サヤレー法話

2011年6月14日 (火)

ディーパンカラ・サヤレーよりのメッセージ

事務局のGimさんを通じサヤレーから皆様へメッセージが届きました。

First of all, she would like to apologise for not making her trip to Japan this time. It is not because she is scare of the condition but she is worry that all of you will be busy for her, especially during this difficult time in Japan. She doesn't want to trouble and disturb everyone there.

Having said that, Sayalay has been praying for all of you in Japan, wishing all to be well and safe and she is still sending her metta to everyone now.

Please help to send her regards to all the members and she will see all of you Dec'11.

訳:
まずはじめに今回5月に日本に来れなかったことを皆様にお詫びしたいと思います。それは日本の状況について恐れていたからではなく、日本のこのような困難な状況において、皆様にサヤレーのことで煩わせることを心配し、迷惑をかけたくなかったからです。
しかしその中でサヤレーは、日本の皆様に対し、無事で健康でありますようお祈りしていました。そして今も慈悲を送っています。
どうぞサヤレーの気持ちを皆様にお伝えください。そして今年の12月にお会いしたいと思います。

メイミョーにあるサヤレーの精舎

Maymyo


2011年5月 9日 (月)

サヤレー法話「集中とバランス」


今晩は、瞑想においてどのように集中のバランスをとるのか、ということについてお話したいと思います。今日一日アーナパーナ瞑想をしてきたわけですけれども、楽にできた人もいることでしょうし、あまりうまくいかなかった方もいることと思います。うまく心をコントロールできた人というのは、昨日もお話した「五つの障害」がそれほど問題にならず、そのために心が対象を見ることができ、心をコントロールすることが比較的容易にできる人です。

 「五つの障害」が多い人はなかなか心をコントロールすることが難しいのです。なぜ難しいのでしょうか。難しい人というのは、まず心がさまよいだし、妄想が浮かんできたり、眠気が襲ってきたのではないでしょうか。もう一つは心を呼吸に集中させようとしても、しばらく経ってくると退屈になってしまうという、退屈感が出てきたのではないでしょうか。

 心をコントロールするには「五つの要素」が大事になってきます。「五つの要素」というのは、まず第一にサッダー(信)、つまりブッダやダンマ(理法)に対する信がしっかりしているということです。二つ目は精進。三つ目がマインドフルネス(サティ)あるいは気付きの力。四つ目が定(サマーディ)、ひとつの対象に集中していく力。五つ目が智慧の力。この「五つの要素」要素が大事になってきます。

 一番目の信ですが、ブッダとダンマとサンガに対する信がしっかりしているということです。信をしっかり保つためには、ブッダの教えやブッダがどのような人であるかということを知る必要があります。ブッダや法に対する信があると、瞑想していて幸福な気持ちになります。けれども信がないと、瞑想していて退屈になりやすいのです。皆さんがどれだけ仏教に対して信を持っているかは分かりませんが、ここでミャンマーのちょっとしたお話をしてみたいと思います。

信仰深い娘の話
 ミャンマーは上ビルマと下ビルマという二つに分かれていて、下ビルマは南の方のヤンゴンとかパゴーとかの地域のことです。昔々下ビルマの王国に、ある王様がいました。この王様は、もともと仏教徒だったのですが、家臣たちはみんな仏教徒ではなかったので、王様は仕方なく仏教から改宗しました。王様が仏教徒を止めてしまったとき、全ての国民に対して、「仏教徒であることを止めて違う宗教を信仰しなければならない」という布告を出しました。同時にそれまでは家の中に仏像などがあったわけですが、王様は家に仏像を置くことも禁止し、仏像は川へ捨てなければなりませんでした。

 ある村に、ダラートという名の、ブッダとダンマに対してとても信仰の厚い娘さんがいました。皆が王様に殺されるのを恐れて改宗したにもかかわらず、このダラートだけは強い信仰を持っていたので、仏像を家に置いて仏教徒であり続けました。
 ある時、ダラートは友達と一緒に川へ水浴びに行きました。水浴びをしていると、川上から八体の仏像が流れてきました。それを見つけたダラートは、仏像を川から拾いました。それを見ていた友達は、とても心配して言いました。「仏像を拾うのをおよしなさい。仏像を持っていることが王様に知れたら、殺されてしまいますよ」。しかしダラートは、「たとえ私が仏像を持っている事で王様に殺されても、気にしません。私は死んでも構いません」と言いました。そして、ダラートはすべての仏像を家へ持って帰り、祀って毎日礼拝していました。

 しかしある日王様がその事実を知り、彼女を殺すよう命じました。王様は殺す時に、見せしめのために公の場で死刑を執行しようと考えました。そして、ダラートを象に踏ませて殺そうと考えました。なぜ王様はそのような方法を考えたかというと、それを見せることによって人々が恐れて、もう仏像を礼拝しなくなると思ったからです。
 とても凶暴な象を連れてきて彼女を踏み潰させようとしたのですが、象が近づいてくると、彼女は毎日やっていたように三帰依を唱えました。それを見た象はブッダのパワーを感じて恐れを抱き、ついには逃げ出してしまいました。ミャンマーではこのように三帰依を唱えると、色々な危害から守られると信じられています。

 王様は非常に腹を立てて、また別の象を連れてきて殺させようとしましたが、また同じように彼女が三帰依を唱えると象は逃げ出してしまいます。また違う象を連れてくると同じことが起こって、ついに王宮にいる象がみないなくなってしまいました。王様は非常に腹を立てて、彼女は何か黒魔術を知っているのではないかということで、火あぶりの刑にしようとしましたが、また彼女が三帰依を唱えると、火は彼女の体を燃やすことができませんでした。

 次に王様は、違う方法で彼女を殺そうとしました。土を掘って穴をあけ、彼女をその中にいれて上から土をかぶせてしまおうと考えました。そして、家臣に命じて土を掘って穴を掘り、彼女を落としました。王様が穴の近くに寄ってくると、彼女は王様に慈悲をずっと送っていました。王様が土をかぶせようとしても彼女は恐れることもなく慈悲を送っていたため、王様はそれを見て同情のような感情を感じ、それ以上続けることができなくなりました。

 王様はダラートに言いました。「よし、ではお前に最後のチャンスを与えよう。家に祀ってある八体の仏像をパワーを使って私の目の前に見せてくれたら、お前を自由にしてやろう」。彼女は「分かりました」と言ってお祈りしました。「この国の全ての人々が改宗してしまったけれども、私はブッダ、ダンマ、サンガにお祈りして自分一人が仏教徒として残っています。もし私の信仰が真実であるならば、どうか八体の仏像がここに現れますように」と念じて心に決意してお祈りしました。すると、八つの仏像は家から王宮に空を飛んでやってきて、皆がそれを見ました。

 それを見た人たちはとても幸福な気持ちになりました。王様は非常に驚きました。そして王様はブッダ、ダンマを信じるようになって、再び仏教徒に戻りました。王様が仏教徒になった後、全ての国民が仏教徒になることを許しました。その後、信仰心の深いダラートは王様と結婚してその国の女王になりました。ダラートが女王になった後、治めていた下ビルマの全国にパゴダ(仏塔)や沢山の仏像を作ったので、今でも下ビルマにはパゴダや仏像が沢山見られます。彼女のおかげでミャンマーは今でも仏教の国を保っているのです。今でも彼女の信がみんなの心に生きています。

瞑想を支える精進
 ブッダは涅槃に入っていないわけですけれども、私たちはブッダの九つの徳を今でも信じています。そして私たちはダンマ(理法)も信じています。それは智慧を与えてくれるし、涅槃への道を教えてくれるので、信じています。そして私たちがここへ来ているのは瞑想をするためなのですが、瞑想をしているときもダンマ(ダンマというのは非常に広い意味があって、いろいろな現象そのものを表わしたり、真理という意味があります)やブッダを対象として感じているわけです。ですから、瞑想している時はブッダとダンマを感じているので、とても幸せで、退屈にはならないのです。幸せな気持ちというのがあると、努力をしようという気持ちも起こってくるのです。そういう幸福感がないと、なかなか努力をしようという気持ちにはなれないのです。

 特に初心者にとっては努力(精進)するということが非常に大切です。努力がないと、心が落ちてしまって眠くなったり、心がさまよってしまったりするのです。人間の本性というのは、自然にしておくと、貪瞋痴(欲・怒り・無知)に流されるという性質があって、努力しなくてもだんだん悪い方向に行ってしまいます。良い方向にもっていくためには瞑想をして、努力しなければなりません。どうですか、そう思いませんか?
 ここに来ている皆さんはそれがよく分かっていると思います。このような休日に入ると普通はどこかへ遊びに行ったり、休養しようという気持ちになるのですが、皆さんは努力してここへきて瞑想しようと思ったのです。それは智慧があるからです。せっかく智慧をもってここまで瞑想に来たのですから、努力してジャーナまで到達しようという気持ちで励んでください。「ジャーナまで到達しなかったら帰らない」という決心でやってみてください。 

 心というのは非常に大きな力を持っていて、心を制御したいと思い、心を制御することで幸福感を感じられれば、簡単に心を制御(コントロール)することができます。、心を制御したくないと感じ、制御することに幸福感を感じなければ、心を制御することが難しくなります。
 努力とか精進というのは、要するに心のエネルギーのことです。人間の心というのは、努力をしていないと、どんどん沈んで行ってしまうという性質があって、それは例えて言えば、泥の池の上に咲いている蓮の花みたいなものです。蓮の花もしっかりと支えていないと、だんだんと泥の中に沈んで行ってしまうのですが、水面から出て咲いているというのは、ある種の努力があるからです。
 
 もう一つの例え話をしたいと思います。これはブッダの時代の、パリーヤという象のお話です。このパリーヤという象がまだ若い時は、非常に力があり、他の国との戦でいつも勝つので、王様も非常に大事にしていました。しかしだんだん歳をとってきて引退ということになりました。引退して森に入って住んでいましたが、沼の湿地に入って行ったら、ドンドン沈んでしまいました。人々が集まって来ましたが、象は自力で上がってくることができません。人々は、どうすることもできないのでハラハラして見ていました。

 その時に王様は、そのニュースを知り、かつての象の調教師にその話をすると、調教師はすぐそこへ駆けつけました。昔若い時に他の国と戦った時、象を鼓舞するためにドンドン太鼓を叩いて気持ちを奮い立たせました。調教師は、象が沈みかけている沼に行って、その太鼓をドンドン、ドンドン叩きました。そうしたら象が音を聞いて、若い時に戦った事を思い出し、心が非常にパワフルになり、力が出てきました。それで、「エイッ」とばかりにそこから飛び出る事ができたそうです。
 
 私達の心も同じようなもので、自分の心で、「よしっ、やるぞ」と思って、眠気に打ち勝とうとしたり、「とにかく、集中しよう」という風に、心でいつも思っていると、段々といくつもの障害を乗り越えて行く事ができるようになります。心はそんな風にして努力で強く持たなくてはなりませんが、呼吸の方は、あまり強くやろうとはしないで、いつも自然に、ナチュラルな呼吸でやってみてください。呼吸はいつもソフトに、そして幸福な感じでやるようにしてください。

六種類の妄想
  努力が強くなってくると、サティー(気付き)の力ですね、マインドフルの力が一緒に強くなってきます。サティー(気付き)ということですけれども、これがとても大事で、いつも呼吸に注意を向けているという事です。呼吸以外の対象に心を向けないようにしているのが、気付きの力で、マインドフルなのですが、それが弱くなってくると、妄想が起こってきたり、他の方に心が行ってしまって、だんだん対象が見えなくなってしまいます。サティの力によって呼吸をいつも見ている、注意を向けているという事が大事なわけです。
  
  入ってくる息と、出て行く息を対象に見ているのですが、吸う息、吐く息を非常に簡単に見ることができる人もいると思いますし、難しい人もいると思います。呼吸を見るのが難しいという人は、一つの葛藤みたいなものが起こっているわけす。その葛藤というのは、つまり妄想が起こり、心がさまよい出してしまうという事が起こっているのですが、妄想というのも六種類の妄想があります。六種類というのは、まず、欲です。そして貪・瞋・癡です。欲と、怒りと、無知(迷妄)という三つ。

四つ目は、信です。信じる気持ちですけれども、何でこれが妄想の原因になるかというと、仏・法・僧に信が強いと、思考が入って来てしまい、今やるべきことは呼吸を見ることですが、それよりも「いずれ私は出家したい」とか、「どこそこの瞑想センターに行ってやろう」と、そういうような思考が入ってきてしまうからです。 
 ですから信を持つのはとても大事なのですが、呼吸瞑想の時に信は一応置いておきます。瞑想する時はあくまでも呼吸を対象に瞑想して、信から出てくる「どこへ行こう、今度はどうしようか」という考え方は起こさないで、呼吸に集中してください。
  
  ブッダが悟りを開く前に、6年間ウルベーラの森で瞑想をしていました。ブッダは、森で瞑想をしていた時に、例えばクティ(小屋)で、毎朝起きるとドアを開けて森を見渡し、あるいは散歩をします。その時に、「とてもすがすがしい朝だ」とか、あるいは森の中に花が咲いていたら「大変綺麗な花だ」という風に思ったりします。それでクティに戻ってきて瞑想する時に、そういう光景とかが、思考に入ってきます。それは瞑想に良くないという事で、私達にも同じような事が言えます。ですから私たちが例えば外で歩行瞑想する時にも、「なんてきれいな空なんだろうか」とか、「この木は素晴らしい木だ」とか、「花が咲いてる」とか、そっちの方を見ないで、ひたすら呼吸に集中するようにしてください。歩いている時も必ず呼吸の方に意識を集中するようにしてください。
  
 五番目は、さっきの逆で、無欲です。それから六番目に無瞋、怒りのない事です。無瞋についていうと、それは慈悲の心なのです。最初に慈悲の瞑想をやって慈悲を感じて、人々を思い浮かべますが、瞑想中にまたそういう人が出てくると、そっちの方に心が行ってしまって、やはり思考になって妨げになってしまうので、瞑想中は呼吸に集中して、慈しみ(メッタ)の心は一応置いておくようにします。最初の5分ぐらいは慈悲瞑想をしますが、呼吸瞑想に入ったら一応それは置いておいて、呼吸の方に集中するようにします。
  
妄想を避ける四つの方法
 この六つの原因による思い・考えが入ってくるのです。妄想というのは、一つの考え・思いですから。瞑想する時には、こういう思いが入り込まないように、考えがさまよい出すのを切って行くということが大事です。それでも呼吸に集中しようとして退屈さが起こってくるという事があります。その時には四つの方法があります。第一の方法は、自然な呼吸をしていて、ゆっくりしてきて、息が長く入り、長く出ていくという風に感じたら、「息が長く入り、長く出て行く」と気付きます。その時に、呼吸の後をついて行くと、段々肺の中に入って行ってしまいますが、それはしないで、あくまでもこの鼻のあたりに意識は置いておいて、呼吸の出入りを見ているというようにします。

 次は呼吸を見ていて、短い呼吸が入ってきて短い呼吸が出ていくという風な感じたら、「短く吸って短く出ていく」という風に気付きます。
  次は呼吸全体を感じるようにします。呼吸の始まりそれから真ん中、それから終わりです。吸う時に「始まり、真ん中、終わり」。それから出す時も、「始まり・真ん中・終わり」というように呼吸の全体をを三つぐらいに分けて眺めて感じるようにします。
  
 四番目は、そんな風にして見ていると、もっと呼吸を細かく見る事ができるようになってきます。微細な呼吸が見えるようになります。微細に呼吸が見えるようになったら、「微細な息が入って、微細な息が出ていく」と気付きます。こんな風にしてだんだん、微細な呼吸が見えるようになってきて、集中が良くなってくると、心が非常に快適、軽快になってきて、体の方も軽い感じになってきます。心が軽快になって体が軽くなってくると、ある光が現れ始めます。それは集中が良くなってきた時の印、サインなのですが、人によって色とか、形が違っています。
  
