オバサ・セヤドー経典学習

2017年10月16日 (月)

オバサ・セヤドー11月経典学習会のお知らせ

11月の学習会は、11月5(日)に開催予定です。

11月5(日)13:30~17:00 
中板橋MCWA事務所
住所 板橋区仲町39-1 電話03-3973-3348 

Photo

 
予定
13:30より自主瞑想(法話は14時からですが、それまで自主的に瞑想しています)
14:00よりセヤドーの解説
16:00より質疑応答
17:00ころ終了

参加費無料
予約の必要はありません
内容:経典「大念住経・不浄観察の部」続き
テキスト「大念住経」については、ブログ「オバサ・セヤドー2月学習会」をご覧ください。
(http://parami-library.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/index.html#entry-111591543)




2017年9月11日 (月)

オバサ・セヤドー10月経典学習会のお知らせ

10の学習会は、10月15(日)に開催予定です。
10月15(日)13:30~17:00 
中板橋MCWA事務所
住所 板橋区仲町39-1 電話03-3973-3348 
 
予定
13:30より自主瞑想(法話は14時からですが、それまで自主的に瞑想しています)
14:00よりセヤドーの解説
16:00より質疑応答
17:00ころ終了

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参加費無料
予約の必要はありません
内容:経典「大念住経・不浄観察の部」
テキスト「大念住経」については、当ブログ「オバサ・セヤドー2月学習会」をご覧ください。
(http://parami-library.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/index.html#entry-111591543)




2017年8月23日 (水)

オバサ・セヤドー9月経典学習会のお知らせ

9月の学習会は、9月10(日)に開催予定です。

9月10(日)13:30~17:00 
中板橋MCWA事務所
住所 板橋区仲町39-1 電話03-3973-3348 

Mcwamap
 
予定

13:30より自主瞑想(法話は14時からですが、それまで自主的に瞑想しています)
14:00よりセヤドーの解説
16:00より質疑応答
17:00ころ終了

参加費無料
予約の必要はありません

内容:経典「大念住経・不浄観察の部」
テキスト「大念住経」については、当ブログ「オバサ・セヤドー2月学習会」をご覧ください。
(http://parami-library.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/index.html#entry-111591543)

     オバサ・セヤドー学習会事務局

2017年7月30日 (日)

オバサ・セヤドー8月学習会のお知らせ

8月の学習会は、8月20(日)に開催予定です。
(当初27日の予定でしたが、都合により20日になりました)

8月20(日)13:30~17:00 
中板橋MCWA事務所
住所 板橋区仲町39-1 電話03-3973-3348 
 
予定
13:30より自主瞑想(法話は14時からですが、それまで自主的に瞑想しています)
14:00よりセヤドーの解説
16:00より質疑応答
17:00終了

参加費無料
予約の必要はありません

内容:経典「大念住経・不浄観察の部」
テキスト「大念住経」については、ブログ「オバサ・セヤドー2月学習会」をご覧ください。
(http://parami-library.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/index.html#entry-111591543)

Mcwamap

2017年6月30日 (金)

オバサ・セヤドー7月学習会のお知らせ

7月の学習会は、7月9(日)に開催予定です。

7月9(日)13:30~17:00 
中板橋MCWA事務所
住所 板橋区仲町39-1 電話03-3973-3348 
 

予定

13:30より自主瞑想(法話は14時からですが、それまで自主的に瞑想しています)
14:00よりセヤドーの解説
16:00より質疑応答
17:00終了

参加費無料
予約の必要はありません

内容:経典「大念住経・不浄観察の部」よりお話しいただきます。
テキスト「大念住経」については、当ブログ「オバサ・セヤドー2月学習会」をご覧ください。
(http://parami-library.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/index.html#entry-111591543)

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2017年5月11日 (木)

オバサ・セヤドー6月学習会のお知らせ

5月の学習会は、セヤドーがミャンマーへ帰国されるためにお休みです。
6月の学習会は、6月11(日)に開催予定です。

6月11(日)13:00~17:00 
中板橋MCWA事務所
住所 板橋区仲町39-1 電話03-3973-3348 
 

予定

13:00より自主瞑想(法話は14時からですが、それまで自主的に瞑想しています)
14:00よりセヤドーの解説
16:00より質疑応答
17:00終了

参加費無料
予約の必要はありません

内容:経典「大念住経・正しい意識の部」よりお話しいただきます。
テキスト「大念住経」については、ブログ「オバサ・セヤドー2月学習会」をご覧ください。
(http://parami-library.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/index.html#entry-111591543)

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MCWA事務所近くの石神井川・桜

    オバサ・セヤドー学習会事務局

2017年4月16日 (日)

