃ vā vedanāsu vedanānupassī viharati, bahiddhā vā vedanāsu vedanānupassī viharati, ajjhattabahiddhā vā vedanāsu vedanānupassī viharati, samudayadhammānupassī vā vedanāsu viharati, vayadhammānupassī vā vedanāsu viharati, samudayavayadhammānupassī vā vedanāsu viharati, ‘atthi vedanā’ ti vā panassa sati paccupaṭṭhitā hoti. Yāvadeva ñāṇamattāya paṭissatimattāya anissito ca viharati, na ca kiñci loke upādiyati. Evaṃ pi kho, bhikkhave, bhikkhu vedanāsu vedanānupassī viharati.

 このように自己の受において受を随観し続け、あるいは他の受において受を随観し続げ、あるいは自他の受において受を随観し続ける。また受において(受を)生法なりと随観し続け、あるいは受において滅法なりと随観し続け、あるいは受において生滅の法なりと随観し続ける。

 そこで「受のみあり」との念が彼に起こる。それこそは智慧の(増大の)ため、念の(増大の)ためになる。彼は(愛着・誤った考えに)よることなく(随観し)続け、世の何ものにも執着しない。比丘たちよ。比丘はこのように受において受を随観し続けるのである。

                                   受に関する随観終り

心に関する随観  Cittānupassanā

Kathaṃ ca pana, bhikkhave, bhikkhu citte cittānupassī viharati?

Idha, bhikkhave, bhikkhu sarāgaṃ vā cittaṃ ‘sarāgaṃ cittaṃ’ ti pajānāti, vītarāgaṃ vā cittaṃ ‘vītarāgaṃ cittaṃ’ ti pajānāti, sadosaṃ vā cittaṃ ‘sadosaṃ cittaṃ’ ti pajānāti, vītadosaṃ vā cittaṃ ‘vītadosaṃ cittaṃ’ ti pajānāti, samohaṃ vā cittaṃ ‘samohaṃ cittaṃ’ ti pajānāti, vītamohaṃ vā cittaṃ ‘vītamohaṃ cittaṃ’ ti pajānāti, saṅkhittaṃ vā cittaṃ ‘saṅkhittaṃ cittaṃ’ ti pajānāti, vikkhittaṃ vā cittaṃ ‘vikkhittaṃ cittaṃ’ ti pajānāti, mahaggataṃ vā cittaṃ ‘mahaggataṃ cittaṃ’ ti pajānāti, amahaggataṃ vā cittaṃ ‘amahaggataṃ cittaṃ’ ti pajānāti, sa-uttaraṃ vā cittaṃ ‘sa-uttaraṃ cittaṃ’ ti pajānāti, anuttaraṃ vā cittaṃ ‘anuttaraṃ cittaṃ’ ti pajānāti, samāhitaṃ vā cittaṃ ‘samāhitaṃ cittaṃ’ ti pajānāti, asamāhitaṃ vā cittaṃ ‘asamāhitaṃ cittaṃ’ ti pajānāti, vimuttaṃ vā cittaṃ ‘vimuttaṃ cittaṃ’ ti pajānāti, avimuttaṃ vā cittaṃ ‘avimuttaṃ cittaṃ’ ti pajānāti.

Iti ajjhattaṃ vā citte cittānupassī viharati, bahiddhā vā citte cittānupassī viharati, ajjhattabahiddhā vā citte cittānupassī viharati, samudayadhammānupassī vā cittasmiṃ viharati, vayadhammānupassī vā cittasmiṃ viharati, samudayavayadhammānupassī vā cittasmiṃ viharati, ‘atthi cittaṃ’ ti vā panassa sati paccupaṭṭhitā hoti. Yāvadeva ñāṇamattāya paṭissatimattāya anissito ca viharati, na ca kiñci loke upādiyati. Evaṃ pi kho, bhikkhave, bhikkhu citte cittānupassī viharati.