集中のサイン、ニミッタ
 この時に光が見えてきたとしても、その色とか光には集中しないで、あくまでも呼吸の方に集中するようにしてください。光の方に意識を移してしまうと、すぐそれは消えてしまいます。ある時は、呼吸が非常に微細になってきた時にそういう光が見えてきてそれを続けていると、ババンガ(有分心)と言って、ある種の無意識状態みたいな所に心がスッと入ってしまうという事も起きます。

  これは初心者で、ある程度瞑想が進んだ人が陥りやすい事なのです。段々呼吸が微細になってきて、集中が良くなってくると、ある種の光がぼんやり見えて、非常に心が平和な感じになってきます。そうすると幸福感の方に意識が集中するようになり、呼吸ではなくて幸福感の方に心が行くようになって、それを追っているとスーッと無意識の方に行ってしまいます。ですから、呼吸が柔らかくなって微細になってきて、心が平安で幸福になっても、そちらの平安の方に心を持って行かないで、あくまでも呼吸の方に意識を集中するようにしていてください。そうしていると、光がもっとはっきりしてきます。
  
  もう一つの問題は、呼吸が非常に微細になると、呼吸が消えてしまったかのような感じになる事があります。呼吸がどこに行ってしまったのか、分からなくなってしまう、そういう感覚になる事があります。その時に、待っていても一向にはっきり呼吸が現れてこない、というような事が起こります。そういう時は、意識的に呼吸をして、「吸ってる、吐いてる」という風に呼吸を意識的にやるようにすると、また呼吸を感じる事ができるようになります。また呼吸が戻ってきます。

 そんな風にして、呼吸に集中していって集中力がついてくると、いろいろな明るい色が現れてきます。これは人によって黄色とかオレンジとか青とか、いろいろな色があるのですが、その色はあまり気にしないでください。そしてさらに呼吸を見続けていると、色がだんだん白っぽくなってきます。この白い光が第二段階のニミッタです。
 光が白くなってもそちらに意識を向けないで、呼吸に集中していると、白くなってきた光が輝く星のようになってきて、だんだん鼻の方に近づいてきて、鼻の前のあたりで止まります。それが第三段階のニミッタです。光が安定して見えてくるようになったら、今度は呼吸ではなくて、ニミッタに心を集中してください。そして心で「アーナパーナ・ニミッタ、ニミッタ、ニミッタ」というように、ニミッタの光の方に意識を集中するようにします。10分くらいニミッタに心を集中させると、心が非常に平和な幸福な気持ちになってきます。それでニミッタの方に心をずっと向けていると、五禅支が現れて、禅定(ジャーナ)に入って行きます。

五禅支
 禅定に入ると、五つの要素が現れます。一番目はヴィタッカ、尋(じん)という、心をアーナパーナ・ニミッタという対象に向けて行く要素です。二番目は、ニミッタをずっと継続して見続けていく要素、これをヴィチャーラ(伺)と言います。支える心、ニミッタを見続ける心です。三番目の要素はピティと言いますけれども、これは日本語で書くと「喜」です。ニミッタを見続けていると、心が幸福になってきますけれども、その喜びの感覚です。四番目はピティと似ているのですが、スッカという要素で、日本語では「楽」と書きます。ピティは喜びで、振動しているような感覚ですが、スッカというのはもっと落ち着いた、静かな淡々とした喜びという感覚です。

 例ばアイスクリームを見て、食べる前はアイスクリームを食べられるという非常に嬉しい気持ちになります。食べた後は、満足して落ち着きます。食べる前の喜びがピティで、食べた後の落ち着いた喜びがスッカです。分かりましたか?
 五番目はパーリ語ではエカーガタ、日本語では「一境性」書きますが、心が一つのニミッタという対象にぴたっと集中して張り付いている状態です。そんな風にしてニミッタに心が没入していると、五つの要素(五禅支)が起こってくるわけです。

 明日はみなさん第一禅定に入れるように頑張ってください。できますか、できませんか?(会場、苦笑)。
心は非常に強力ですから、ただ心をコントロールしたいと思うだけで良いのです。呼吸を観察することに幸せを感じれば、みなさん必ずできます。最初の禅定に入ることができれば後の四段階までは非常に容易に達することができます。第四禅定まで達することができれば体の内部の三十二の部分を見ることができるようになります。

 サヤレーは台湾でも教えているのですが、そこにいろいろなグループがあって、とても強力な尼さんたちのグループがあります。その人達は毎年10日間ずつ10年続けてやっているのですが、どんどん成長していてジャーナ(禅定)から体の中を見て、それからナーマ・ルーパという精神現象や体の現象を見るところまで行って、自分の過去世を見るという瞑想まで入っています。今回は強力な決意を持って、ここにいる全員がジャーナに入ってもらいたいと思います。よろしいですか? 台湾に行った時に、「サヤレーはいつも日本でリトリートをやっていますが、日本の人はどうですか」と聞かれても、答えようがありません。

 でもここへ来れて大変幸せです。日本に来ると富士山も見られ、故郷に帰ってきたようで、大変幸福な気持ちになります。いつも合宿の時は皆さんが来てくれて、なんだかふるさとに帰ってきたような気分です。ですから、サヤレーのためにもジャーナに達するように決意してくださいね、良いですか?(笑い)。みなさんが必ず「OK!」という気持ちで頑張っててください。
 
 ですから、マインドフル(気づき)というのが非常に大切で、20分でも呼吸に向けていることが大切になります。ジャーナ(禅定)というのは、非常に強い集中力です。そんな風に禅定に心が達することができれば、心がとても強力で鋭くなってきます。それでそんな風になってくると、次第に洞察力、理解力がついてきます。集中力や智慧がないと、我々の心はいつも散乱していろいろな欲などを追いかけたり愚かな状態になります。それでいろいろな物に執着すると、それによって時間を浪費してしまいます。そういうことによって悪い(不善)なカルマを作ってしまいます。集中力をつけて智慧を持つことができれば、執着を簡単に切ることができます。涅槃に行くことも簡単になります(笑)。

執着による苦しみを絶つ
 それではまた一つのお話をします。ブッダの時代にコーサラ国という国がありました。その国にあるとき大変に強盗が出没したので、王様はサンダッティという家臣に命じて取り締まらせました。サンダッティは強盗を取り締まって、その後王宮に戻って来ました。王様はとても幸せになって、サンダッティに「褒美に今日から7日間だけおまえを王様にしてやろう」と言いました。7日間の間王様になった家臣は、お酒を飲み続けて酔いどれになっていました。

 7日目の最後の日にサンダッティは象に乗って、従者と一緒に王宮の庭を王国の門に向かって歩いていました。その途中で、彼はブッダが托鉢に来るところに会いました。ブッダを見たサンダッティは、象に乗ったまま象から降りることもなく、ブッダに対してただ頭を下げるだけの礼をしました。それを見たブッダは、にこっと笑いました。ブッダに従っていたアーナンダ尊者はそれを見てブッダに、「なぜお釈迦様は笑ったのですか」と聞きました。ブッダは次のように答えました。「アーナンダよ、サンダッティを見てみなさい。今、サンダッティは綺麗な格好をしていますが、今日の午後に必ず私たちの僧院に訪れるでしょう。そして法話を聞いた後、彼は阿羅漢になるでしょう。そして阿羅漢になるとすぐに死んでしまうでしょう。今日、彼は死ぬでしょう」。その話は瞬く間に国内に広まって、人々はどうなることやらと、皆、僧院に見にきました。

 サンダッティはブッダに会った後、沢山の従者とともに王宮の庭へ行きました。その中に一人のとても美しい踊り子がいました。その踊り子は、サンダッティが王様になっている間、いつも彼の世話をし、7日間歌い続け、踊り続けていたので、あまりにも疲れて、その時に死んでしまいました。7サンダッティは彼女に対してとても執着、愛着がありました。始め、彼は酔っ払っていてその事がよく分からなかったのですが、踊り子が死んだ話を聞いたとき非常にショックを受けて、酔いから醒めてしまいました。酔いから醒めて心がはっきりしてくると、彼はとても動転し、大変深い悲しみとショックが生まれてきました。彼は心をコントロールすることができなくなって、この感情をどうしていいかわからず、心を鎮めることができるのはブッダしかいないと思いました。

 それから彼は僧院へ行ってブッダに踊り子が亡くなったことによって受けた自分の苦しみについて話しました。ブッダは彼に次のように言いました。「あなたは今世だけでなくて、過去世においても彼女のことでずっと涙を流してきました。あなたが過去に流した涙は海の水よりももっともっと多いのです」。
 ブッダは続けて言いました。「あなたが多くの過去世においてずっと涙を流してきたのは、彼女に対する執着があったからです。この苦しみから逃れるためには、過去の記憶における彼女に対する執着を切らなければなりません。それと同時に彼女に対する執着を未来に持って行ってはなりません。未来における執着を切らなければなりません。現在においてもヴィパッサナーで観察をして執着を断たなければいけません。過去においても、現在においても、未来においても、ヴィパッサナー瞑想をして執着を断たなければいけません。すべての執着を切ることができれば、容易に涅槃に行くことができるでしょう」。

 非常に単純な話ですね。その話を聞いて彼は瞑想をしてすぐに阿羅漢になることができました。なぜそんなに早く阿羅漢になったかと言うと、彼には過去においてずっと瞑想をしてきたという大変大きな波羅密があったからです。私たちはどうでしょうか。今、このような話を皆さん聞きましたけど、阿羅漢になれたでしょうか。まだですか?まだならもっと瞑想が必要ですね(笑い)。サンダッティは阿羅漢になって、自分の生を観て、今日が自分の死ぬ日だということを知り、ブッダのところに行って暇乞いをし、その後すぐに亡くなりました。

 そういうわけで、私たちはすべての苦しみを集中力と智慧によって断っていくといくことが大切なのです。先にお話した、五つの禅の要素が涅槃に行くときに大切な力となります。ですから、みなさん自分の中の、嫌だとか退屈だといった不善な心を乗り越えて、呼吸に集中することに幸福を感じるようにして頑張ってみてください。明日からインタビューを始めます。その時、どのくらい集中できたかを聞きます。皆さん「20分も30分も妄想せずに集中できました」と答えられるようになって欲しいと思います。ありがとうございました。

   サードゥ! サードゥ! サードゥ!


2011年4月 8日 (金)

サヤレー法話 「波羅蜜(はらみつ)について」

 10の波羅蜜(はらみつ) 
今晩は波羅蜜(はらみつ)についてのお話をしたいと思います。波羅蜜というものは瞑想にとって大変重要なのですが、それは過去、そして今世において積み重ねてきたものがカルマとして、波羅蜜となって瞑想を助けるからです。ブッダもまたその前の菩薩のとき、過去世において、非常に長い間10の波羅蜜(パーラミー)を積んできました。

 波羅蜜には10の種類があります。
第一にダーナ、お布施の波羅蜜です。
二番目は戒。戒律を守るという持戒の波羅蜜です。
三番目はネッカンマと言って、離欲、欲を離れる、世間的なものを離れて森の中に入って行くと云う意味です。
四番目は智慧の波羅蜜です。
五番目は精進、努力の波羅蜜です。
六番目はカンティーと言いまして、忍耐です。
七番目はメッタ、慈しみの波羅蜜です。
八番目は真理の波羅蜜。真実を語るという意味の波羅蜜。
九番目は決定、ディタミネーション。パーリ語ではアディッターナと言いますけれども、心で決定して、決意すると言う波羅蜜です。
十番目はウペッカーです。日本語にすると「捨」と言います。

 ブッダもその弟子たちもこの10の波羅蜜を一生懸命積んでいたのですが、弟子たちは一段階目の波羅蜜を積んでいる。もっと上の波羅蜜、第二段階、第三段階という三つの波羅蜜が有って、それらはなかなか大変な波羅蜜です。最初のダーナ、布施について例を言いますと、一般的な人は自分の持っているものをお布施すると言うことをします。これが一段階目の布施です。それで、布施についての第二段階というのは、たとえば奥さんを下さいとか、旦那さんを下さいとか、家族を下さいとか言われたり、あるいはあなたの眼とか、体の器官を下さいと言われた時に、亡くなってから上げるということは出来るのですが、その時に与えるという布施が第二段階のダーナです。

 誰かにあなたの奥さんを頂きたいと言われた時、簡単にあげられますか?出来る人は手をあげてください。誰かにあなたの命がほしいと言われた時に、菩薩はすぐに自分を差し出すことをしました。こんなふうに三つの段階が有って、例えば八戒とか十戒にしても、一般の人はちょっと調子が悪かったりすると、それを破ったりしますが、菩薩の場合は死んでもそれを守りました。 

三番目の離慾について言うと、例えばたった七日間でも家を離れて、ここに来て瞑想しているというのも離慾の一つです。わずか七日間、家を離れていることですが、退屈になってきて家へ帰りたいとか、そんな気持ちが起ったりします。第二段階の離慾というのはサヤレーのように頭を剃って出家するということです。第三段階というのはブッダのように強い決意をもってやるという事です。誰かに還俗しなさいと迫られても、殺されても還俗しないというしっかりした決意を持つという事です。

 この10の波羅蜜のうち、最後に来るのが智慧です。その前の九つの波羅蜜というのは、この智慧の波羅蜜を高めるために有るようなものです。例えば精進ですと、第一段階のレベルの人はこうして瞑想して努力するのですが、そのうち足が痛くなってきて、足が壊れてしまうのではないか、もう帰ってしまおうかと言うふうに簡単に努力が壊れてしまう、そういうレベルのものです。
どうですか。それは事実ではないですか?(笑い)

 そして、第二段階の精進と言うのは、足が壊れても、そんなことは気にしないという位の決意です。一時間半というのはそんなに長い時間ではないから、その時間は動かないで坐っている。第三段階の精進というのは、たとえば瞑想してジャーナに到達しないうちは絶対部屋に戻らないとか、一晩中瞑想しているということです。例えばブッダの場合は、悟りを開くまではここを絶対立たないとか、阿羅漢になるまでずっと瞑想しているとか、そういう非常に固い決意というのが第三段階の精進です。

 そのようにして他の波羅蜜についても三つのレベルが有ります。 瞑想を始めて最初の日は眠くなったりとか、あるいはいろいろな考えが浮かんできたりという事が起りますが、それに対して努力でもって、乗り越えていく。それで努力と呼吸に対するマインドフルネス、サティ(気付き)をもってそれを越えて行くようにします。一日目からリラックスしようと思っていると眠気が出て来るので、最初の時は努力(精進)が必要だと言う事です。

 朝、サヤレーは瞑想している時みなさんを見ていました。今日は皆さん一生懸命瞑想して、寝ている人は居ませんでした。Very good!
皆さんは思考とか妄想にどれだけ悩まされているのかというのをチェックしています。サヤレーがチェックするときには顔を見ます。顔を見ていると、その顔に怒っている、あるいは笑っている表情があります。笑っている時は、本当に瞑想がうまくいって微笑している時と、昔のことを思い出して、ニコニコしている時があって、顔を見ればそれは良くわかります。
 ディターミネーション(決意)ということが非常に大事で、時間はそんなに沢山有るわけではないから、時間を無駄にできないと思って、いつも呼吸に集中することを思い出すようにします。呼吸に気付いている事を決意するのが大事です。