オバサ・セヤドー4月学習会のお知らせ

4月の学習会は、4月23(日)に開催予定です。
4月23(日)13:00~17:00 
中板橋MCWA事務所
住所 板橋区仲町39-1 電話03-3973-3348 

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予定

13:00より自主瞑想(法話は14時からですが、それまで自主的に瞑想しています)
14:00よりセヤドーの解説
16:00より質疑応答
17:00終了

参加費無料
予約の必要はありません
内容:経典「大念住経・威儀の部」より。
テキスト「大念住経」については、ブログ「オバサ・セヤドー2月学習会」をご覧ください。
(http://parami-library.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/index.html#entry-111591543)

2017年2月27日 (月)

オバサ・セヤドー3月学習会

3月の学習会は、3月12(日)に開催予定です。

3月12(日)13:00~17:00 
中板橋MCWA事務所
住所 板橋区仲町39-1 電話03-3973-3348 
 
予定
13:00より自主瞑想(法話は14時からですが、それまで自主的に瞑想しています)
14:00よりセヤドーの解説
16:00より質疑応答
17:00終了

参加費無料
予約の必要はありません

内容:引き続き「大念住経」についてお話しいただきます。
テキストは当ブログ2月のお知らせをご覧ください。

2017年2月 3日 (金)

オバサ・セヤドー2月学習会のお知らせ

2月の学習会は、2月12(日)に開催予定です。

2月12(日)13:00~17:00 
中板橋MCWA事務所
住所 板橋区仲町39-1 電話03-3973-3348 
 
予定
13:00より自主瞑想(法話は14時からですが、それまで自主的に瞑想しています)
14:00よりセヤドーの解説
16:00より質疑応答
17:00終了

参加費無料
予約の必要はありません

内容:今回より「大念住経」についてお話しいただきます。
「大念住経」はヴィパッサナー瞑想の基本ともいうべきもので、身受心法の順に観察し気づきを得る方法が語られています。

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大念住経(Mahāsatipaṭṭhāna sutta) (ウ・ウェープッラ長老訳)
①身に関する随観

Evaṃ me sutaṃ.
Ekaṃ samayaṃ bhagavā kurūsu viharati kammāsadhammaṃ nāma kurūnaṃ nigamo. Tatra kho bhagavā bhikkhū āmantesi, ‘Bhikkhavo’ ti. ‘Bhaddante’ ti te bhikkhū bhagavato paccassosuṃ. Bhagavā etadavoca:

私はこのように聞きました。―
 ある時、世尊はクル国のカンマーサダンマというクル人の町に住んでおられよした。そこで 世尊は比丘たちに、「比丘たちよ」と話しかけられました。彼らが「尊師よ」と世尊に答えると、世尊は次のように説かれました。

Ekāyano ayaṃ, bhikkhave, maggo sattānaṃ visuddhiyā, sokaparidevānaṃ samatikkamāya, dukkhadomanassānaṃ atthaṅgamāya, ñāyassa adhigamāya, nibbānassa sacchikiriyāya, yadidaṃ cattāro satipaṭṭhānā.
Katame cattāro? Idha, bhikkhave, bhikkhu kāye kāyānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā, vineyya loke abhijjhādomanassaṃ. Vedanāsu vedanānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā, vineyya loke abhijjhādomanassaṃ. Citte cittānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā, vineyya loke abhijjhādomanassaṃ. Dhammesu dhammānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā, vineyya loke abhijjhādomanassaṃ.

比丘たちよ、この道は有情を清め、心配・悲泣をのり越え、苦しみ・憂いを滅し。聖なる道を得、涅槃を見るための一道である。これは四つの念住である。
 四つとは何か。ここに比丘たちよ、比丘が努力し、正しく知り、念をもって(身に関する)世間の貪り・憂いを調伏し。身において身を随観し続ける。努力し、正しく知り、念をもって(受に関する)世間の貪り・憂いを調伏し、受において受を随観し続ける。努力し、正しく知り、念をもって(心に関する)世間の貪り・憂いを調伏し、心において心を随観し続ける。努力し、正しく知り、念をもって(法に関する)世間の貪り・憂いを調伏し、法において法を随観し続けることである。

Kāyānupassanā  身に関する随観 
Ānāpānapabbaṃ 出息・入息の部

Kathaṃ ca pana, bhikkhave, bhikkhu kāye kāyānupassī viharati?
Idha, bhikkhave, bhikkhu araññagato vā rukkhamūlagato vā suññāgāragato vā nisīdati pallaṅkaṃ ābhujitvā, ujuṃ kāyaṃ paṇidhāya, parimukhaṃ satiṃ upaṭṭhapetvā. So sato va assasati, sato va passasati. Dīghaṃ vā assasanto ‘dīghaṃ assasāmī’ ti pajānāti, dīghaṃ vā passasanto ‘dīghaṃ passasāmī’ ti pajānāti. Rassaṃ vā assasanto ‘rassaṃ assasāmī’ ti pajānāti, rassaṃ vā passasanto ‘rassaṃ passasāmī’ ti pajānāti. ‘Sabbakāyapaṭisaṃvedī assasissāmī’ ti sikkhati, ‘sabbakāyapaṭisaṃvedī passasissāmī’ ti sikkhati. ‘Passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ assasissāmī’ ti sikkhati, ‘passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ passasissāmī’ ti sikkhati.