 比丘たちよ。また比丘はどのようにして心において心を随観し続けるのか。ここに比丘たちよ。比丘は貪りのある心を「貪りのある心」と知り、あるいは貪りのない心を「貪りのない心」と知る。あるいは怒りのある心を「怒りのある心」と知り、あるいは怒りのない心を「怒りのない心」と知る。あるいは愚鈍な心を「愚鈍な心」と知り、あるいは愚鈍でない心を「愚でない心」と知る。また薄弱な心を「薄弱な心」と知り。あるいは散乱した心を「散乱した心」と知る。また大心を「大心」と知り、あるいは小心を「小心」と知る。また有上心を「有上心」と知り、あるいは無上心を「無上心」と知る。また定心を「定心」と知り。あるいは無定心を「無定心」と知る。また解脱心を「解脱心」と知り、あるいは不解脱心を「不解脱心」と知る。

 このように自己の心において心を随観し続け、あるいは他の心において心を随観し続け、あるいぱ自他の心において心を随観し続ける。また心において(心を)生法なりと随観し続け、 あるいは心において滅法なりと随観し続け、あるいは心において生滅の法なりと随観し続ける。

そこで「心のみあり」との念が彼に起こる。それこそは智慧の(増大の)ため、念の(増大の)ためになる。彼は(愛着・誤った考えに)よることなく(随観し)続け、世の何ものにも執着しない。比丘たちよ。比丘はこのように心において心を随観し続けるのである。

                                心に関する随観終り





2018年12月13日 (木)

1月経典学習会のお知らせ

1月の経典学習会は、1月13(日)に開催予定です。

1月13(日)13:30~17:00 
中板橋MCWA事務所
住所 板橋区仲町39-1 電話03-3973-3348 
 

予定

13:30より自主瞑想(法話は14時からですが、それまで自主的に瞑想しています)
14:00より経典の解説
16:00より質疑応答
17:00ころ終了

参加費無料
予約の必要はありません

1

内容:オバサ・セヤドーによる経典「大念住経・ 受に関する随観、心に関する随観」の解説。

2月の予定:2月10日(日)トゥ・ミンガラ比丘(Thu Mingala Bikkhu)によるダンマパダ(法句経)の解説です。

ダンマパダ(法句教)104,105、115偈
「自己にうち克つことは、他の人々に勝つことよりもすぐれている。つねに行いをつつしみ、自己をととのえている人、――このような人の克ち得た勝利を敗北に転ずることは、神もガンダルヴァ(天の伎楽神)も、悪魔も、梵天もなすことができない。」
「最上の真理を見ないで百年生きるよりも、最上の真理を見て一日生きることのほうがすぐれている。」
(岩波文庫「真理の言葉 感興のことば」中村元訳 より)


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受に関する随観  Vedanānupassanā

Kathaṃ ca pana, bhikkhave, bhikkhu vedanāsu vedanānupassī viharati?
Idha, bhikkhave, bhikkhu sukhaṃ vā vedanaṃ vedayamāno ‘sukhaṃ vedanaṃ vedayāmī’ ti pajānāti; dukkhaṃ vā vedanaṃ vedayamāno ‘dukkhaṃ vedanaṃ vedayāmī’ ti pajānāti; adukkhamasukhaṃ vā vedanaṃ vedayamāno ‘adukkhamasukhaṃ vedanaṃ vedayāmī’ ti pajānāti. Sāmisaṃ vā sukhaṃ vedanaṃ vedayamāno ‘sāmisaṃ sukhaṃ vedanaṃ vedayāmī’ ti pajānāti; nirāmisaṃ vā sukhaṃ vedanaṃ vedayamāno ‘nirāmisaṃ sukhaṃ vedanaṃ vedayāmī’ ti pajānāti. Sāmisaṃ vā dukkhaṃ vedanaṃ vedayamāno ‘sāmisaṃ dukkhaṃ vedanaṃ vedayāmī’ ti pajānāti; nirāmisaṃ vā dukkhaṃ vedanaṃ vedayamāno ‘nirāmisaṃ dukkhaṃ vedanaṃ vedayāmī’ ti pajānāti. Sāmisaṃ vā adukkhamasukhaṃ vedanaṃ vedayamāno ‘sāmisaṃ adukkhamasukhaṃ vedanaṃ vedayāmī’ ti pajānāti; nirāmisaṃ vā adukkhamasukhaṃ vedanaṃ vedayamāno ‘nirāmisaṃ adukkhamasukhaṃ vedanaṃ vedayāmī’ ti pajānāti.