慈しみの心 
私たちの心はバランスが大切で、もう少し慈しみの心を持つようにしなければいけません。瞑想している時、その対象である呼吸を見ているのですが、その時に幸福な感覚が有ればとても集中が良いし、幸福な気持ちがないと集中するのが大変難しくなります。退屈になってきます。ですから、メッタ(慈しみ)の心が有るということがとても大事になります。慈しみというのはこの10の波羅蜜にも入っている一つで、これは毎日訓練して作り出すようにすべきものです。例えば怒りとか、迷妄とか無知の心が出てきたらすぐに慈しみで乗り越えて行くというように日々訓練していくことが大事です。

 そういうふうに慈しみの心が有ると皆さんの心は、柔らかく、平安があるので、それが瞑想のサポートになるわけです。家でいかにして慈しみを養うかという事が、たいへん重要です。では、家でいかにして慈しみを育てるかというと、朝早く起きて10分あるいは20分でも、まず自分に対して慈しみの瞑想をして、次に家族に対して、特に一番親しい人に向けて、四つの言葉を唱えます。「○○に災いが有りませんように」、「○○の心に苦しみが有りませんように」、「○○の体に苦しみが有りませんように」、「○○は健やかで幸せでありますように」という言葉を家族のメンバーに送ります。そうすると容易に慈しみの心が湧いてくると思います。

 慈しみの心というのはインテンション(意志)ですね、意志によって湧いてくる力です。それから仕事に行ってオフィスに行きます。仲間と仕事をしますが、仲間に対しても慈悲の心を送ります。それで、瞑想だけでなく実際に慈悲を実践することが大事で、例えば朝、家族のメンバーと会った時、心から親切な気持ちを持って話しかけたり、悩みが有ったらそれをみんなで聞いて、お互いにシェアしたり、あるいはお互いに褒めあったりとか、そういう事が大切です。

 例えば朝、奥さんが台所でたいへん忙しい時には、「ちょっと手伝おうか?」と言うのが慈悲の心で、「それは私の仕事ではないから知りません」と言っていると、良い結果にはなりません。仕事場において同僚と仕事をする時には、忍耐が大事で、人によっていろいろな見方とか考え方、感じ方が違うわけですから、自分の考え方、見方が一番正しいと思わないことです。他の人がいろいろなことを言ったり、感じたりして自分とは違っていても、それは人によって違うという風に見る忍耐の力が必要です。

 なぜかと言うと、私たちにはいつも完全でありたいと思う心が有って、それが時としていろいろな問題を起こします。そんな風にして他人と自分との関係というのは緊張をともなったりします。お互いに完全を求めるために緊張を伴います。それに対して許すという事が大事で、「結局、他人は自分を満足させてくれるわけではない」と思って、他の人たちを許すという事が大切です。ですから慈しみの心を育てる時に忍耐と、許す事、この二つがたいへん重要な事になります。

 忍耐と許しの心が有れば怒りを乗り越えていく事が出来ます。慈しみの心を基礎にして、コンパッション(悲)、つまり苦しんでいる人に対する共感というものが育ってきます。コンパッションについてですが、苦しんでいる人を実際に見たとき、たとえばホームレスの人とか、何も食べるものが無くて物乞いをしている人たちを見たとき、自分の心にどういう感情、気持が起って来ているかという事をチェックします。
 皆さん、自分の中にそういう慈しみの心とか苦しみに対する共感の心が起っているのか、それとも、「関係ないからあっちへ行ってくれ」という気持ちを持っているのか、どうでしょうか?どちらが善いでしょうか?

 ですからメッタ(慈しみ)の心と苦しんでいる人に対する共感の心(コンパッション)とウペッカー(捨)の心が大事で、そういう心を持っていないと、いつか自分がそういう貧しい立場になったりします。慈しみの心を持って接する事によって、自分自身を育てていくことができます。

 慈しみの心を与える時には、与えるだけで返ってくるということを期待しません。ただあげるだけという気持ちでします。ミャンマーでは、よくお布施をするのですが、お布施をすると、良いカルマが帰ってくるというふうに期待してやっています。お布施にも、色々なレベルがあって、たとえば阿羅漢といわれる人にお布施をすると、もっと高いカルマを積むことができる。そういうレベルも色々あります。僧院とかには、皆お布施をするのですが、尼さんのところにはあまり来ません。

 貧しい人たちも、僧院などに一生懸命お布施をして、心による良いカルマを積んでいます。(僧院にお布施すると、高いレベルのカルマをつむことができるが、貧しい人にお布施してもそんなに高いカルマは望めないから、僧院に布施する人が多い)。それがミャンマーの伝統的な考え方だそうです。サヤレーも、小さい時は伝統に従って、僧院に一生懸命お布施をしていたそうです。

 サヤレーの体験で、ヤンゴンからモーラミャイン(パオの本部がある)へ行く夜行バスに乗ると、途中数箇所に停まります。そこで、子ども達が物を売りに来る。たとえば夜中の1時とかに、子供達が来て物を売る。ところがなかなか買う人がいない。その子どもたちは非常に家が貧しくて、そこでバスのお客に物を売って、生活の糧を得ようとしているのですが、なかなか売れない。そういうのを見ていて、サヤレーは子どもたちにお布施するそうです。

 そうすると、子どもたちも喜ぶし、親たちも嬉しく思う。これは、僧院にお布施をするのとは違うが、そうすることによって、自分の心が幸福になるということでやっています。僧院にお布施すると立派な建物が建ったりする。僧院の建物ができると、瞑想する人が利益を受ける。それはひとつのお布施の功徳となっています。それに比べて、子ども達にあげても何か建物ができるわけではないが、心が幸せになる。そういうのがあって、あげています。

 見返りを求めるお布施は、時には怒りを生じる。これだけ上げたのに、何も返ってこないではないかというような形になるので、お布施は、ただ上げるだけにします。お布施をするときには、心をこめて、幸福な気持ですることが大切です。家族のメンバーに対しても親切な心を持って接することが大事で、そうすることによって、色々な問題は解決していく。たとえば、職場においても、そういうメッタの心で接することで、人間関係が良くなる。これは、人間関係をくっつける糊のようなもので、そういう役割をします。

 例えば、サヤレーが6つぐらいの時、家で砂糖をおいておくと、蟻が砂糖を食べにくる。蟻に砂糖をお布施してあげて、とても幸福な気持になる。でも、お母さんは汚れるから好きではなかったそうです。ほんの小さなお布施ですけれど、その時の気持、インテンション(意志)が大切です。すべてに対して、こういうことをすることが大事で、例えば、友達に対して、いろいろなものを分け与える。たとえ小さなビスケットであっても、分け与えて、慈しみの心でシェアする。もらった人も、感謝の気持ちを持って応えるということがとても大切です。

 そういう風にして毎日毎日、心において、言葉において、行動において、慈しみを実践していくことが大事で、毎日毎日やっていくことで、心が柔らかくなって、穏やかになり、怒りが出てきた時に、それを乗り越えることができるようになります。それで慈しみの波羅密を積んでいくことが出来ます。そうしてメッタ(慈しみ)の力を非常に力強くすることができるようになります。これは、たとえばバッテリー電池のようなもので、電池があっても中が空っぽだと、光が付かないように、バッテリーに中身を入れる必要があります。毎日、こんなふうにして慈しみの心を訓練していくと、何かが起こった時に、それが充電されていて、すぐに応えることが出来るようになります。

ライオンの息子の話  
これは例え話でスリランカでのお話です。昔、ティッサという王様がいました。となりの国は、バングラデッシュですが、そこにも王様がいて、王女をスリランカのお后としてあげたそうです。ところが、スリランカへ行く途中、森のどこかで迷っていなくなってしまった。その森の中で、バングラデッシュの王女は、ライオンと出会い、好きになってしまった。それで、一緒になり一人の子供が出来ました。
 このお父さんライオンが、毎朝餌を探しに外へ出る時に、洞窟の中にいたわけですが、大きな岩で洞窟の入り口をふさぎ、王女と息子が外に出られないようにした。そうして出かけて行きました。それで、食べ物を探して戻ってきて、また石をどけて、中に入りました。

 毎日、出て行く時は石で入り口のところに蓋をして、帰ると開けて入ってきたわけです。その息子というのは、お父さんはライオンなのですが、体は人間の体をしていて、パワーはライオンの力を持っていた。それで息子がだんだん大きくなって行って考えたのは、「何で自分達は人間なのに、こんな檻にいなくてはならないのだろうか」ということで、そこから出たくなった。そのライオンの父と住むのがいやになったということです。
 息子は、非常に力があったので、大きな岩を外に出すことができました。それで、岩をどかして、母親と一緒に森から逃げました。それで、ライオンが戻って来て、誰もいないのに気付き、森中を探し回ったけれども、見つからないので、非常に怒った。その近くに村がありましたが、村に入って行って、探し回ったが、村にもいなかった。それで、村人たちをみんな殺してしまったということです。

 このライオンは、そんなふうにして、村から村へと捜し求めて、その度に、村人を殺すので、村人たちは非常に恐れて、他の村に避難するようになった。それで、村人たちは王様に、「こういうライオンが出て、村人が殺されて危険な目にあっているので、何とかしてほしい」と直訴しました。王様は家臣と色々相談したのですが、ライオンは恐ろしいので、「誰かこのライオンをしとめる者はいないか。もし、ライオンを退治できたら、その人を王様にしよう」という布告を出しました。

 布告を出したのですが、みんなは恐れて来なかった。その中で、独り来たのは、ライオンの息子でした。息子は森の境まで行って、そこにいた自分の父親のライオンと、顔と顔を向き合わせて対面することになりました。そんな風に対面したのですが、父親の方は自分の可愛い息子が現れたので、とても幸福な気持ち、慈しみの気持ちが湧いてきました。ところが、息子の方には怒りの気持があり、ライオンを殺したいという思いがありました。

 息子はライオンに向かって、矢をどんどん射るのですが、ライオンの方は、メッタ(慈しみ)の力が非常に強いので、矢が飛んできても、刺さることはなかった。動物でさえも、慈しみの心があれば、ジャーナ(禅定)に入っていなくても、矢が刺さることは出来ません。最後の一本の矢を放つとき、ライオンの方は、最初慈しみの心を持っていたのですが、「息子は自分を殺そうと思っている」ことがはっきりと分かって、怒りの心が出てきました。怒りの感情に包まれた時に、息子が矢を放った。その矢は、眉間のところに当たって、ライオンは死んでしまいました。
 ですから、たとえ禅定に入らなくても、慈しみの心を持つことはとても大事なことで、自分の家族に対してあるいは、友達に対して、慈しみの心を持つことは非常に大切です。

 ライオンが死んでから、息子は王様になりました。王様になった最初の日に、非常な頭痛に悩まされました。家臣に、「何でこんなに頭が痛いのだろう」と聞いたら、「ライオンをしとめたそのカルマが結果として表れて、頭が痛いのでしょう」と答えました。それで王様は、「カルマで痛いとすれば、それを克服するにはどうすればよいか」とたずねました。家臣は、「ライオンの像を作りなさい。その像にむかって、毎日、許しを請いなさい」と言ったので、そのようにしました。

 そして、ライオンの像の横にパゴタを建てました。王様は、そのライオンの像に許しを請うために毎日拝んでいたのですが、それを国民に見られるのがいやなので、仏像を安置したパゴタを作って、パゴタにいつも礼拝して、それと一緒にライオンの像も拝んでいたわけです。そういう風にして、許しを請うて拝んでいるうちに、彼の頭痛は無くなってきました。そういう逸話があるために、スリランカ・インド・ミャンマーなどでは、パゴタの横にライオンの像があるわけです。

 動物でさえも、慈しみにこれだけの力があるわけですから、まして人間は知恵を持っているから、努力をすれば力はもっと大きなものになります。さらに、ジャーナ(禅定)まで達することができれば、そのことによってまた、慈しみの力は非常に大きなものにすることが出来ます。

 そんなふうに、瞑想する前に5分くらい慈悲の瞑想をすることによって、心が非常に柔らかくなって、穏やかになる。今度は、その穏やかさを呼吸の方に向けることによって、入ってくる呼吸、出て来る呼吸をその心で見るようにします。そうすると瞑想がうまく進むようになります。

 そんなわけで、瞑想する人にとって慈悲の心がとても大事です。今の時代はとても忙しく、いろいろな軋轢とかいざこざが起こります。これはどこの国においてもそういうことがありますが、一生懸命に働いて、働き過ぎになって疲れがたまっているという状態があります。そうなってくると心は幸せではありません。人生は幸せではないと感じるようになります。そういうストレスの多い状況ですが、それでて瞑想をしに来ると今度は瞑想の先生が、「もっとやれ、もっとやれ」と圧力をかけてくる(笑い)。それで人生は苦に満ちていると言うことになります。

 サヤレー がもっとしっかりやりなさいと言うのは、「しっかりと集中力をつけなさい。そうすれば人生はもっと幸せになります」ということを言っているのです。今瞑想をして、例えば家に帰ってきたときに、仕事で疲れていたとしても、ジャーナ(禅定)に入ることができれば、とてもリラックスすることができ、疲れを癒すことができます。

 ですから感覚にと言うのが大事なことです。仕事が忙しくて、疲れているときに、どうして楽しくなれるか分からない。にっこりと笑うことができない。リラックスすることができない。緊張と問題を抱えてしまいます。ですから、私たちは慈しみの心を持つことが大事で、そして心をバランスさせることが大切なわけです。そして呼吸に集中すれば呼吸はとても柔らかくなってきて、そして心もまた柔らかくなってきます。そうすると、そのあとで10分間でも集中することができ、そして容易にニミッタが現れてきます。

 ニミッタはそれほど難しいものではありません。とても容易なものです。ただ私たちの心が難しいだけです。私たちの心はとても複雑で、いつも何かを作り出しています。そして、止まることはありません。欲望に動かされ終わることがありません。ですからコントロールすると言うことが大切なわけで、ジャーナに入ることができるようになればそれはとても簡単にできます。1時間でも2時間でも心がさまよいだすことなしにいることができます。

 一般的に心は一つの対象に長い間、集中することができません。例えばテレビを見て、面白いドラマをやっているときに、1時間でも2時間でもそのドラマに集中することができるでしょう。皆さんどうですか。同じことなのです。興味のある対象には集中することができます。次はどんな風になるのだろう、と言うふうにその結果を知りたくなります。それで見ているのが楽しくなります。興味を持ちます。
 呼吸を見るのは、とても退屈な対象です(笑い)。あまり面白くありません。ですからメッタ(慈しみ)の助けが必要になります。慈しみの心を呼び出すと言うことはとても易しいことです。皆さんどうですか。易しいですか難しいですか。

菩薩が鹿だった時の話
 ここで慈しみに関する一つのお話をしましょう。ブッダが、悟りを開く前に菩薩であった時、多くの過去世がありましたが、森に住む鹿だったことがありました。彼のカルマによってその体は金色をしていました。その鹿には多くの弟子がいました。別の森にもやはり金色をした鹿がいて、多くの弟子を持っていました。
 菩薩はその時の名前をニジョーダといい、別の鹿はサカと言いました。後にデーバダッタになり、ブッダに危害を加えた人です。そこはバラナシという国でしたが、その王様はいつも食事のときに、鹿の肉を食べなければ気がすまない人でした。彼は毎日鹿の肉を食べ.そのために村人に森へ行って鹿を獲らせました。 

 ですから王様が森へ来ると、森にある村の人々は、大変忙しく、自分たちの仕事をすることができませんでした。それで村人たちは、王宮のそばにある公園に鹿を放そうと考えました。そうすれば、森で王様の世話をする必要がないからです。村人たちは二つの鹿の集団を捕まえて王宮の庭に放ちました。そして王様は食用にする鹿を庭でつかまえて料理をしました。それで鹿たちは大変恐れました。

やがて鹿たちはみな殺されることを恐れて、だんだん痩せていってしまいました。鹿たちは「とても恐ろしくてどうしていいかわからない」とニジョーダに相談しました。そして菩薩であるニジョーダと、デーバダッタであるサカは、その事について話し合いました。「弟子の鹿たちはみな恐れて苦しんでいる。そして毎日多くの鹿が殺されている。それなら、弓で射止められて殺されるのではなく、毎日1頭の鹿をこちらで決めて王様の所へ行かせ、食べてもらってはどうだろう。そうすれば毎日殺されることを心配しなくて済むだろう」。それで、今日はニジョーダのグループから、明日はサカのグループからという風に、順番に決めることにしました。王様は、2頭の金色のリーダーの鹿に対しては、殺すことを免除しました。

 ある日、サカの弟子のうち妊娠して臨月にある鹿に、殺される順番の日がやってきました。しかしその雌鹿は、子どもがもうすぐ生まれるので殺されたくありませんでした。そこでサカの所へ相談しに行きました。「今日、私は死にたくありません。いずれ私は子どもが産まれて2頭になるのですから、それまで待って、今日は他の鹿を差し出していただけないでしょうか」。しかしサカは許しませんでした。「代わりの鹿はいない。あなたが行かなければならない」。それを聞いた雌鹿は、とても動転しました。もしもみなさんの弟子がこのように相談しに来たら、どのように決断しますか?