比丘たちよ、では比丘はどのようにして身において身を随観し続けるのか。ここに比丘たちよ、比丘は森に行き、あるいは樹下に行き、あるいは静かな所に行って結跏し、身体をまっすぐにして念を(身などの)対象に向げて集中させる。そして正しい念をもって出息し、正しい念をもって入息する。長く出息すれば「私は長く出息する」と知り、あるいは長く入息すれば 「私は長く入息する」と知る。
あるいは短く出息すれば「私は短く出息する」と知り。あるいは短く入息すれば「私は短く入息する」と知る。
「全身を明確に知って私は出息しよう」と努め。「全身を明確に知って私は入息しよう」と努める。「身行を静めて私は出息しよう」と努め、「身行を静めて私は入息しよう」と努める。

Seyyathāpi, bhikkhave, dakkho bhamakāro vā bhamakārantevāsī vā dīghaṃ vā añchanto ‘dīghaṃ añchāmī’ ti pajānāti, rassaṃ vā añchanto ‘rassaṃ añchāmī’ ti pajānāti. Evameva kho, bhikkhave, bhikkhu dīghaṃ vā assasanto ‘dīghaṃ assasāmī’ ti pajānāti, dīghaṃ vā passasanto ‘dīghaṃ passasāmī’ ti pajānāti, rassaṃ vā assasanto ‘rassaṃ assasāmī’ ti pajānāti, rassaṃ vā passasanto ‘rassaṃ passasāmī’ ti pajānāti. ‘Sabbakāyapaṭisaṃvedī assasissāmī’ ti sikkhati, ‘sabbakāyapaṭisaṃvedī passasissāmī’ ti sikkhati, ‘passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ assasissāmī’ ti sikkhati, ‘passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ passasissāmī’ ti sikkhati.

比丘たちよ、例えば熟練した轆轤(ろくろ)工、あるいはその弟子は(轆轤のひもを)長く引っぱれば 「私は長く引っぱる」と知り。短く引っぱれば「私は短く引っぱる」と知る。
 比丘たちよ、このように比丘は長く出息すれば「私は長く出息する」と知り、あるいは長く入息すれば「私は長く入息する」と知る。或いは短く出息すれば「私は短く出息する」と知り、あるいは短く入息すれば「私は短く入息する」と知る。「全身を明確に知って私は出息しよう」 と努め、「全身を明確に知って私は入息しよう」と努める。「身行を静めて私は出息しよう」と 努め。「身行を静めて私は入息しよう」と努める。

Iti ajjhattaṃ vā kāye kāyānupassī viharati, bahiddhā vā kāye kāyānupassī viharati, ajjhattabahiddhā vā kāye kāyānupassī viharati, samudayadhammānupassī vā kāyasmiṃ viharati, vayadhammānupassī vā kāyasmiṃ viharati, samudayavayadhammānupassī vā kāyasmiṃ viharati, ‘atthi kāyo’ ti vā panassa sati paccupaṭṭhitā hoti. Yāvadeva ñāṇamattāya paṭissatimattāya anissito ca viharati, na ca kiñci loke upādiyati. Evaṃ pi kho, bhikkhave, bhikkhu kāye kāyānupassī viharati.

このように、自己の身において身を随観し続け、あるいは他の身において身を随観し続け、あるいは自他の身において身を随観し続ける。また身において(身を)生法なりと随観し続け、あるいは身において滅法なりと随観し続け、あるいは身において生滅の法なりと随観し続ける。
 そこで「身(呼吸)のみあり」との念が彼に起こる。それこそは智慧の(増大の)ため、念の部(増大の)ためになる。彼は(愛着・誤った考えに)よることなく(随観し)続け、世の何ものにも執着しない。比丘たちよ。比丘はこのように身において身を随観し続けるのである。   