 比丘たちよ、また比丘はどのようにして受において受を随観し続けるのか。ここに比丘たちよ、比丘は楽の受を感じれば、「私は楽の受を感じる」と知り、あるいは苦の受を感じれば、「私は苦の受を感じる」と知り、あるいは、「苦でもなく楽でもない」受を感じれば、「私は苦でもなく楽でもない受を感じる」と知る。 また欲に関する楽の受を感じれば、「私は欲に関する楽の受を感じる」と知り、あるいは無欲に関する楽の受を感じれば、「私は無欲に関する楽の受を感じる」と知る。また欲に関する苦の受を感じれば、「私は欲に関する苦の受を感じる」と知り、あるいは無欲に関する苦の受を感じれば、「私は無欲に関する苦の受を感じる」と知る。

 また欲に関する苦でもなく楽でもない受を感じれば、「私は欲に関する苦でもなく楽でもない受を感じる」と知り、あるいは無欲に関する苦でもなく楽でもない受を感じれば「私は無欲に関する苦でもなく楽でもない受を感じる」と知る。

Iti ajjhattaṃ vā vedanāsu vedanānupassī viharati, bahiddhā vā vedanāsu vedanānupassī viharati, ajjhattabahiddhā vā vedanāsu vedanānupassī viharati, samudayadhammānupassī vā vedanāsu viharati, vayadhammānupassī vā vedanāsu viharati, samudayavayadhammānupassī vā vedanāsu viharati, ‘atthi vedanā’ ti vā panassa sati paccupaṭṭhitā hoti. Yāvadeva ñāṇamattāya paṭissatimattāya anissito ca viharati, na ca kiñci loke upādiyati. Evaṃ pi kho, bhikkhave, bhikkhu vedanāsu vedanānupassī viharati.

 このように自己の受において受を随観し続け、あるいは他の受において受を随観し続げ、あるいは自他の受において受を随観し続ける。また受において(受を)生法なりと随観し続け、あるいは受において滅法なりと随観し続け、あるいは受において生滅の法なりと随観し続ける。

 そこで「受のみあり」との念が彼に起こる。それこそは智慧の(増大の)ため、念の(増大の)ためになる。彼は(愛着・誤った考えに)よることなく(随観し)続け、世の何ものにも執着しない。比丘たちよ。比丘はこのように受において受を随観し続けるのである。

                                   受に関する随観終り

心に関する随観  Cittānupassanā

Kathaṃ ca pana, bhikkhave, bhikkhu citte cittānupassī viharati?
Idha, bhikkhave, bhikkhu sarāgaṃ vā cittaṃ ‘sarāgaṃ cittaṃ’ ti pajānāti, vītarāgaṃ vā cittaṃ ‘vītarāgaṃ cittaṃ’ ti pajānāti, sadosaṃ vā cittaṃ ‘sadosaṃ cittaṃ’ ti pajānāti, vītadosaṃ vā cittaṃ ‘vītadosaṃ cittaṃ’ ti pajānāti, samohaṃ vā cittaṃ ‘samohaṃ cittaṃ’ ti pajānāti, vītamohaṃ vā cittaṃ ‘vītamohaṃ cittaṃ’ ti pajānāti, saṅkhittaṃ vā cittaṃ ‘saṅkhittaṃ cittaṃ’ ti pajānāti, vikkhittaṃ vā cittaṃ ‘vikkhittaṃ cittaṃ’ ti pajānāti, mahaggataṃ vā cittaṃ ‘mahaggataṃ cittaṃ’ ti pajānāti, amahaggataṃ vā cittaṃ ‘amahaggataṃ cittaṃ’ ti pajānāti, sa-uttaraṃ vā cittaṃ ‘sa-uttaraṃ cittaṃ’ ti pajānāti, anuttaraṃ vā cittaṃ ‘anuttaraṃ cittaṃ’ ti pajānāti, samāhitaṃ vā cittaṃ ‘samāhitaṃ cittaṃ’ ti pajānāti, asamāhitaṃ vā cittaṃ ‘asamāhitaṃ cittaṃ’ ti pajānāti, vimuttaṃ vā cittaṃ ‘vimuttaṃ cittaṃ’ ti pajānāti, avimuttaṃ vā cittaṃ ‘avimuttaṃ cittaṃ’ ti pajānāti.