 その後、この雌鹿は、ニジョーダの所にも行って相談しました。するとニジョーダは、直ちに次のように決断しました。「わかりました。心配しないでください。あなたは行く必要はありません。他の鹿も行く必要はありません。私が行きましょう」と言って、ニジョーダが王宮へ行きました。
 これは良いことですか、悪いことですか?とても良いことですよね。とても美しいことです。この中には、慈しみの心と、忍耐と、苦しみに対する共感があります。そしてもう一つ、自分の命を差し出すという、布施の心も入っています。

 そして、ニジョーダは、屠殺場へ行きました。それを見た屠殺場の人は、大変驚きました。なぜならこの金色の鹿は殺されることを免除されていたからです。ですから、彼は果たしてこのまま金色の鹿を殺して良いのだろうかと考えて、王様に報告しました。王様はそれを聞くと、沢山の従者たちと一緒に、その状況を見に行きました。

 王様はニジョーダを見て彼に聞きました。「お前は殺されることを免除されているのに、なぜここにいるのだ」。するとニジョーダは今までの経緯を王様に話しました。それを聞いた王様は、「人間の社会でもそのように自分を差し出して布施する人など見たことがない。お前の行いは慈しみの心と忍耐と、苦しみに対する共感にあふれ、私はとても感心した。だから立ちなさい。私はお前を殺すことはしない。そしてお前の弟子の鹿たちも殺すことはしない」と約束をしました。

 そこでニジョーダは、「ではもう一方のグループの鹿たちはどうでしょうか」と王様に聞きました。王様は、「よろしい、もう一方のグループの鹿も殺さないことを約束しよう」と言いました。ニジョーダはさらに、「では森に住むすべての鹿たちはどうでしょうか」と聞きました。すると王様は「よろしい、森に住むすべての鹿たちも殺さないことを約束しよう」と言いました。このように、すべての鹿が、ニジョーダのお陰で殺されることを免れたのです。
そしてニジョーダは王様に、良い指導者になるためには、慈しみの心と忍耐と、苦しんでいる者に対して共感を持つことが大切だという話をして森へ帰って行きました。

 大変美しい話だと思います。皆さんいかがですか。私たちは自分自身の欲に気をつけなければなりなせん。なぜなら、欲で幸せを感じている時と言うのは、その背後で多くの痛みや犠牲が伴っているからです。動物も自分の命を愛しているのです。動物だって死にたくはないのです。今私たちは肉を食べたいと思えば、スーパーマーケットに行けば自分で殺さなくても手に入ります。そのような時に、生き物に対して慈しみと哀れみの心を持つようにしてください。そうすればやがて食べたいという欲はなくなります。慈しみや哀れみの心が表れれば、傷つけたくない、殺したくないという気持ちになって、私たちの心を守ることができます。

 ですから、五戒をしっかり守るようにしてください。五戒というのは、良いカルマを作るためにとても大切なのです。私たちが何かをしようとする意思は、カルマを作って自分に戻ってきます。悪いカルマが戻ってくるのを、私たちは受け入れたくありません。しかし受け入れなければなりません。なぜならカルマというのは、自分自身の過去の行いの結果だからです。
 我々は誰でも完全ではないので、時には戒を破ってしまうこともあるでしょう。しかしそのような時に過去について心配する必要はありません。現在と未来において再び誤りを犯さないように気をつけるようにしましょう。

 慈と悲の心を育んでください。そしてもっと幸福な気持ちを持つようにしましょう。20分、あるいは30分間、呼吸に集中して幸せを感じるようになってください。よろしいですか?時間の無駄だと思わないでださいね。みなさんが吸う息と吐く息に集中して、気付きの瞑想をしている時は、沢山の良いカルマを作っているのです。ニミッタが出ないからといって心配しないでください。時間が来れば、そういうものは自然に見えてくるものです。心配すればするほど、ニミッタは出てきにくくなるのです。

 ですから、新年のこの休日に、呼吸に集中することで幸せを感じて楽しんでください。「新年あけましておめでとうございます(ハッピーニューイヤー)」と言いますけれども、「楽しい呼吸を!(ハッピーブリージング)」と言いましょう。 明日新年を迎えますが、これはとても大事な日です。一年の始まりの日が良いと、一年中良くなります。ですから、元旦には八戒を守ってください。そして怒りや欲を起こすことなく幸せな気持ちで呼吸に集中してください。明日、早朝から一日中呼吸に集中すれば、この一年のために沢山の良いカルマを作ることができます。よろしいですか。ビールやご馳走より良いと思います。どちらが良いですか。「ハッピー・ニューブレス!」の方がいいですね。ありがとうございました。

 サードゥ!サードゥ!サードゥ!

サヤレー法話  「集中とバランス」


 今晩は、瞑想においてどのように集中のバランスをとるのか、ということについてお話したいと思います。今日一日アーナパーナ瞑想をしてきたわけですけれども、楽にできた人もいることでしょうし、あまりうまくいかなかった方もいることと思います。うまく心をコントロールできた人というのは、昨日もお話した「五つの障害」がそれほど問題にならず、そのために心が対象を見ることができ、心をコントロールすることが比較的容易にできる人です。

 「五つの障害」が多い人はなかなか心をコントロールすることが難しいのです。なぜ難しいのでしょうか。難しい人というのは、まず心がさまよいだし、妄想が浮かんできたり、眠気が襲ってきたのではないでしょうか。もう一つは心を呼吸に集中させようとしても、しばらく経ってくると退屈になってしまうという、退屈感が出てきたのではないでしょうか。

 心をコントロールするには「五つの要素」が大事になってきます。「五つの要素」というのは、まず第一にサッダー(信)、つまりブッダやダンマ(理法)に対する信がしっかりしているということです。二つ目は精進。三つ目がマインドフルネス(サティ)あるいは気付きの力。四つ目が定(サマーディ)、ひとつの対象に集中していく力。五つ目が智慧の力。この「五つの要素」要素が大事になってきます。

 一番目の信ですが、ブッダとダンマとサンガに対する信がしっかりしているということです。信をしっかり保つためには、ブッダの教えやブッダがどのような人であるかということを知る必要があります。ブッダや法に対する信があると、瞑想していて幸福な気持ちになります。けれども信がないと、瞑想していて退屈になりやすいのです。皆さんがどれだけ仏教に対して信を持っているかは分かりませんが、ここでミャンマーのちょっとしたお話をしてみたいと思います。

信仰深い娘の話 
ミャンマーは上ビルマと下ビルマという二つに分かれていて、下ビルマは南の方のヤンゴンとかパゴーとかの地域のことです。昔々下ビルマの王国に、ある王様がいました。この王様は、もともと仏教徒だったのですが、家臣たちはみんな仏教徒ではなかったので、王様は仕方なく仏教から改宗しました。王様が仏教徒を止めてしまったとき、全ての国民に対して、「仏教徒であることを止めて違う宗教を信仰しなければならない」という布告を出しました。同時にそれまでは家の中に仏像などがあったわけですが、王様は家に仏像を置くことも禁止し、仏像は川へ捨てなければなりませんでした。

 ある村に、ダラートという名の、ブッダとダンマに対してとても信仰の厚い娘さんがいました。皆が王様に殺されるのを恐れて改宗したにもかかわらず、このダラートだけは強い信仰を持っていたので、仏像を家に置いて仏教徒であり続けました。
 ある時、ダラートは友達と一緒に川へ水浴びに行きました。水浴びをしていると、川上から八体の仏像が流れてきました。それを見つけたダラートは、仏像を川から拾いました。それを見ていた友達は、とても心配して言いました。「仏像を拾うのをおよしなさい。仏像を持っていることが王様に知れたら、殺されてしまいますよ」。しかしダラートは、「たとえ私が仏像を持っている事で王様に殺されても、気にしません。私は死んでも構いません」と言いました。そして、ダラートはすべての仏像を家へ持って帰り、祀って毎日礼拝していました。

 しかしある日王様がその事実を知り、彼女を殺すよう命じました。王様は殺す時に、見せしめのために公の場で死刑を執行しようと考えました。そして、ダラートを象に踏ませて殺そうと考えました。なぜ王様はそのような方法を考えたかというと、それを見せることによって人々が恐れて、もう仏像を礼拝しなくなると思ったからです。
 とても凶暴な象を連れてきて彼女を踏み潰させようとしたのですが、象が近づいてくると、彼女は毎日やっていたように三帰依を唱えました。それを見た象はブッダのパワーを感じて恐れを抱き、ついには逃げ出してしまいました。ミャンマーではこのように三帰依を唱えると、色々な危害から守られると信じられています。

 王様は非常に腹を立てて、また別の象を連れてきて殺させようとしましたが、また同じように彼女が三帰依を唱えると象は逃げ出してしまいます。また違う象を連れてくると同じことが起こって、ついに王宮にいる象がみないなくなってしまいました。王様は非常に腹を立てて、彼女は何か黒魔術を知っているのではないかということで、火あぶりの刑にしようとしましたが、また彼女が三帰依を唱えると、火は彼女の体を燃やすことができませんでした。

 次に王様は、違う方法で彼女を殺そうとしました。土を掘って穴をあけ、彼女をその中にいれて上から土をかぶせてしまおうと考えました。そして、家臣に命じて土を掘って穴を掘り、彼女を落としました。王様が穴の近くに寄ってくると、彼女は王様に慈悲をずっと送っていました。王様が土をかぶせようとしても彼女は恐れることもなく慈悲を送っていたため、王様はそれを見て同情のような感情を感じ、それ以上続けることができなくなりました。

 王様はダラートに言いました。「よし、ではお前に最後のチャンスを与えよう。家に祀ってある八体の仏像をパワーを使って私の目の前に見せてくれたら、お前を自由にしてやろう」。彼女は「分かりました」と言ってお祈りしました。「この国の全ての人々が改宗してしまったけれども、私はブッダ、ダンマ、サンガにお祈りして自分一人が仏教徒として残っています。もし私の信仰が真実であるならば、どうか八体の仏像がここに現れますように」と念じて心に決意してお祈りしました。すると、八つの仏像は家から王宮に空を飛んでやってきて、皆がそれを見ました。

 それを見た人たちはとても幸福な気持ちになりました。王様は非常に驚きました。そして王様はブッダ、ダンマを信じるようになって、再び仏教徒に戻りました。王様が仏教徒になった後、全ての国民が仏教徒になることを許しました。その後、信仰心の深いダラートは王様と結婚してその国の女王になりました。ダラートが女王になった後、治めていた下ビルマの全国にパゴダ(仏塔)や沢山の仏像を作ったので、今でも下ビルマにはパゴダや仏像が沢山見られます。彼女のおかげでミャンマーは今でも仏教の国を保っているのです。今でも彼女の信がみんなの心に生きています。

瞑想を支える精進 
ブッダは涅槃に入っていないわけですけれども、私たちはブッダの九つの徳を今でも信じています。そして私たちはダンマ(理法)も信じています。それは智慧を与えてくれるし、涅槃への道を教えてくれるので、信じています。そして私たちがここへ来ているのは瞑想をするためなのですが、瞑想をしているときもダンマ(ダンマというのは非常に広い意味があって、いろいろな現象そのものを表わしたり、真理という意味があります)やブッダを対象として感じているわけです。ですから、瞑想している時はブッダとダンマを感じているので、とても幸せで、退屈にはならないのです。幸せな気持ちというのがあると、努力をしようという気持ちも起こってくるのです。そういう幸福感がないと、なかなか努力をしようという気持ちにはなれないのです。

 特に初心者にとっては努力(精進)するということが非常に大切です。努力がないと、心が落ちてしまって眠くなったり、心がさまよってしまったりするのです。人間の本性というのは、自然にしておくと、貪瞋痴(欲・怒り・無知)に流されるという性質があって、努力しなくてもだんだん悪い方向に行ってしまいます。良い方向にもっていくためには瞑想をして、努力しなければなりません。どうですか、そう思いませんか?
 ここに来ている皆さんはそれがよく分かっていると思います。このような休日に入ると普通はどこかへ遊びに行ったり、休養しようという気持ちになるのですが、皆さんは努力してここへきて瞑想しようと思ったのです。それは智慧があるからです。せっかく智慧をもってここまで瞑想に来たのですから、努力してジャーナまで到達しようという気持ちで励んでください。「ジャーナまで到達しなかったら帰らない」という決心でやってみてください。 

 心というのは非常に大きな力を持っていて、心を制御したいと思い、心を制御することで幸福感を感じられれば、簡単に心を制御(コントロール)することができます。、心を制御したくないと感じ、制御することに幸福感を感じなければ、心を制御することが難しくなります。
 努力とか精進というのは、要するに心のエネルギーのことです。人間の心というのは、努力をしていないと、どんどん沈んで行ってしまうという性質があって、それは例えて言えば、泥の池の上に咲いている蓮の花みたいなものです。蓮の花もしっかりと支えていないと、だんだんと泥の中に沈んで行ってしまうのですが、水面から出て咲いているというのは、ある種の努力があるからです。
 
 もう一つの例え話をしたいと思います。これはブッダの時代の、パリーヤという象のお話です。このパリーヤという象がまだ若い時は、非常に力があり、他の国との戦でいつも勝つので、王様も非常に大事にしていました。しかしだんだん歳をとってきて引退ということになりました。引退して森に入って住んでいましたが、沼の湿地に入って行ったら、ドンドン沈んでしまいました。人々が集まって来ましたが、象は自力で上がってくることができません。人々は、どうすることもできないのでハラハラして見ていました。

 その時に王様は、そのニュースを知り、かつての象の調教師にその話をすると、調教師はすぐそこへ駆けつけました。昔若い時に他の国と戦った時、象を鼓舞するためにドンドン太鼓を叩いて気持ちを奮い立たせました。調教師は、象が沈みかけている沼に行って、その太鼓をドンドン、ドンドン叩きました。そうしたら象が音を聞いて、若い時に戦った事を思い出し、心が非常にパワフルになり、力が出てきました。それで、「エイッ」とばかりにそこから飛び出る事ができたそうです。
 
 私達の心も同じようなもので、自分の心で、「よしっ、やるぞ」と思って、眠気に打ち勝とうとしたり、「とにかく、集中しよう」という風に、心でいつも思っていると、段々といくつもの障害を乗り越えて行く事ができるようになります。心はそんな風にして努力で強く持たなくてはなりませんが、呼吸の方は、あまり強くやろうとはしないで、いつも自然に、ナチュラルな呼吸でやってみてください。呼吸はいつもソフトに、そして幸福な感じでやるようにしてください。