Iriyāpathapabbaṃ   威儀の部  

Puna caparaṃ, bhikkhave, bhikkhu gacchanto vā ‘gacchāmī’ ti pajānāti, ṭhito vā ‘ṭhitomhī’ ti pajānāti, nisinno vā ‘nisinnomhī’ ti pajānāti, sayāno vā ‘sayānomhī’ ti pajānāti. Yathā yathā vā panassa kāyo paṇihito hoti, tathā tathā naṃ pajānāti.
Iti ajjhattaṃ vā kāye kāyānupassī viharati, bahiddhā vā kāye kāyānupassī viharati, ajjhattabahiddhā vā kāye kāyānupassī viharati, samudayadhammānupassī vā kāyasmiṃ viharati, vayadhammānupassī vā kāyasmiṃ viharati, samudayavayadhammānupassī vā kāyasmiṃ viharati, ‘atthi kāyo’ ti vā panassa sati paccupaṭṭhitā hoti. Yāvadeva ñāṇamattāya paṭissatimattāya anissito ca viharati, na ca kiñci loke upādiyati. Evaṃ pi kho, bhikkhave, bhikkhu kāye kāyānupassī viharati.

比丘たちよ、次にまた比丘は、歩いている時は「私は歩いている」と知り、あるいは立っている時は「私は立っている」と知り、あるいは坐っている時は「私は坐っている」と知り。あるいは臥している時は「私は臥している」と知る。あるいはまた。彼の身体は(行・住・坐・臥の)どのような状態にあっても、それをあるがままに知る。
 このように自己の身において身を随観し続け、あるいは他の身において身を随観し続け、あるいは自他の身において身を随観し続ける。また身において(身を)生法なりと随観し続け、あるいは身において滅法なりと随観じ続け、あるいは身において生滅の法なりと随観し続ける。
そこで、「身のみあり」との念が彼に起こる、それこそは智慧の(増大の)ため、念の(増大の)ためになる。彼は(愛着・誤った考えに)よることなく(随観し)続け、世の何ものにも執着しない。比丘たちよ、比丘はこのように身において身を随観し続けるのである。

Sampajānapabbaṃ 正しい意識の部

Puna caparaṃ, bhikkhave, bhikkhu abhikkante paṭikkante sampajānakārī hoti, ālokite vilokite sampajānakārī hoti, samiñjite pasārite sampajānakārī hoti, saṅghāṭipattacīvaradhāraṇe sampajānakārī hoti, asite pīte khāyite sāyite sampajānakārī hoti, uccārapassāvakamme sampajānakārī hoti, gate ṭhite nisinne sutte jāgarite bhāsite tuṇhībhāve sampajānakārī hoti.
Iti ajjhattaṃ vā kāye kāyānupassī viharati, …Evaṃ pi kho, bhikkhave, bhikkhu kāye kāyānupassī viharati.

比丘たちよ、次にまた比丘は進むにも戻るにも正しく意識し、前を見るにも後を見るにも正しく意識し、屈むにも伸びるにも正しく意識し、 鉢・重衣・上下衣を扱うにも正しく意識し、食べ、 飲汽噛み.嘗めるにも正しく意識し、大、小便をするにも正しく意識し.行き、立ち、坐り、眠り、覚め、語り、黙るにも正しく意識する。このように自己の……略。比丘たちよ、比丘はこのように身において身を随観し続けるのである。  

Paṭikūlamanasikārapabbaṃ  不浄観察の部

Puna caparaṃ, bhikkhave, bhikkhu imameva kāyaṃ, uddhaṃ pādatalā adho kesamatthakā, tacapariyantaṃ pūraṃ nānappakārassa asucino paccavekkhati: ‘Atthi imasmiṃ kāye kesā lomā nakhā dantā taco maṃsaṃ nhāru aṭṭhi aṭṭhimiñjaṃ vakkaṃ hadayaṃ yakanaṃ kilomakaṃ pihakaṃ papphāsaṃ antaṃ antaguṇaṃ udariyaṃ karīsaṃ pittaṃ semhaṃ pubbo lohitaṃ sedo medo assu vasā kheḷo siṅghāṇikā lasikā muttaṃ’ ti.

 比丘たちよ、次にまた比丘は足の裏より上、髪の先より下、皮膚に覆われた種々の不浄で充満しているこの身を観察する。「この身体に、髪、毛、爪、歯、皮、肉、筋、骨、髄、腎臓、心臓、肝臓、肋膜、牌臓、肺臓、胃、腸、胃の中の食物、大便、胆汁、痰、膿汁、血、汗、脂、肪、涙、血精、唾、鼻汁、関節滑液、頭中の脳漿、小便がある」と。