Iti ajjhattaṃ vā citte cittānupassī viharati, bahiddhā vā citte cittānupassī viharati, ajjhattabahiddhā vā citte cittānupassī viharati, samudayadhammānupassī vā cittasmiṃ viharati, vayadhammānupassī vā cittasmiṃ viharati, samudayavayadhammānupassī vā cittasmiṃ viharati, ‘atthi cittaṃ’ ti vā panassa sati paccupaṭṭhitā hoti. Yāvadeva ñāṇamattāya paṭissatimattāya anissito ca viharati, na ca kiñci loke upādiyati. Evaṃ pi kho, bhikkhave, bhikkhu citte cittānupassī viharati.

 比丘たちよ。また比丘はどのようにして心において心を随観し続けるのか。ここに比丘たちよ。比丘は貪りのある心を「貪りのある心」と知り、あるいは貪りのない心を「貪りのない心」と知る。あるいは怒りのある心を「怒りのある心」と知り、あるいは怒りのない心を「怒りのない心」と知る。あるいは愚鈍な心を「愚鈍な心」と知り、あるいは愚鈍でない心を「愚でない心」と知る。また薄弱な心を「薄弱な心」と知り。あるいは散乱した心を「散乱した心」と知る。また大心を「大心」と知り、あるいは小心を「小心」と知る。また有上心を「有上心」と知り、あるいは無上心を「無上心」と知る。また定心を「定心」と知り。あるいは無定心を「無定心」と知る。また解脱心を「解脱心」と知り、あるいは不解脱心を「不解脱心」と知る。

 このように自己の心において心を随観し続け、あるいは他の心において心を随観し続け、あるいぱ自他の心において心を随観し続ける。また心において(心を)生法なりと随観し続け、 あるいは心において滅法なりと随観し続け、あるいは心において生滅の法なりと随観し続ける。
そこで「心のみあり」との念が彼に起こる。それこそは智慧の(増大の)ため、念の(増大の)ためになる。彼は(愛着・誤った考えに)よることなく(随観し)続け、世の何ものにも執着しない。比丘たちよ。比丘はこのように心において心を随観し続けるのである。
 
                                 心に関する随観終り





2018年11月28日 (水)

12月経典学習会のお知らせ

12月の経典学習会は、12月9(日)に開催予定です。
12月9(日)13:30~17:00 
中板橋MCWA事務所
住所 板橋区仲町39-1 電話03-3973-3348 
 
予定

13:30より自主瞑想(法話は14時からですが、それまで自主的に瞑想しています)
14:00より経典の解説
16:00より質疑応答
17:00ころ終了

参加費無料
予約の必要はありません

内容:(日)トゥ・ミンガラ比丘(Thu Mingala Bikkhu)によるダンマパダ(法句経)の解説です。
ダンマパダ(法句教)90、92偈
「すでに(人生の)旅路を終え、憂いをはなれ、あらゆることがらにくつろいで、あらゆる束縛の絆をのがれた人には、悩みは存在しない。」
「財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無想であるならば、かれらのゆくみち(=足跡)は知り難い。―空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。」

P14

1月の予定 1月13日(日)

オバサ・セヤドーによる経典「大念住経・ 受に関する随観、心に関する随観」の解説。
テキスト「大念住経」については、ブログ「オバサ・セヤドー2月学習会」をご覧ください。
(http://parami-library.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/index.html#entry-111591543)






より以前の記事一覧

2012/8 宝台樹高原

  • 6
    8月に合宿の行われたみなかみ町藤原は宝台樹山のふもとにあり、冬はスキー場になる高原風ののどかな村です。

2009年クムダ・セヤドーのお寺 

  • 10 セヤドーのお話を聞く
    ミャンマー・ヤンゴン市郊外モービにあるクムダ・セヤドーの瞑想センターを訪ねた方が写真を送ってくださいました。 シーマホールも完成し、そこには富士山をバックにした仏像がまつられています。

2008/8 水上合宿

  • 雨上がり
    8月に合宿の行われた水上町藤原はまさに水の里。民宿周辺の風景をお届けします。

2008 夏の風景

  • 朝霧の沢
    夏の暑い日、川の源流では入道雲が湧き、山や木々は様々な表情を見せていました。

2008/7 関西合宿・瞑想会

  • 延命寺三門にて
    大阪、河内長野市にある延命寺は弘法大師空海が開基と伝えられ、市の紅葉名所にもなっている美しいお寺です。 ここで7月、クムダ・セヤドーをお招きして一週間の瞑想合宿が開かれました。
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