六種類の妄想 
 努力が強くなってくると、サティー(気付き)の力ですね、マインドフルの力が一緒に強くなってきます。サティー(気付き)ということですけれども、これがとても大事で、いつも呼吸に注意を向けているという事です。呼吸以外の対象に心を向けないようにしているのが、気付きの力で、マインドフルなのですが、それが弱くなってくると、妄想が起こってきたり、他の方に心が行ってしまって、だんだん対象が見えなくなってしまいます。サティの力によって呼吸をいつも見ている、注意を向けているという事が大事なわけです。
  
  入ってくる息と、出て行く息を対象に見ているのですが、吸う息、吐く息を非常に簡単に見ることができる人もいると思いますし、難しい人もいると思います。呼吸を見るのが難しいという人は、一つの葛藤みたいなものが起こっているわけす。その葛藤というのは、つまり妄想が起こり、心がさまよい出してしまうという事が起こっているのですが、妄想というのも六種類の妄想があります。六種類というのは、まず、欲です。そして貪・瞋・癡です。欲と、怒りと、無知(迷妄)という三つ。

四つ目は、信です。信じる気持ちですけれども、何でこれが妄想の原因になるかというと、仏・法・僧に信が強いと、思考が入って来てしまい、今やるべきことは呼吸を見ることですが、それよりも「いずれ私は出家したい」とか、「どこそこの瞑想センターに行ってやろう」と、そういうような思考が入ってきてしまうからです。 
 ですから信を持つのはとても大事なのですが、呼吸瞑想の時に信は一応置いておきます。瞑想する時はあくまでも呼吸を対象に瞑想して、信から出てくる「どこへ行こう、今度はどうしようか」という考え方は起こさないで、呼吸に集中してください。
  
  ブッダが悟りを開く前に、6年間ウルベーラの森で瞑想をしていました。ブッダは、森で瞑想をしていた時に、例えばクティ(小屋)で、毎朝起きるとドアを開けて森を見渡し、あるいは散歩をします。その時に、「とてもすがすがしい朝だ」とか、あるいは森の中に花が咲いていたら「大変綺麗な花だ」という風に思ったりします。それでクティに戻ってきて瞑想する時に、そういう光景とかが、思考に入ってきます。それは瞑想に良くないという事で、私達にも同じような事が言えます。ですから私たちが例えば外で歩行瞑想する時にも、「なんてきれいな空なんだろうか」とか、「この木は素晴らしい木だ」とか、「花が咲いてる」とか、そっちの方を見ないで、ひたすら呼吸に集中するようにしてください。歩いている時も必ず呼吸の方に意識を集中するようにしてください。
  
 五番目は、さっきの逆で、無欲です。それから六番目に無瞋、怒りのない事です。無瞋についていうと、それは慈悲の心なのです。最初に慈悲の瞑想をやって慈悲を感じて、人々を思い浮かべますが、瞑想中にまたそういう人が出てくると、そっちの方に心が行ってしまって、やはり思考になって妨げになってしまうので、瞑想中は呼吸に集中して、慈しみ(メッタ)の心は一応置いておくようにします。最初の5分ぐらいは慈悲瞑想をしますが、呼吸瞑想に入ったら一応それは置いておいて、呼吸の方に集中するようにします。
  
妄想を避ける四つの方法
 この六つの原因による思い・考えが入ってくるのです。妄想というのは、一つの考え・思いですから。瞑想する時には、こういう思いが入り込まないように、考えがさまよい出すのを切って行くということが大事です。それでも呼吸に集中しようとして退屈さが起こってくるという事があります。その時には四つの方法があります。第一の方法は、自然な呼吸をしていて、ゆっくりしてきて、息が長く入り、長く出ていくという風に感じたら、「息が長く入り、長く出て行く」と気付きます。その時に、呼吸の後をついて行くと、段々肺の中に入って行ってしまいますが、それはしないで、あくまでもこの鼻のあたりに意識は置いておいて、呼吸の出入りを見ているというようにします。

 次は呼吸を見ていて、短い呼吸が入ってきて短い呼吸が出ていくという風な感じたら、「短く吸って短く出ていく」という風に気付きます。
  次は呼吸全体を感じるようにします。呼吸の始まりそれから真ん中、それから終わりです。吸う時に「始まり、真ん中、終わり」。それから出す時も、「始まり・真ん中・終わり」というように呼吸の全体をを三つぐらいに分けて眺めて感じるようにします。
  
 四番目は、そんな風にして見ていると、もっと呼吸を細かく見る事ができるようになってきます。微細な呼吸が見えるようになります。微細に呼吸が見えるようになったら、「微細な息が入って、微細な息が出ていく」と気付きます。こんな風にしてだんだん、微細な呼吸が見えるようになってきて、集中が良くなってくると、心が非常に快適、軽快になってきて、体の方も軽い感じになってきます。心が軽快になって体が軽くなってくると、ある光が現れ始めます。それは集中が良くなってきた時の印、サインなのですが、人によって色とか、形が違っています。
  
集中のサイン、ニミッタ
 この時に光が見えてきたとしても、その色とか光には集中しないで、あくまでも呼吸の方に集中するようにしてください。光の方に意識を移してしまうと、すぐそれは消えてしまいます。ある時は、呼吸が非常に微細になってきた時にそういう光が見えてきてそれを続けていると、ババンガ(有分心)と言って、ある種の無意識状態みたいな所に心がスッと入ってしまうという事も起きます。

  これは初心者で、ある程度瞑想が進んだ人が陥りやすい事なのです。段々呼吸が微細になってきて、集中が良くなってくると、ある種の光がぼんやり見えて、非常に心が平和な感じになってきます。そうすると幸福感の方に意識が集中するようになり、呼吸ではなくて幸福感の方に心が行くようになって、それを追っているとスーッと無意識の方に行ってしまいます。ですから、呼吸が柔らかくなって微細になってきて、心が平安で幸福になっても、そちらの平安の方に心を持って行かないで、あくまでも呼吸の方に意識を集中するようにしていてください。そうしていると、光がもっとはっきりしてきます。
  
  もう一つの問題は、呼吸が非常に微細になると、呼吸が消えてしまったかのような感じになる事があります。呼吸がどこに行ってしまったのか、分からなくなってしまう、そういう感覚になる事があります。その時に、待っていても一向にはっきり呼吸が現れてこない、というような事が起こります。そういう時は、意識的に呼吸をして、「吸ってる、吐いてる」という風に呼吸を意識的にやるようにすると、また呼吸を感じる事ができるようになります。また呼吸が戻ってきます。

 そんな風にして、呼吸に集中していって集中力がついてくると、いろいろな明るい色が現れてきます。これは人によって黄色とかオレンジとか青とか、いろいろな色があるのですが、その色はあまり気にしないでください。そしてさらに呼吸を見続けていると、色がだんだん白っぽくなってきます。この白い光が第二段階のニミッタです。
 光が白くなってもそちらに意識を向けないで、呼吸に集中していると、白くなってきた光が輝く星のようになってきて、だんだん鼻の方に近づいてきて、鼻の前のあたりで止まります。それが第三段階のニミッタです。光が安定して見えてくるようになったら、今度は呼吸ではなくて、ニミッタに心を集中してください。そして心で「アーナパーナ・ニミッタ、ニミッタ、ニミッタ」というように、ニミッタの光の方に意識を集中するようにします。10分くらいニミッタに心を集中させると、心が非常に平和な幸福な気持ちになってきます。それでニミッタの方に心をずっと向けていると、五禅支が現れて、禅定(ジャーナ)に入って行きます。

五禅支 
禅定に入ると、五つの要素が現れます。一番目はヴィタッカ、尋(じん)という、心をアーナパーナ・ニミッタという対象に向けて行く要素です。二番目は、ニミッタをずっと継続して見続けていく要素、これをヴィチャーラ(伺)と言います。支える心、ニミッタを見続ける心です。三番目の要素はピティと言いますけれども、これは日本語で書くと「喜」です。ニミッタを見続けていると、心が幸福になってきますけれども、その喜びの感覚です。四番目はピティと似ているのですが、スッカという要素で、日本語では「楽」と書きます。ピティは喜びで、振動しているような感覚ですが、スッカというのはもっと落ち着いた、静かな淡々とした喜びという感覚です。

 例ばアイスクリームを見て、食べる前はアイスクリームを食べられるという非常に嬉しい気持ちになります。食べた後は、満足して落ち着きます。食べる前の喜びがピティで、食べた後の落ち着いた喜びがスッカです。分かりましたか?
 五番目はパーリ語ではエカーガタ、日本語では「一境性」書きますが、心が一つのニミッタという対象にぴたっと集中して張り付いている状態です。そんな風にしてニミッタに心が没入していると、五つの要素(五禅支)が起こってくるわけです。

 明日はみなさん第一禅定に入れるように頑張ってください。できますか、できませんか?(会場、苦笑)。
心は非常に強力ですから、ただ心をコントロールしたいと思うだけで良いのです。呼吸を観察することに幸せを感じれば、みなさん必ずできます。最初の禅定に入ることができれば後の四段階までは非常に容易に達することができます。第四禅定まで達することができれば体の内部の三十二の部分を見ることができるようになります。

 サヤレーは台湾でも教えているのですが、そこにいろいろなグループがあって、とても強力な尼さんたちのグループがあります。その人達は毎年10日間ずつ10年続けてやっているのですが、どんどん成長していてジャーナ(禅定)から体の中を見て、それからナーマ・ルーパという精神現象や体の現象を見るところまで行って、自分の過去世を見るという瞑想まで入っています。今回は強力な決意を持って、ここにいる全員がジャーナに入ってもらいたいと思います。よろしいですか? 台湾に行った時に、「サヤレーはいつも日本でリトリートをやっていますが、日本の人はどうですか」と聞かれても、答えようがありません。

 でもここへ来れて大変幸せです。日本に来ると富士山も見られ、故郷に帰ってきたようで、大変幸福な気持ちになります。いつも合宿の時は皆さんが来てくれて、なんだかふるさとに帰ってきたような気分です。ですから、サヤレーのためにもジャーナに達するように決意してくださいね、良いですか?(笑い)。みなさんが必ず「OK!」という気持ちで頑張っててください。
 
 ですから、マインドフル(気づき)というのが非常に大切で、20分でも呼吸に向けていることが大切になります。ジャーナ(禅定)というのは、非常に強い集中力です。そんな風に禅定に心が達することができれば、心がとても強力で鋭くなってきます。それでそんな風になってくると、次第に洞察力、理解力がついてきます。集中力や智慧がないと、我々の心はいつも散乱していろいろな欲などを追いかけたり愚かな状態になります。それでいろいろな物に執着すると、それによって時間を浪費してしまいます。そういうことによって悪い(不善)なカルマを作ってしまいます。集中力をつけて智慧を持つことができれば、執着を簡単に切ることができます。涅槃に行くことも簡単になります(笑)。

執着による苦しみを絶つ
 それではまた一つのお話をします。ブッダの時代にコーサラ国という国がありました。その国にあるとき大変に強盗が出没したので、王様はサンダッティという家臣に命じて取り締まらせました。サンダッティは強盗を取り締まって、その後王宮に戻って来ました。王様はとても幸せになって、サンダッティに「褒美に今日から7日間だけおまえを王様にしてやろう」と言いました。7日間の間王様になった家臣は、お酒を飲み続けて酔いどれになっていました。

 7日目の最後の日にサンダッティは象に乗って、従者と一緒に王宮の庭を王国の門に向かって歩いていました。その途中で、彼はブッダが托鉢に来るところに会いました。ブッダを見たサンダッティは、象に乗ったまま象から降りることもなく、ブッダに対してただ頭を下げるだけの礼をしました。それを見たブッダは、にこっと笑いました。ブッダに従っていたアーナンダ尊者はそれを見てブッダに、「なぜお釈迦様は笑ったのですか」と聞きました。ブッダは次のように答えました。「アーナンダよ、サンダッティを見てみなさい。今、サンダッティは綺麗な格好をしていますが、今日の午後に必ず私たちの僧院に訪れるでしょう。そして法話を聞いた後、彼は阿羅漢になるでしょう。そして阿羅漢になるとすぐに死んでしまうでしょう。今日、彼は死ぬでしょう」。その話は瞬く間に国内に広まって、人々はどうなることやらと、皆、僧院に見にきました。

 サンダッティはブッダに会った後、沢山の従者とともに王宮の庭へ行きました。その中に一人のとても美しい踊り子がいました。その踊り子は、サンダッティが王様になっている間、いつも彼の世話をし、7日間歌い続け、踊り続けていたので、あまりにも疲れて、その時に死んでしまいました。7サンダッティは彼女に対してとても執着、愛着がありました。始め、彼は酔っ払っていてその事がよく分からなかったのですが、踊り子が死んだ話を聞いたとき非常にショックを受けて、酔いから醒めてしまいました。酔いから醒めて心がはっきりしてくると、彼はとても動転し、大変深い悲しみとショックが生まれてきました。彼は心をコントロールすることができなくなって、この感情をどうしていいかわからず、心を鎮めることができるのはブッダしかいないと思いました。

 それから彼は僧院へ行ってブッダに踊り子が亡くなったことによって受けた自分の苦しみについて話しました。ブッダは彼に次のように言いました。「あなたは今世だけでなくて、過去世においても彼女のことでずっと涙を流してきました。あなたが過去に流した涙は海の水よりももっともっと多いのです」。
 ブッダは続けて言いました。「あなたが多くの過去世においてずっと涙を流してきたのは、彼女に対する執着があったからです。この苦しみから逃れるためには、過去の記憶における彼女に対する執着を切らなければなりません。それと同時に彼女に対する執着を未来に持って行ってはなりません。未来における執着を切らなければなりません。現在においてもヴィパッサナーで観察をして執着を断たなければいけません。過去においても、現在においても、未来においても、ヴィパッサナー瞑想をして執着を断たなければいけません。すべての執着を切ることができれば、容易に涅槃に行くことができるでしょう」。

 非常に単純な話ですね。その話を聞いて彼は瞑想をしてすぐに阿羅漢になることができました。なぜそんなに早く阿羅漢になったかと言うと、彼には過去においてずっと瞑想をしてきたという大変大きな波羅密があったからです。私たちはどうでしょうか。今、このような話を皆さん聞きましたけど、阿羅漢になれたでしょうか。まだですか?まだならもっと瞑想が必要ですね(笑い)。サンダッティは阿羅漢になって、自分の生を観て、今日が自分の死ぬ日だということを知り、ブッダのところに行って暇乞いをし、その後すぐに亡くなりました。

 そういうわけで、私たちはすべての苦しみを集中力と智慧によって断っていくといくことが大切なのです。先にお話した、五つの禅の要素が涅槃に行くときに大切な力となります。ですから、みなさん自分の中の、嫌だとか退屈だといった不善な心を乗り越えて、呼吸に集中することに幸福を感じるようにして頑張ってみてください。明日からインタビューを始めます。その時、どのくらい集中できたかを聞きます。皆さん「20分も30分も妄想せずに集中できました」と答えられるようになって欲しいと思います。ありがとうございました。

   サードゥ! サードゥ! サードゥ!