Seyyathāpi, bhikkhave, ubhatomukhā putoḷi pūrā nānāvihitassa dhaññassa, seyyathidaṃ sālīnaṃ vīhīnaṃ muggānaṃ māsānaṃ tilānaṃ taṇḍulānaṃ. Tamenaṃ cakkhumā puriso muñcitvā paccavekkheyya: ‘Ime sālī ime vīhī, ime muggā, ime māsā, ime tilā, ime taṇḍulā’ ti; evameva kho, bhikkhave, bhikkhu imameva kāyaṃ, uddhaṃ pādatalā adho kesamatthakā, tacapariyantaṃ pūraṃ nānappakārassa asucino paccavekkhati: ‘Atthi imasmiṃ kāye kesā lomā nakhā dantā taco maṃsaṃ nhāru aṭṭhi aṭṭhimiñjaṃ vakkaṃ hadayaṃ yakanaṃ kilomakaṃ pihakaṃ papphāsaṃ antaṃ antaguṇaṃ udariyaṃ karīsaṃ pittaṃ semhaṃ pubbo lohitaṃ sedo medo assu vasā kheḷo siṅghāṇikā lasikā muttaṃ’ ti.

比丘たちよ。(それは)ちょうど両方に口のある袋が種々の穀物、即ち、サーリ籾(もみ)米、ヴィーヒ籾米、緑豆、そら豆、胡麻。米で充満しているようなものである。眼ある人はそれを開けて「これらはサーリ籾米。これらはヴ″ィーヒ籾米、これらは緑豆、これらはそら豆、これらは胡麻、これらは米である」と観察するであろう。

Iti ajjhattaṃ vā kāye kāyānupassī viharati, bahiddhā vā kāye kāyānupassī viharati, ajjhattabahiddhā vā kāye kāyānupassī viharati, samudayadhammānupassī vā kāyasmiṃ viharati, vayadhammānupassī vā kāyasmiṃ viharati, samudayavayadhammānupassī vā kāyasmiṃ viharati, ‘atthi kāyo’ ti vā panassa sati paccupaṭṭhitā hoti. Yāvadeva ñāṇamattāya paṭissatimattāya anissito ca viharati, na ca kiñci loke upādiyati. Evaṃ pi kho, bhikkhave, bhikkhu kāye kāyānupassī viharati.

比丘たちよ、このように比丘は足の裏より上、髪の先より下、皮膚に覆われた種々の不浄で充満しているこの身を観察する。「この身に髪、毛、乃至頭中の脳漿がある」と。このように自己の……略。比丘たちよ。比丘はこのように身において身を随観し続けるのである。

Dhātumanasikārapabbaṃ 要素観察の部

Puna caparaṃ, bhikkhave, bhikkhu imameva kāyaṃ yathāṭhitaṃ yathāpaṇihitaṃ dhātuso paccavekkhati: ‘Atthi imasmiṃ kāye pathavīdhātu āpodhātu tejodhātu vāyodhātū’ ti.
比丘たちよ、次にまた比丘はこの身をあるがまま、その状態のままに要素にしたがって観察する。「この身に地の要素、水の要素、火の要素、風の要素がある」と。

Seyyathāpi, bhikkhave, dakkho goghātako vā goghātakantevāsī vā gāviṃ vadhitvā catumahāpathe bilaso vibhajitvā nisinno assa; evameva kho, bhikkhave, bhikkhu imameva kāyaṃ yathāṭhitaṃ yathāpaṇihitaṃ dhātuso paccavekkhati: ‘Atthi imasmiṃ kāye pathavīdhātu āpodhātu tejodhātu vāyodhātū’ ti.

比丘たちよ。(それは)ちょうど熟練した屠牛者、またはその弟子が牛を殺し。大きな四辻で(肉を四方に)分配して坐っているようなものである。比丘たちよ、実にそのように比丘はこの身をあるがまま、その状態のままに要素にしたがって観察する。「この身に地の要素、水の要素、火の要素、風の要素がある」と。このように自己の身において身を随観し続ける。

Evaṃ pi kho, bhikkhave, bhikkhu kāye kāyānupassī viharati.
……略。比丘たちよ、比丘はこのように身において身を随観し続けるのである。

Navasivathikapabbaṃ 九種の墓場の部

Puna caparaṃ, bhikkhave, bhikkhu seyyathāpi passeyya sarīraṃ sivathikāya chaḍḍitaṃ ekāhamataṃ vā dvīhamataṃ vā tīhamataṃ vā uddhumātakaṃ vinīlakaṃ vipubbakajātaṃ. So imameva kāyaṃ upasaṃharati: ‘ayaṃ pi kho kāyo evaṃdhammo evaṃbhāvī evaṃanatīto’ ti.
Iti ajjhattaṃ vā kāye kāyānupassī viharati, ・・・ Evaṃ pi kho, bhikkhave, bhikkhu kāye kāyānupassī viharati.

比丘たちよ、次にまた比丘は、ちょうど墓場に捨てられ、死後一日、あるいは二日、あるい は三日経ち、膨張し、青黒くなり、膿の流れている死体を見るように、この身を「この身もまたこのようなもの、このようになるもの、このようなものに過ぎないもの」と見るのである。
このように自己の……略。比丘たちよ、比丘はこのように身において身を随観し続けるのである。

Puna caparaṃ, bhikkhave, bhikkhu seyyathāpi passeyya sarīraṃ sivathikāya chaḍḍitaṃ kākehi vā khajjamānaṃ kulalehi vā khajjamānaṃ gijjhehi vā khajjamānaṃ kaṅkehi vā khajjamānaṃ sunakhehi vā khajjamānaṃ byagghehi vā khajjamānaṃ dīpīhi vā khajjamānaṃ siṅgālehi vā khajjamānaṃ vividhehi vā pāṇakajātehi khajjamānaṃ. So imameva kāyaṃ upasaṃharati: ‘ayaṃ pi kho kāyo evaṃdhammo evaṃbhāvī evaṃanatīto’ ti.
Iti ajjhattaṃ vā kāye kāyānupassī viharati, ・・・Evaṃ pi kho, bhikkhave, bhikkhu kāye kāyānupassī viharati.

比丘たちよ、次にまた比丘は、ちょうど墓場に捨てられ、鳥に食べられ、あるいは鷹(たか)に食べられ、あるいは禿鷹に食べられ、あるいは蒼鷺(あおさぎ)に食べられ、あるいは犬に食べられ、あるいは虎に食べられ、あるいは豹に食べられ、あるいは狼に食べられ、あるいは種々の生物に食べられている死体を見るように、この身を「この身もまたこのようなもの、このようになるもの、このようなものに過ぎないもの」と見るのである。このように自己の……略。

Puna caparaṃ, bhikkhave, bhikkhu seyyathāpi passeyya sarīraṃ sivathikāya chaḍḍitaṃ aṭṭhikasaṅkhalikaṃ samaṃsalohitaṃ nhārusambandhaṃ. So imameva kāyaṃ upasaṃharati: ‘ayaṃ pi kho kāyo evaṃdhammo evaṃbhāvī evaṃanatīto’ ti.

比丘たちよ、次にまた比丘は、ちょうど墓場に捨てられ、骨が連鎖し、血肉あり、筋が繋がっている死体……略。

Puna caparaṃ, bhikkhave, bhikkhu seyyathāpi passeyya sarīraṃ sivathikāya chaḍḍitaṃ aṭṭhikasaṅkhalikaṃ nimaṃsalohitamakkhitaṃ nhārusambandhaṃ. So imameva kāyaṃ upasaṃharati: ‘ayaṃ pi kho kāyo evaṃdhammo evaṃbhāvī evaṃanatīto’ ti.

骨が連鎖し、肉無く、血にまみれ、筋が繋がっている……略。

Puna caparaṃ, bhikkhave, bhikkhu seyyathāpi passeyya sarīraṃ sivathikāya chaḍḍitaṃ aṭṭhikasaṅkhalikaṃ apagatamaṃsalohitaṃ nhārusambandhaṃ. So imameva kāyaṃ upasaṃharati: ‘ayaṃ pi kho kāyo evaṃdhammo evaṃbhāvī evaṃanatīto’ ti.

骨が連鎖し、血肉無く、筋が繋がっている……略。

Puna caparaṃ, bhikkhave, bhikkhu seyyathāpi passeyya sarīraṃ sivathikāya chaḍḍitaṃ aṭṭhikāni apagatasambandhāni disā vidisā vikkhittāni, aññena hatthaṭṭhikaṃ aññena pādaṭṭhikaṃ aññena gopphakaṭṭhikaṃ aññena jaṅghaṭṭhikaṃ aññena ūruṭṭhikaṃ aññena kaṭiṭṭhikaṃ aññena phāsukaṭṭhikaṃ aññena piṭṭhiṭṭhikaṃ aññena khandhaṭṭhikaṃ aññena gīvaṭṭhikaṃ aññena hanukaṭṭhikaṃ aññena dantaṭṭhikaṃ aññena sīsakaṭāhaṃ. So imameva kāyaṃ upasaṃharati: ‘ayaṃ pi kho kāyo evaṃdhammo evaṃbhāvī evaṃanatīto’ ti.

連鎖を失い、そこに手の骨、そこに足の骨、そこに踝(くるぶし)の骨、そこに脛(すね)の骨、そこに腿(もも)の骨、そこに腰の骨、そこに肋骨、そこに背骨、そこに肩の骨、そこに頚の骨、そこに顎の骨、そこに歯、そこに頭蓋骨というように、諸方に散乱した骨を見るように、この身を「この身もまたこのようなもの、このようになるもの、このようなものに過ぎないもの」と見るのである。このように自己の……略。

Puna caparaṃ, bhikkhave, bhikkhu seyyathāpi passeyya sarīraṃ sivathikāya chaḍḍitaṃ aṭṭhikāni setāni saṅkhavaṇṇapaṭibhāgāni. So imameva kāyaṃ upasaṃharati: ‘ayaṃ pi kho kāyo evaṃdhammo evaṃbhāvī evaṃanatīto’ ti.