2010年4月 5日 (月)

サヤレー法話「身・受・心・法の観察」

 皆様もこのリトリートに参加されて幸せを感じますように。もし幸せでなかったなら、幸せになるよう努力してみてください。善いことをすれば幸福になります。今回は、「6日間リトリート」ということで非常に短いものでしたが、この間にもニミッタが見え始めた人や、禅定に入りかけた人もいて成果があったことと思います。ニミッタが見えなかった人も呼吸の観察に楽しさを感じたことと思います。

 呼吸に集中することを時間の無駄だと思わないでください。呼吸などは赤ちゃんでもやっていることなので、そんなものをなぜ観察するのかと思う人がいるかも知れません。ブッダは「大念処経(マハー・サティパッターナ・スッタ)」の中で、呼吸(出息入息)の観察が瞑想の対象であると仰っています。これはとても単純な対象です。考えてみれば呼吸というのは簡単明瞭で、子どもの頃からしていますから瞑想の対象としては分かりやすい対象です。どうですか皆さん簡単でしょう、難しいですか?(笑)

 呼吸に焦点を合わせるだけですからとても単純で易しい瞑想です。でも呼吸は単純でも、心は単純ではありません。それが瞑想を難しくしている原因です。ですからブッダはアーナパーナサティ(呼吸の瞑想)を集中力育成の手段として教えてくださったのです。そして集中力をつけることにより、より高度な観察の瞑想、すなわちヴィパッサナーに入っていくことができます。

 またブッダは四つの観察(四念住)について教えてくださっています。
一つ目はパーリ語で「カーヤヌパッサナー」と言って身体(身)の観察です。
二つ目は「ヴェダナーヌパッサナー」と言って感覚(受)の観察です。
三つ目は「チッターヌパッサナー」と言って、心、意識の観察です。
四つ目は「ダンマーヌパッサナー」と言って法の観察です。

身体の観察

一つ目の「カーヤヌパッサナー」は身随観といって身体と呼吸(出息入息)を観る瞑想です。呼吸というのも物質的な働きですから、吸う息・吐く息を観るということは、つまりは物質的なものを観ているわけです。また、身体の三十二の部分についても観ていきます。ブッダはその三十二の身体の部分についても、それぞれの部分について一時間、二時間でもかけて詳しく集中して観るようにと仰っています。より高度なレベルになりますとルーパ・カラーパという物質の最小の微粒子までをも観ていきます。

 吸う息、吐く息を観ているわけですが、ただ呼吸を観ているだけでは無常、苦、無我までは、なかなか分かりません。ですから呼吸をルーパ・カラーパ(物質微粒子の集まり)にまで分解して、さらにその中に地・水・火・風の要素を観て、非常に微細なレベルまで観ていくとルーパ・カラーパが生滅しているのが観えます。そして初めてそこに無常、苦、無我を観察することが出来るのです。このように私達は集中力をもってヴィパッサナーという観察の瞑想をします。

感覚(感受)の観察

 二つ目は「ヴェダナーヌパッサナー(受随感)」です。私達が呼吸を対象とする瞑想をしていると二ミッタが出てきます。それが次第に光り輝き、明瞭になってきた段階で瞑想の対象を呼吸からニミッタに移し、さらに一時間、二時間とニミッタを見続けて禅定に入っていきます。禅定には第一禅定から第四禅定までありますが、第一禅定の中には禅定を支える五つの要素(五禅支)というのがあります。五禅支には「尋」「伺」「喜」「楽」「一境性」の五つの要素が含まれています。

・尋(vitakka)- 心を対象に向ける働き
・伺(vicâra)- ”尋”を支える働き
・喜(pîti)- 対象に集中することで生じる喜び
・楽(sukha)- 心が落ち着くことで生じる楽な感覚
・一境性(ekaggatâ)- 対象と一心になる働き

 第一禅定、第二禅定ではとても強い「喜(pîti)」が現れます。禅定に入るとニミッタと心が一つになってしまいます。ニミッタというものも、そもそも物質的なものです。ニミッタという対象を観ていることにより、心に喜びの感覚が湧いてきます。その喜びの感覚を観ていくのが感覚(受)の観察です。

 そして「感覚」には楽(sukha)、苦(dukkha)、そのどちらでもない中立の感覚の三種類があります。例えば坐っていると、身体のいろいろなところに痛みが出てきますが、これは身体が痛いのではなく心が痛いと感じているのです。身体は単なる身体であって、「痛み」という感覚は心で感じるものです。坐っていることによって地・水・火・風のうちの「凝縮作用」が働いて、身体がこわばって堅くなってきます。そこに心が焦点を当てると、「痛み」として感じるわけです。このようにして「痛み」の感覚が生まれます。そのように坐っているときの「痛み」という感覚を感じることを「ドゥッカ・ヴェダナー(苦の感受)」と言います。

 ルーパ・カラーパ等を観ていると、それらが消滅を繰り返し、次から次へと過ぎ去っていくのが観えますが、この事実により「無常」を観て、同時に消滅し変化していくという事実に対して「苦」を観ているのです。
安定した人生なら、それで良いのですが、安定しているものは何も無く、全ては過ぎ去って行き、自分のものだと思っていてもすぐに消えてしまいます。それが「苦」という感覚になります。例えば家族、親しい人、愛しい人たちを失う時に悲しみ、嘆きを感じますが、それが「苦」という感覚になります。

 ブッダは「初転法輪経(ダンマチャッカ・パヴァタナ・スッタ)」の中で五蘊(色・受・想・行・識)は全て「苦」であると仰ってます。物質的なものは生じて、しばらく存在して、滅していくというプロセスをたどりますが、このうち「存在して滅していく」プロセスを深く瞑想すると「苦」がよく観えてくると仰っています。例えば、皆さんの家族が外国から帰ってきたら嬉しいという感覚が生じます。旅立って居なくなってしまうのは苦しみですが、また帰ってきて「現れる・生じる」時には喜びになります。

 そして「捨 ( upekkhâ)」の感覚ですが、例えば、自分に関わりのない仕事には、自分とは関係ないという冷めた見かたが出来ますね。そういう感覚が「捨」 の感覚です。みなさん「自分には関係がない」という感覚は良い感覚だと思いますか?
例えば阿羅漢になると全ては生滅していることが分かるので、全てを手放してしまいます。自分の内側のナーマ・ルーパ(心と体)を観ることに専念して、外のことは手放してしまうという感覚になるとブッダは仰っています。阿羅漢になると既に執着が無くなっていますので煩悩も無くなっています。

 阿羅漢たちは、皆、このような性質を持っていますが、そのパワーが各々によって違っています。この話は、ちょっと皆さんが理解されるのは難しいと思いますが、普通の阿羅漢と呼ばれる人たちは、執着を捨てて、全て手放し、外界のことよりも自分自身の身体を観ることに専念しています。

 しかしサーリプッタ尊者、モッガラーナ尊者、ブッダは、もちろん執着もなければ、煩悩も無くなって阿羅漢の一人ではあるのですが、普通の阿羅漢たちよりも、とても高いパワーを持っていました。彼らも阿羅漢になる前の修行で自分の身体、または他人等の外側のものをヴィパッサナーで観察したのですが、彼らは普通の阿羅漢たちよりもより多くの時間、外側の物質的なものを観察することに費やしました。そこが普通の阿羅漢とは違うのです。

 ブッダのパワーはサーリプッタ尊者、モッガラーナ尊者よりも、さらに大きかったのですが、なぜかと言うとブッダは全ての世界の人々、全ての物質的なものを観察する能力があったからです。そのときにブッダは「慈悲の心」で観察していました。心と体(名色)を観るときも、因果関係、縁起を観るときも、慈悲を持って行っていました。
ブッダの場合は慈悲の基礎の上に禅定を作ってからヴィパッサナーをしていました。

 今、アーナパーナ瞑想をやっていますが、この瞑想では第四禅定まで達することが出来ます。第四禅定などの禅定には感覚が伴っていますが、感覚というのは一つではなく、いろいろな要素が含まれています。その中には、31の心と心所(心に伴う要素)が含まれます。31の心と心所には、感受(vedanâ)が含まれます。感覚の中でも第四禅定においては、捨の要素が非常に強いのです。

 第一禅定や第二禅定では、喜の感覚が大きいのですが、第四禅定になると、捨の感覚がたいへん大きくなります。このように、感覚といっても、その中にいろいろな要素が入っていて、段階によって強くなる感覚が異なります。また、心の過程には感覚だけではなく、他の心所も含まれています。このように、感覚について観て行くのが受随観(感受の観察)です。

【会場からの質問】
第4禅定でも喜の要素が少しでも含まれるのでしょうか?

【答え】
第2禅定から第3禅定に移るときに喜の感覚を捨て、第3禅定から第4禅定に移るときに楽(sukha)の感覚を捨てるので、第4禅定では、喜や楽の感覚は残っていません。
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 こんなふうにして、不快な感覚や、喜、楽、捨といった感覚を観察します。ブッダは、慈悲というものを基礎にしてヴィパッサナーをしました。ブッダの力は大変強かったのです。ブッダは、怒りの無い慈悲の感覚で、多くの人を助けました。現在の私たちは、「阿羅漢になると、他人のことは切り捨てて、あたかも敵であるかのように自分には関係ないと考えている」ように思っていますが、それは間違いです。私たちは、慈悲の心をもって、他人の心と体、因果法則を観察するようにします。

 ブッダは最初に第一禅定に入って、そして禅定から出て、禅定の中にあった心の過程を観察しました。それから、第一禅定から第四禅定、さらにその上の無色界禅第八禅定まで、それを見て、それから第八禅定から第一禅定まで逆に見ていきました。そして、また第一禅定から第四禅定に達し、そこから涅槃に入られました。ですから、禅定というのは大変重要なことで、禅定における心の過程をもヴィパッサナー(観察)の対象になります。

 皆さんがもし阿羅漢になろうと思うのであれば、慈しみの修行もたいへんに大切です。他人を観る時にも慈しみに集中し、平和な心で、心や体を観察するようにします。一般の人は、阿羅漢になると、ただ痛みや苦しみだけを見ているというふうに考えていますが、楽と苦と中立の感覚の三つのバランスを取ることが大事なのです。

心の観察

 三番目のチッターヌパッサナー(心随観)というのは、意識を観察するのですが、例えば、外の対象と眼の接触により眼識(対象が見えたという意識)が発生します。詳しく言いますと、物質的な対象と、物質的な眼という感覚器官の接触により、眼識が生じ、それが心基を刺激します。心を揺さぶるわけです。私たちの基本的な意識はババンガ(有分心)と言って、「眠っている意識」です。外の物質的な対象と接触すると、眠っている意識であるババンガ(有分心)が揺すぶられます。そして引転心という心が生じ、心の過程(心路過程)が生まれます。

 例えば、ここにあるコップが物質的な対象で、それを眼で見る時のことです。心の過程というのは一つ一つ順に起こります。コップを見ると、最初からコップが見えるわけではなく、初めは何か分からないけれども、何かの情報が飛び込んできます。それで、心が揺すぶられて、そちらに心を向けるという働きがあり、次に外側のものとの接触が起こります。接触が起こると、引転心という心が生じ、眼識が生じます。

 次に眼識を受け止める心(領受心)が生じます。次に、「これは何なのか?」と疑う心(推度心)が生じて、次にこれはコップであるいうことが分かり、コップであると確定します(確定心)。 その次に、コップであると分かってから、速行心という心が7つ起こります。速行心の中には、意識と心所も含まれています。速行心が7つ発生した後に、見たときの印象が、残像のように残る心(彼所縁)が2つ後に続きます。
心の過程を細かく見ていくと、そのようになります。

 心の過程は大きく二つに分かれますが、今までの説明が眼門(Eye door)の過程で、次に意門の過程が始まります。眼門の過程では、対象が見えたというくらいで、それほど大きなカルマは発生しません。その後で、意門の働きがいろいろ始まって、そこからカルマに関係あるものが生じてきます。

 意門の過程が発生すると、最初は、これは良い、悪い、楽しい、楽しくないなどのある種の感覚が発生します。最初の1つだけでは、それほど大きくありません。それが、ずっと「嫌だ、嫌だ」とか、「楽しい、楽しい」と、後につながっていくことにより、大きなカルマになっていきます。

 例えば外で、きれいな女性を見て、「美しい」と感じたとします。ただ、見ただけでは、それほど感覚は大きくありません。それで、美しい人を見たことによって、心が楽しくなります。最初はそれほど強くなくても、心の中で「きれいな人だった」と何度も思うことによって、しまいにその女性を愛するようになります。その次に起こる意門の過程が、カルマになるということです。

 逆に、あまり楽しくないものを見ると、怒りの感覚が発生して、「面白くない、面白くない」と後に続くと、カルマを作ることになってしまいます。ですから、心の随観においては、そのように心の細かい過程を詳しく見て行きます。

 対象について分かっているというだけでは十分でなくて、もっと細かく心の過程を見ていく必要があります。ですから、このように細かく、1つ1つどんな微細な心が起こっているかを、眼門の過程、それに続く意門の過程において微細に見ていく必要があります。
 現在において起こっている心の過程、どんな心が生じて滅して、次の心が生じて滅しているかについて、今の例は眼門についてでしたが、他の門についても細かく見ていかなくてはなりません。

 今起こっている心の過程だと、容易に切り捨てることができます。これは楽しいと思っても、次の瞬間にそういう思いを切り離すことができます。 それは事実ではないでしょうか?
例えば、映画を見ると、映画の中のスターを好きになることがあります。しかし映画が終わってしまったら、それで執着はなくなります。ところが、過去のカルマと関係している感覚を切るのは容易ではありません。なぜかというと、過去に一緒だった家族とかに対する感覚は非常に強いので、現在見て起こった感覚よりも、切るのがたいへん難しいのです。

 いま起こった感覚が、過去のカルマによって起こっているものか、現在起こっているものか、どうやって見分けるのでしょうか?

 例えば、誰かと結婚するとします。親が相手をアレンジして、この人はなかなか良さそうな人だと頭で判断します。ある人たちは、この人はどのくらい車を持っているのか、どのくらい大きな家を持っているのかと、そういうふうに計算して決めるわけです。それで、結婚して一緒に住むようになりますが、一緒に住むことによって起こる執着というのは、過去に作ったカルマに比べると、それほど大きくありません。

 過去のカルマによる感覚というのは、誰かに会った瞬間に心臓がドキドキするとか、「アッ」と思うような感覚で、昔のカルマが非常に強いのです。どうですか、それが事実ではないでしょうか?
例えば、誰かまたは何か一目見た瞬間にあまり心がドキドキすることがなければ、それは選ばなくても良いのです。頭で、これはこうだと考えて選ぶと、後で苦しみを受けることになります。ですから、心の感覚に従って選んだ方が良いでしょう。

 このように過去の心が現在の心の過程に入ってきます。ですから、ヴィパッサナーをするときに、ただ単に現在の精神的な働きや肉体的な働きを見るだけではなくて、過去のそういうものを見て、過去と現在との関係を見る必要があります。自分だけでなく家族、親類等の別の人たちについてもヴィパッサナーで観察する必要があります。

 ですからヴィパッサナーをするときは、現在と過去と未来のナーマとルーパ(心と身体)、自分に近いナーマとルーパ、自分と遠いナーマとルーパを観る必要があります。
自分と「近いナーマとルーパ」と「遠いナーマとルーパ」というのは、距離的に近い、遠いという意味ではなく智慧と関係しています。善い行いをしている智慧をもった善い人たちは智慧から観て近く、逆に不善な行いをしている人たちは智慧から観ると遠い存在です。

ヴィパッサナーには11種類があります。
 1.過去のナーマ・ルーパ(心と身体)
 2.現在のナーマ・ルーパ
 3.未来のナーマ・ルーパ
 4.智慧と近い(善)ナーマ・ルーパ
 5.智慧と遠い(不善)ナーマ・ルーパ
 6.粗大なナーマ・ルーパ
 8.微細なナーマ・ルーパ
 9.優れたナーマ・ルーパ
10.劣ったナーマ・ルーパ
11.外側と内側のナーマ・ルーパ

「優れたナーマ・ルーパ」というのは、例えば禅定を得ているときのナーマ・ルーパで、非常に微細でソフトであり、梵天界などが良い例です。「劣ったナーマ・ルーパ」というのは動物界とか地獄界、つまり四悪趣のナーマ・ルーパです。このようにヴィパッサナーによって観察する中に「無常、苦、無我」を観て、阿羅漢に達することができます。

法の観察

四つ目の「ダンマ(法)」の観察についてですが、今までお話してきた心と体(名色)について、想(saññâ)行(sankhâra)を除いた残りのすべてについて観ていきます(想と行は心随観ですでに観ています)。

質疑応答

ここまでで何か質問がありますか?

【会場からの質問】
慈悲の心が無くても阿羅漢になれますか?

【答え】
禅定を支える要素のうちのひとつである「喜」は慈悲と結びついていますので、阿羅漢になった人は皆、慈悲の心を持っています。

【会場からの質問】
ニミッタというのは物質的なものだというお話がありましたが、ニミッタは心のエネルギーではないのでしょうか?

【答え】
ニミッタというのは心が創り出した物質性(ルーパ)です。心が集中状態に入ると光を創り出すのです。

【会場からの質問】
慈悲というのは、なかなか出すのが難しいのですが、どのような条件を揃えれば慈悲が現われますか?

【答え】
これには訓練が必要で、慈悲の「悲(カルナー)」を基本にすることが大切です。「悲」というのは苦しんでいるものに対する共感ということです。例えば五戒にある「不殺生戒」というのは、生き物たちが殺されることを恐れ、苦しみに感じている、その想いに対する共感を育て養うことですが、その戒を守ることにより、慈しみの心も養われていきます。

 慈悲というのは意志に関係していて、最初の頃は感じられなくても、繰り返し、繰り返し実践して養っていけるものです。誰かに慈しみの心を送ったとして、すぐに喜びの心が自分の中に湧いてくるかといえば、それは難しいのです。最初は心を創りださないといけません。自分の意志で、皆が苦しみから解放されるように想っていくことが大事です。そしてその感覚に集中していきます。

 そのような努力を続けることで幸福な感覚が起こってきます。これを毎朝、実践できれば良いのですが、そのときにはただ言葉で唱えているだけではなく、心の感覚に注視して心から念じることです。毎朝、慈悲の訓練をしていると、何処へ行っても会う人、会う人に慈しみの心を送れるようになってきます。私達は慈しみを信じましょう。東京に居ながら全国に慈悲を送りましょう。坐ってできる簡単なことです。

 日本に着いた日、成田から電車に乗ろうとしたら買ったはずのチケットが見当たらず、みんなで探していました。すると階段を上がってきた見知らぬ方が「貴女のチケットですよ」と私にチケットを渡してくれました。電車に乗ってから気づいたのですが、その渡されたチケットに指定されていた座席は、私の購入した座席とは違っていました。そこで、これは私の落としたチケットではないことに気づき、もう一度、チケットを探してみるとチケットが出てきました。

 つまり彼は自分のチケットを私にお布施してくれたのです。全く見知らぬ方だったのですがお布施してくれたのです。とても驚きました。日本人はとても親切です(笑)。彼に感謝し、またそのときお礼ができずに申し訳ない気持ちです。全く知らない人であっても慈しみの心によって、このようなことが起こります。私はその夜、彼に慈悲を送りました。

 また別の経験もしました。11年前の話ですが、アメリカからシンガポールへ帰る途中に乗り継ぎのため日本に立ち寄りました。飛行機は一時間ほど遅れていたのですが、急いで別のターミナルへと移動しました。他にも2~3人の人たちが私と同様に急いで移動していました。女性は私だけで、みなさんは男性でした。急がないといけない状況だったのですが、私も疲れていてゆっくりしか歩けないので困っていたら、一人の男性が来て荷物を持ってくれました。

 そして、「あなた一人ではなく、私たちも待っていますから急がなくても大丈夫ですよ」と声をかけて、とても親切にしてくださいました。その時、彼が自己紹介で「私は日本人です」と言っていました。私は一人ぼっちで、どうなるものかと心配していた時だったので、とても彼に感謝しました。そして「次は日本に行こう」と思ったのです。

 私はこのような経験が多いのですが、たとえ全然知らない人同士であっても兄妹同士が世話するような、そんな慈悲の気持ちに触れ、体験することでとても心が豊かになります。宗教が違っても、皆同じ心を、幸福感というものを持っています。皆が良い意志を持てば他の人にもそれが伝わります。そしてイスラム教の人たちともキリスト教の人たちとも友達になることが出来るのです。何処に行っても良い意志を持っていれば、私達は幸福になることができます。

慈悲と、嫉妬、怒り・・・どちらが良いでしょうか?
・・・返事が無いということは中立ですか?(笑)
慈しみのほうが良いですね。なぜならば慈悲の心は不善な心にはなりません。また慈悲の心を持つことで、不善な心も善い心へと変化していきます。ですから皆さんも、あまりケチケチしないで慈悲の心を送ってください。(笑)
ちなみにケチな慈悲というのは何だか分かりますか?自分や自分の周囲に対してだけ慈悲を送ることです。好きな人には送って、嫌いな人には送らない、そういう慈悲です。それはbroken metta(壊れた慈悲)です。壊れた慈悲にはパワーがありません。

 本当にパワーのある慈悲を送ろうとすれば、動物であれ、餓鬼であれ、全てのものに対して送りましょう。良いですか、そんな風にやってみてください。
今日はありがとうございました。

サードゥ! サードゥ! サードゥ!

2010年3月31日 (水)

サヤレー法話「四界分別観と体の治療」

(四界分別観の方法については「四界分別観」http://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/sayalay.shikai.htmを参照してください)

 いままで地水火風の12の性質について見てきましたが、覚えていますか。これらの要素について一通り観終わったら、全体を眺めます。上から部分部分について、「堅さ、荒さ、重さ、柔らかさ、滑らかさ、軽さという地の要素の六つの性質について順に観ていきます。さらに水の要素、火の要素、風の要素についても見ていきます。

 はじめは、性質をはっきり観るようにしますが、次第にす早く行うようにします。だんだん早くしていって、心が集中し、楽しい感覚になり、さ迷い出すことがなくなリ、痛みを感じなくなれば、四大要素のバランスが取れたということです。

 一つの要素だけを観ていると、バランスが取れてなくて、どこかに痛みなどが出てきたりします。火風の四つのバランスが取れていると、痛みなどはあまり関係なくなります。
そのようしてバランスが取れていると、集中力が良くなって身体が快適になり、平和な感覚になってきます、そうすると、アーナパーナ(呼吸瞑想)で見たような光が見えてきます。

 光は人によりいろいろな色をしていますが、最初はどんな色にも集中しないで、身体の中の地水火風を観るようにしてください。それをして行くと、光の色がだんだん明るく白っぽくなってきて、最終的には氷の塊のような透明になってきます。

 光(ニミッタ)がさらに輝きを増し、氷のような透明の光になリ、安定してきたら、四つの要素を見ていた心を、今度はニミッタの方に移して、ミニッタに一時間ぐらい留まるようにしてください。
そうすると近行定という禅定(ジャーナ)に近いところまで達することができます。四界分別観では第一禅定まで達することはできないのですが、その第一禅定に非常に近い近行定まで達することができます。

 そのように集中力を得たら、次に体の中の32の部分について観察します。アーナパーナ・サティをやって、第四禅定までいってから、その後に32の身体の部分を見るという瞑想をしますが、四界分別を終わってから32の部分を見るのと、アーナパーナで第四禅定まで行ってから身体の32の部分を見るのとではちょっと違います。アーナパーナの方が明確に見えて、四界分別の方は少し明瞭さが足りないのです。なぜ違うかというと、禅定(ジャーナ)のレベルが違うからで、アーナパーナで第四禅定まで達した方が禅定のレベルが高いので、より明瞭に見えてくるわけです。

 身体の32の部分の観察が終わったら、次は骸骨の観察瞑想をします。その骸骨の瞑想によって第一禅定にまで達することができます。次に骸骨は白いものですから、白いカシナの瞑想をやります。カシナというのは円盤です。この白い円盤の瞑想をすると、第四禅定まで達することができます。
四界分別から始めて行って、順を追っていけば、やはり第四禅定まで達することができます。

 禅定(ジャーナ)を得て、ヴィパッサナー(観察)をしますが、その時に四界分別観をやって、身体の物質的要素が粉々になるのを見ていきます。そのようなヴィパッサナーをしたかったら、10日間では無理なので、瞑想センターのリトリートへ来てください。

 この四界分別観は身体の治療とか病気への対症法として有効です。例えば、脳梗塞などで足が良く動かない時には、風の要素などが滞っていることがあって、うまく働きません。足が良く動かない場合には、風の要素である押す力が滞っているということなので、心をその滞っている箇所に集中し、風の要素である「押す力」念じます。ゆっくり「押す力」を念じていると、段々動きが出てくるようになります。風の要素の、押す力だけでなく火の要素である、熱も一緒にそこへ送るようにします。

 体のどこか一部が動かない場合、そこの部分は風の要素の押す力が滞っているだけではなく、そこが冷たくなり、血液や、熱が行かなくなっっていますから、瞑想して押す力と共に熱も一緒に心で送ってやるようにします。

 私達の人生は何が起こるか分からないわけです。ずっと病気にならないという保障はありません。何らかの障害が起こることはあり得ます。そういう時に自分で体を守る方法を知っていれば、自分で治療することができます。

 もう一つの例はガンの治療に有効であることです。ガンの場合は最初に、その部分に集中してよく見ます。最初にそこに心を集中するのがまず一番です。心には非常に大きな力があるので、まずそこの部分に心を集中し、その部分に熱を送るようにします。そうすると腫瘍の部分がとても柔らかくなってくる。それで、自分の中で決意をして、全てのバクテリアとか腫瘍などが尿となって流れ出るようにと決意します。そういうことを何度もやっていると、そこにエネルギーが働き、それらが外へ出て行ってしいまいます。

 あるいは、さっき言ったように熱をそこの部分に当てて集中していると、段々暑くなってきます。それでも続けているうちに、腫瘍の部分が次第に小さくなって、しまいには無くなります。その時に必要なのが集中力であって、集中力があれば、それが容易に出来るようになります。そんな風にして、自分の体を治療し、対処することが出来ます。このような経験を話しました。今度そのようなことが起こったら試してみてください(笑)。

 本日はこれからアーナパーナ・サティをします。ミニッタがどうしても見えない方とか、アーナパーナはあまりやりたくない人は、今言った四界分別観の瞑想をしても結構です。それでは、体を真っ直ぐ立てて集中してください。

2010年3月29日 (月)

サヤレー法話 「瞑想と心のバランス」

 みなさん、今晩は。今日は、集中の瞑想において、どういう風にして心のバランスを取るかという事について、お話したいと思います。

心をコントロールする難しさ

 今日瞑想してみて、どんなに自分の心をコントロールするのが難しいか、分かったことと思います。皆さん、心をコントロールすることは難しいでしょうか?易しいでしょうか?
(会場「難しい」との声)難しいですね。それが事実です。

 難しいですから、それを達成するよう努力しなくてはならないわけです。心というのは、実はたいへん単純なものです。例えば、一つとか二つくらいの小さい子どもの頃、心は大変純粋です。例えば小さな子どもにキャンディとかビスケットとかをあげると、子どもは大変喜んで、その後に、こうしなさい、ああしなさい、と親が教えると、すっと頭に入ります。

 子どもたちの心は、大変単純で純粋だから、そんなにいろいろ複雑なことは考えずに、すっと応答するわけです。しかし、段々歳を取るにつれて、いろいろな体験をしたり、あるいは、六門から入ってくるいろいろな刺激とかに対する執着というものができたりして、心が複雑になって来ます。それで、何かに対する執着というものが、私たちの心を常に支配して、コントロールしています。

 この2日間、瞑想してみて、自分たちが何に執着しているかということを見てきたわけですが、私たちの心は、アーナパーナ・サティ(呼吸瞑想)には執着していない。アーナパーナ・サティは、対象が呼吸で非常に単純な瞑想ですが、心は呼吸に執着しないで、その他のいろいろな考え方とか、過去の考えとかに執着している。そんなことが分かったと思います。

六つの性格

 ですから、瞑想において成功するためには、自分の心をよくよく調べてチェックしなければなりません。どんな考え、思考、思いが瞑想中に、自分の心に浮かんでくるかを見る必要があります。そのことでブッダがおっしゃっているのは、心はおおよそ六つの性格に分けられ、私たちは、その性格に従っているということです。

 一つ目のグループは、欲です。欲に支配されていて、欲に従っているグループです。この欲のタイプの人はどんなことを考えるかというと、まず六つの門から入ってくる事柄について欲を持ちます。例えば眼から入ってくる情報については、「美しい家」とか「美しい車」であるとか、あるいは耳からの情報については、「よい音楽」とかです。あるいは香り、味、とかでも、「今日のご飯は美味しかった」と言った、六つの門から入ってくる情報について欲望を持ちます。

 執着というのは自分の財産、自分の持ち物だけではなくて、他人に対する執着とか、外側に対する執着も含んでいます。それで、こういう性格を持っているタイプの人については、アーナパーナが上手く行かないとき、良い方法が一つあって、それはアスバ瞑想(不浄観)という瞑想法です。これが薦められます。

 アスバ瞑想(不浄観)というのは、死体の瞑想です。いずれ私たちは死んでしまうと、自分に属して、自分のものだと思っていた持ち物とか、親愛な家族とか、愛する人たちも手放さなくてはなりません。一緒に連れて持って行くことはできない。そういうことを瞑想して、深く見て行く。そのような瞑想がアスバ瞑想です。
その瞑想をして、自分の心が落ち着いてきてバランスが取れたら、また、アーナパーナへ戻っていく、という風にしたらよいでしょう。

 二番目のタイプの人は、瞑想して、しばらくすると、怒りの思い、怒りの感覚が湧いてくるという、怒りのタイプの人です。これは、過去に体験した、人に対する怒りとか物に対する怒りとかが湧いてくるタイプです。この人たち、このグループに対しては、アーナパーナから、「慈悲の瞑想」に切り替えると良いでしょう。

 三番目のタイプは、無知とか妄想がある。あるいは迷いと妄想で、両方併せて迷妄のタイプの人で、この人たちは、いつも眠くなってくるタイプです。
四番目のタイプは思考タイプの人で、瞑想が始まりしばらくすると、いつも、あれやこれやのことを考え出す、こういうタイプの人です。

 この三番目、四番目のタイプの人については、すなわち迷妄タイプと思考タイプの人については、アーナパーナ・サティの瞑想が一番良いでしょう。アーナパーナ・サティをやって、20分、30分集中できると非常に心が落ち着いてくるということで、アーナパーナが良いでしょうと言われています。

 五番目のタイプの人は、信が強いタイプの人です。この人たちは瞑想を始めてしばらく経つと、もう出家したいとか、あるいはミャンマーに行きたい、修行に行きたいとか、修行に関することをいろいろと考える。また、お布施がどうであるかとか、戒律を守るとか、あるいは瞑想をどうしようか、とかとても良いことを考えるのですが、こういう思考そのものは瞑想にとって、障害になるということなのです。

 六番目のタイプの人は、智慧のタイプの人で、この人たちは早く涅槃へ行こうとか、瞑想はどういう風にやるかと考えて、努力しすぎてしまう。過剰な努力をするために、空回りしてしまう感じです。このタイプの人に良い瞑想というのは四つあって、一つは「四界分別観」という瞑想法です。地水火風を見る瞑想です。さらに「涅槃の随念」で、涅槃(ニッバーナ)いつも思う瞑想です。また、「死随念」といって、自分はいずれ死ななくてはならないことを瞑想する。もう一つは「食厭観」で、食べ物を厭う瞑想というのがあります。その四つの瞑想がこの智慧のタイプの人には向いています。