比丘たちよ、次にまた比丘は、ち太うど墓場に捨てられ、白い貝の色と同じ骨の死体……略。

Puna caparaṃ, bhikkhave, bhikkhu seyyathāpi passeyya sarīraṃ sivathikāya chaḍḍitaṃ aṭṭhikāni puñjakitāni terovassikāni. So imameva kāyaṃ upasaṃharati: ‘ayaṃ pi kho kāyo evaṃdhammo evaṃbhāvī evaṃanatīto’ ti.

比丘たちよ、次にまた比丘は、ちょうど墓場に棄てられ、堆積し、一年経った骨……略。

Puna caparaṃ, bhikkhave, bhikkhu seyyathāpi passeyya sarīraṃ sivathikāya chaḍḍitaṃ aṭṭhikāni pūtīni cuṇṇakajātāni. So imameva kāyaṃ upasaṃharati: ‘ayaṃ pi kho kāyo evaṃdhammo evaṃbhāvī evaṃanatīto’ ti.

比丘たちよ、次にまた比丘は、ちょうど墓場に棄てられ、腐食し、粉々になった骨を見るように。この身を「この身もまたこのようなもの、このようになるもの。このようなものに過ぎないもの」と見るのである。

Iti ajjhattaṃ vā kāye kāyānupassī viharati, bahiddhā vā kāye kāyānupassī viharati, ajjhattabahiddhā vā kāye kāyānupassī viharati, samudayadhammānupassī vā kāyasmiṃ viharati, vayadhammānupassī vā kāyasmiṃ viharati, samudayavayadhammānupassī vā kāyasmiṃ viharati, ‘atthi kāyo’ ti vā panassa sati paccupaṭṭhitā hoti. Yāvadeva ñāṇamattāya paṭissatimattāya anissito ca viharati, na ca kiñci loke upādiyati. Evaṃ pi kho, bhikkhave, bhikkhu kāye kāyānupassī viharati.

そこで「身のみあり」との念が彼に起こる。それこそは智慧の(増大の)ため、念の(増大の)ためになる。彼は(愛着・誤った考えに)よることなく(随観し)続け、世の何ものにも執着しない。比丘たちよ。比丘はこのように身において身を随観し続けるのである。





2016年11月17日 (木)

11月 オバサ・セヤドー学習会 まとめ

○ヴィパッサナー瞑想の修習 まとめ

テーラワーダ仏教徒の目標は、生まれ変わることのない涅槃をめざすことです。
善いことをすると、良い結果が得られます。
悪いことをすると、悪い結果が得られます。

このようにして生をぐるぐる回っています―この輪廻は苦であるから、輪廻から出ていく―つまり涅槃に行くということです

涅槃に行けなくても
1、修習によって、良い所―欲善趣地へ行くことができる(註:欲善趣地とは人間界と6つの欲界天)
2、禅定に達することができれば、梵天界へ行くことができる

我々は31の世界を生まれ変わる。(註:いわゆる六道のうち、天界はさらに20の梵天界と6つの欲界天にわかれる)
たとえ梵天(ブラフマ―)であっても寿命がある。寿命が尽きると、次は人間界か、天界か…輪廻を繰り返す

一神教では、天国へ行けばそこで終わりだが、仏教では―そこが終着点ではない。輪廻がある。
涅槃に行くにはヴィパッサナー瞑想が必要です

○ヴィパッサナーの修行(修習) 七つの清浄

一、戒清浄(s îla-visuddhi)

戒律を守る:在家では五戒
仕事において毒物の売買、銃の売買、動物を殺して売買することをやめる。

二、心清浄(citta-visuddhi)―サマーディを育てる

サマーディ(定)の種類
ウパチャーラ(upacâra-samâdhi)・サマーディ 、近行定
アッパナー・サマーディ(appanâ-samâdhi) 、 安止定

カニカ・サマーディ(kanika-samâdhi) 瞬間瞬間の五感や心に気付いている
ヴィパッサナー・サマーディ:ナーマ・ルーパにおける三相(無常・苦・無我)を見る

定(サマーディ)があれば、心が清らかになる。そして、心が集中できる状態になる

三、見清浄(ditthi-visuddhi)

名(精神現象・心)と色(物質現象・体)の把握
私、我、あなた、男。女という区別をしなくなる
「わたし」という考え方がなくなる

四、渡疑清浄

原因があって結果があるということを理解する
渡疑清浄に達すれば「小預流果」に:次世に悪趣地に行かない

五、道非道知見清浄

1、思惟智:名色(心と体)を無常・苦・無我と思惟する智
2、生滅智:名色の生滅を観察する智

六、行道知見清浄

3、壊滅智:名色の壊滅のみを観じる智
4、怖畏智:名色を恐怖すべきものと観じる智
5、禍患智:名色の禍を観る智
6、厭離智:諸行を厭う智
7、脱欲智:諸行から脱したいという智
8、省察智:諸行を再び無常・苦・無我として随観する智
9、行捨智:諸行にたいして「捨」で随観する智
10、随順智:それまでの智に随順し、道果につなげる

七、智見清浄

種姓心:聖者には達していないが、次には必ずそこに達する(聖者と姓を同じくするという意味)
道心:4つの作用を同時に成就(苦の遍知、因の捨断、滅の作証、道の修習)
果心:道心と同じ

テーラワーダ仏教ではカルマを信じる。 過去―現在―未来と生まれ変わり、31の世界を輪廻している
輪廻の苦から逃れる:ヴィパッサナーの智慧により、輪廻を脱する―すなわち阿羅漢になる

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○質疑応答

質問:カルマは、日本では悪いものとして見られていますが。

答え:良いものもあれば、悪いものもある。身口意による行ないがカルマになる。カルマはただの原理です。

質問:いろいろなカルマがあるけれど、それは1つづつ結果として現れるのでしょうか。

答え:たとえば、悪いカルマが強いときはそれが現われ、次の生では善いカルマが現われるというふうになります。(註:カルマの現れ方については、9月、10月の学習会で解説しているので、そちらを参考にしてください)
人は日々新しいカルマを身に付けている。それを消すには、煩悩を消すことである
「生まれ変わり」についてたとえでお話ししましょう:木の種に水をやり、肥料をやり成長します。花が咲き、種ができ、その種で次の木を作ります。はじめの木と、次の木は別の木だけれども、つながりがある。そのように生まれ変わる。

質問:企業では努力をして業績を上げていきますが、修行でも努力しなくてはいけないのは疲れないでしょうか?

答え:企業が業績を上げていく―その基準は貪欲です。そして終わりがない。
涅槃には終わりがある。確かに難しいし努力は必要。
しかし、企業戦士のようにぼろぼろに疲れてまで、努力するのではない。
あくまでも中道で、無理をせず、少しずつの積み重ねで煩悩を消していきます。

質問:4種の禅定は、階段を上がって行くように進むものなのでしょうか、らせん状に進むものなのでしょうか?

答え:近行定から安止定へは段階的です。
近行定の段階でヴィパッサナーを行っても良い。
しかし、近行定なくして安止定へは行けない。
近行定、安止定、どちらからでもヴィパッサナーへ行ける。

                   (文責:岩倉)

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○次回の学習会
12月、1月はセヤドーがミャンマーへ帰られるためにお休みです。
2月は2月12日の予定です。

2月12日(日)13:00~17:00 
中板橋MCWA事務所
住所 板橋区仲町39-1 電話03-3973-3348 
 

予定
13:00より自主瞑想(法話は14時からですが、それまで自主的に瞑想しています)
14:00よりセヤドーの解説
16:00より質疑応答
17:00終了
参加費無料   予約の必要はありません

内容:大念住経:ヴィパッサナーの内容について説いた経典です。
テキスト:「南方仏教基本経典」の「大念住経」参照






より以前の記事一覧

2012/8 宝台樹高原

  • 6
    8月に合宿の行われたみなかみ町藤原は宝台樹山のふもとにあり、冬はスキー場になる高原風ののどかな村です。

2009年クムダ・セヤドーのお寺 

  • 10 セヤドーのお話を聞く
    ミャンマー・ヤンゴン市郊外モービにあるクムダ・セヤドーの瞑想センターを訪ねた方が写真を送ってくださいました。 シーマホールも完成し、そこには富士山をバックにした仏像がまつられています。

2008/8 水上合宿

  • 雨上がり
    8月に合宿の行われた水上町藤原はまさに水の里。民宿周辺の風景をお届けします。

2008 夏の風景

  • 朝霧の沢
    夏の暑い日、川の源流では入道雲が湧き、山や木々は様々な表情を見せていました。

2008/7 関西合宿・瞑想会

  • 延命寺三門にて
    大阪、河内長野市にある延命寺は弘法大師空海が開基と伝えられ、市の紅葉名所にもなっている美しいお寺です。 ここで7月、クムダ・セヤドーをお招きして一週間の瞑想合宿が開かれました。
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