 そして、信の強いタイプの人に良い瞑想というのは、ブッダ・ダンマ・サンガ(仏法僧)への随念、それから、布施(ダーナ)、戒(シーラ)、それから天界(デーヴァ)への随念です。そういう瞑想をして、心が落ち着いて幸せな気分になってきたら、またアーナパーナ・サティの瞑想を始めます。

心のバランスと楽しい感覚

 瞑想するときに大事なのが、楽しいとか、幸せな気分、感覚です。例えば、アーナパーナの瞑想を始めて、呼吸についてとても退屈であるとか、つまらないという風な思いがあると、なかなか瞑想は進まなくなってしまいます。それで瞑想が上手く進まず退屈になって、自分に対して、これじゃ駄目だ、という風に責めたりすると、一層上手く進まなくなってしまいます。ですから瞑想するときには、心が幸せになるような、楽しくなる感覚というのが大事なのです。

 今日は大変風の強い日で、外の木々が揺れています。特に竹がたくさんあって、風が強く吹くと、その方向にしなり、逆の風が吹くとまたそちら側にしなって、という風に絶えず風に従ってしなっています。心も同じように、風に抗して真直ぐに、とにかくピンと立っていようとすると、ポキッと折れてしまうわけで、流れに従って、流れに沿ってやるようにします。つまり、心の本性、自然に従ってやるようにしないと上手く進まないわけです。幸福な感覚というのがあると、その後で瞑想とても上手く進むことができます。

 もう一つ大事なのが、心のバランスです。心が上手くバランスを保つようにしなくてはなりません。そのバランスの中で大事なものの一つは信です。二番目が努力。三つ目がマインドフルであること。すなわち、気付き、サティです。四番目が集中力(定)です。五つ目が智慧。この五つが大切です。

 この五つのうち、信と智慧のバランスを上手く取らなくてはいけない。それから、精進(努力)と集中力の二つも上手くバランスを取らなくてはいけません。

 精進(努力)についてですが、最初に「この一時間は、しっかり呼吸を見よう」、と決意をします。決意はしっかりしますが、呼吸に対して過度に、意識的に作って力を入れ過ぎては良くありません。あくまで、努力というのは心において努力するのであって、呼吸そのものを力ずくでやろうという風にしては良くないのです。

 呼吸するときに、あまり強く力んで呼吸をしようとすると、身体全体が強ばり緊張して、そのうちいろいろなところで痛みが起こってきます。ですから、呼吸を見るときは、自然にします。自然な呼吸を見るのが大事なわけで、あまり禅定(ジャーナ)だとかニミッタだとか、なんとかそれを達成しようという風に、気を使わない方が良いのです。

 気付き(サティ)を持って、努力して集中していると、20分30分して集中力がだんだん高まって行き、その集中力が自然にニミッタ(集中のしるし)を作ってくれます。ニミッタというのは、そんなに難しいものではなく、容易に見えてくるものなのです。自分の心を楽しく、幸福に持って行くことができれば、とても容易なわけです。

自然な呼吸

 もう一つ大事なのが、呼吸そのものをよく観察するということです。今どんな呼吸をしているかをチェックします。短く、早い呼吸になっているか、長くゆっくりした呼吸になっているかに気付くようにします。そしてバランスを取ることが大切で、呼吸が短くなり、早くなってきたら、もう少しゆっくりして自然な呼吸に戻すようにします。

 それから、心臓をチェックするのも大切です。心臓の鼓動がどのくらい打っているかということを観察します。心臓が一分間に70回くらい打っているとして、一つの鼓動は0.9秒くらいですが、それを更によく見ると、収縮するときは0.3秒で、そこでは緊張しています。拡がるときは0.6秒で、そこではリラックスしています。

 同じように呼吸も、入ってくるときには緊張があり、出て行くときにはリラックスがあります。こんな風に自然な呼吸のあり方を観察します。自然な呼吸の循環というのをよく観察して自然な呼吸していると、幸せな感覚があらわれます。また、自然な呼吸をしていると、ソフトなやわらかい呼吸になります。呼吸が自然でなく、早く短くなってくると、心は楽しくなく、集中も上手く行きません。バランスをとることが必要です。

 ニミッタが見えてくると、それは人によって、色が違います。ニミッタが見えたとしても、ニミッタの方に集中しないで、あくまでも呼吸の方を見るようにしてください。そして、ニミッタの色がだんだん白くなってくるのが第二段階です。そんな風にしていると、ニミッタの光が、もっともっと明るくなって輝く光のように見えてきて、それがだんだん鼻の前に止まるようになります。

 いま、禅定(ジャーナ)に入るまでの過程を話していますが、そのようにニミッタが白くなって鼻の先で止まり、それが5分、10分そこに留まっていたら、今度は意識をニミッタの方に向けます。ニミッタを見ていて、それが一時間思考も浮かばず、ニミッタに心が張り付いているようになったら、禅定に入っていくことができます。ですから、呼吸を見る時には、まず幸せな楽しい感覚と、心をバランスさせるという二つがとても大事です。

心のバランスと長生き 

そしてまた、私たちの身体と私達の生活、人生とが大切です。健康で長生きするのが人生で幸せなことです。皆さん、そうではないでしょうか?いかがですか。
 健康な身体と長寿はとても大切で、長く生きられればその間に善いことができるし、又いろいろな人に会うことができます。

 今人間の寿命は段々短くなってきています。ブッダの時代に平均寿命は120歳くらいありました。現代では60~70歳、あるいはそれに少し多いくらいです。120歳まで生きられた時代の人生を半分に割って、60までを人生の第一期とし、60から120までを第二期としてみます。120歳まで生きられた時代には、60までの間に勉強や仕事をして、あるいは家庭を持って子どもを育て家族を養い、60歳を過ぎたら定年で仕事から離れてリラックスするというライフサイクルでした。60歳までは一生懸命に忙しく働いていました。

 60を過ぎたら定年で仕事を離れて、ただ自分の楽しい人生がありました。仕事に関わるいろいろな義務からは解放されて、心の自然な方向に従ってすることができました。科学者とか芸術家たちは60を過ぎてからいろいろ活躍をしたそうです。彼らは経験もあったし、そこそこの財産もあったわけで、それで自分たちの自然に従うことができたわけです。

 ところが80、90歳になるとちょっと問題が出てきます、だんだん老化が始まって、記憶等が失われることにもなります。ですから、頭をクリアーにしておくこと、身体を健康に保つということが大切で、そのためには瞑想がとても良いのです。

 私たちの時代になってくると、寿命がだんだん短くなってきて、70歳ぐらいですが、定年でリタイアするのが60くらいからです。そうすると自分たちの人生は後どれだけあるかということになります。現代は科学の進歩が激しいので、時代はどんどん変わり、新しいものが次々と出てきますので、そういう時代の流れにも付いていかなくてはならない。そうでないと、取り残されてしまいます。だからそれに付いていく大変な努力も必要となってくるのが現代です。

 時代の流れの変化が激しいために、それに付いていくために、仕事も一生懸命にしなくてはいけないし、付いていく努力もしなくてはいけないので、私達の心はストレスが一杯で、疲れてしまいます。そのために寿命がだんだん短くなって行きます。

 昔の人は太陽が出て働き始め、太陽が沈んで家に帰るというサイクルの生活をしていました。今はもう夜も昼も働き続けなければならない、夜中でも働かなければならないという生活パターンがあって、それで心は自然に疲れ、心が疲れると、身体の方も心に従って疲れてきます。そんなパターンになっています。

 それで、人生を長く生きるためには自分の心をバランスさせることが大事になってきます。一日24時間を三つに分割して、8時間は働く、8時間は家族と一緒に過ごしリラックスの時間を取るようにして、残りの8時間は睡眠を取るようにすると、心はバランスが取れ、身体もバランスが取れてゆったりできるのです。身体というのは機械みたいなものですから、あまり機械に負担をかけると壊れてしまいます。ですから、バランスを取ることが大切です。

身体に影響を与えるもの

 私達の身体を見てみると、身体にいろいろ影響を与え、作っている四つの原因があります。一つはカルマで、カルマによる原因があります。二番目は心で、今の心が身体を作る。それから温度(時節)。四番目は栄養で、栄養が身体を作る。この四つの要素によって身体が作られます。

 カルマによってある程度寿命が決まります。心が幸福でないと病気になったりします。心が楽しくて幸福であったとしても、ある種のカルマによって決まった寿命がくると、そこで寿命が尽きてしまい、亡くなるということも起こります。

 また、強いカルマがあって、心もしっかりしているのだけれども、気候が寒かったり暑かったり厳しいと、それが身体に影響を与えて、早く病気になったり、亡くなったりすることが起こります。ですからバランスを取る上で気候や温度も大事です。四番目に、カルマも、心もしっかりしていて、気候も良いとしても、四番目の栄養素、すなわち食べ物のバランスが取れていないと、食べ過ぎとか、変なものを食べたりして、病気になって早死にする原因になります。

 こんな風にして四つの要素のバランスとって行くと心は幸せになることができます。それで、集中力が良くなって、心が幸せになって行き、ヴィパッサナー(観察)に進むことができます。次の機会にヴィパッナーの細かいことについて説明したいと思います。

 ヴィパッサナーに行く前に、私達の心と身体をどのように面倒をみるか、世話をするかということについてお話します。人間は自分の人生において幸せありたいと誰でも願っています。ではどんな風にして自分の心や人生を幸せにすることができるでしょうか。

 どのように心と人生を幸せにするか、についてブッダがおっしゃっているのは、常に善いことをすると言うことです。自分に善いことをするだけではなく、他の人たちに対しても善い行いをすることが大事である。そして、バランスを取ることが大事であるとおっしゃっています。自分のことだけだと、エゴということになってバランスが欠けてしまうので、自分のためだけでなく、他の人たちのためにも善い行いをすれば、バランスが取れます。

蜜蜂から学ぶこと

 私たちは自らの自然、とか本性について学びます。サヤレーは大学にいた時に動物学をやっていたので、動物についていろいろ勉強しました。私たちは自分の身体について、仏教では32の身体の部分について見ていきます。自分の身体についても見るし、また外側の、自分ではない、例えば動物達を解剖して見ると同じく32の部分があるという風に、自分と外の身体について両方を見ていきます。

 それと同時に動物達の行動とか振る舞いも見ていく必要があります、蜜蜂たちの振る舞いとかです。動物達、蜜蜂たちはどんな能力を持っているかを観察します。蜜蜂についても、何百万年前の世代からの変化を見ることによって、どんな風にして彼らが生き延びてきたかを知ることができます。

 今蜜蜂を見てみると、心に関連する三つの特性と、身体に関連する三つの特性を持っています。心について言うと、彼らはいつも改良しようとしてきました。二番目の特性は単純化して正直に生きようとしてきました。三つ目の特性は慈悲です。改良と、単純化と正直、それから慈悲、これら心の三つの特性によって、生き延ようとしてきました。

 身体に関連する特性は、第一に自分たちを信じるということです。自分たちにとって良いもの、他のものたちにとっても良いものをしようとしてきました。二番目は自律で、自からを頼りにする。三番目は規則を守るということ。身体に関するこの三つの項目を守ることにより、生き長らえて来ました。

 心についての三つは分かりやすいと思います。身体についての三つは少し説明をする必要があるでしょう。一番目の信について、蜂の行動について話します。例えば外へ飛んで行って、花を見つけて花粉を取って来ようという時に、蜜蜂の場合は集団で行って、集団で行動をします。人間のように、自分だけ先に取ってしまおうという嫉妬のようなものがなく、お互いに信頼しあって、集団で行動して食べ物を取ってきます。そして他のものと分け合うことに喜びを感じます。善き考えを持っているのです。

 蜜蜂がハチミツなり花粉をもらうときにも非常に穏やかで、紳士的であって、いきなりパッと取るようなことはしません。まず、最初は花の周りをぐるぐる廻って、花に対しても友好的な振る舞いをします。そうすることで、花の方も、ようこそいらっしゃいました、という風に、お互いに幸せな関係になるわけです。 蜜蜂が花粉をもらうと、次の花に行った時に、受粉させるという形でお互いに、助け合って、共生関係にあるのです。

 そんな風に、お互いに利益を与え合うことによってバランスを取ることを学ぶということが大切です。集団でもう一つ大事なことは、努力ということです。花粉を運んで持って帰ってきて、唾液などと混ぜて、蜂の巣をつくる努力をします。また、蜜蜂達は絶えずハチミツを改良させようとします。より良い花を探し、より良いハチミツにしていこうと努力をしています。そのような改良があるからこそハチミツは私たち人間にとっても大変、役に立つものになり、薬にもなります。そのように自分たちの利益になり、他の利益にもなります。

 第二に自分を頼りにしていくこと、自律することです。人間では自分を大切にする反動としてエゴが出てしまうこともあります。一生懸命仕事をしてお金持ちになったりすると、「これは自分のやった仕事なのだ」「他人なんか関係ない自分の努力なのだ」とエゴが出て、高慢になってしまうこともあります。自然(本性)というのは、ある意味で「条件」ですが、条件というのはいつも変化しています。その変化に文句を言わず、自らの力で受け入れて行くことが大切です。

 三番目は規則に従うということです。人間の世界でみると国によって家の建て方もデザインも全然違っていますが、蜂が作る家というのはどこの国に行っても六角形をした同じ形です。例えば僧院なども、それぞれの国によって形が違いますが蜂の巣というのはみんな同じデザインです。外敵から防衛するときも皆一緒になって防衛します。非常に単純で正直です。

 また私たちが学ぶべきことは、慈悲です。例えば蜂というのは人間の力で掴んでしまえば殺すのはたやすいことで、ワニのようにどう猛に抵抗しませんので簡単に殺されてしまいますが、種族としては長い間、生き延びてきました。というのは彼らに慈悲の心があったからです。

 また、同時に蜂たちは鋭く優秀な知恵を持っていて、いつも蜜を改良してきたからローヤル・ゼリーのような人間の薬にも成り得るものを作ってきました。そういうところから私たちは学ぶことができます。私たちが幸福になりたければ、このようなことから学ぶ必要があります。そして、いつも「自分は人々の利益になることをして来たただろうか」と熟慮します。

分け与えること

 例えば私たちが稼いだお金を、お金に困っている人たちに物などで分け与え、彼らがそれで豊かになって喜べば、私たちの心も豊かになって幸福になります。そのようなことを学ぶことが大事です。
 そのようにして分け与える(ダーナ)ということが大切で、例えば、私は15年間、瞑想を教えていますが、最初の五年間はパオ・セヤドーからお布施(ダーナ)の大切さを学びましたので、その五年間はパオの本堂にお布施をしました。そして今、お布施した本堂で尼さんたちが育ってきているのを見てとても幸福な気持ちになります。

 次の10年間は、私が指導しているミャンマーのメイミョウにあるパオ瞑想センターで修行している人たちを見ると、とても幸福な気持ちになります。皆さんも是非、メイミョウのセンターに来てください。大歓迎します。無料ですからどうぞいらしてください。私が食事も作って、みなさんに供養します。

 昨年、ミャンマーはサイクロンに襲われましたが、その時には、私のお寺で持っている全てのお金を被災者にお布施しました。例えば学校も壊されるなどして非常に困窮した状況でしたので、お寺にお布施された物資やお金等を学校に回して再建してきました。子ども達も大変喜んでくれました。私達が寄付できた物は、それほど多くはなかったのですが、それによって人々が助かったということに対して、お互いに幸福を感じています。また瞑想を教えるということはダンマ(理法)をお布施し広げていくということで、今日までやってきています。

 二ヶ月前のことですが、私は喉に腫瘍が出来て食事も会話も大変でした。医者からは外国へ行くのを止めるよう言われましたが、外国でリトリートをしても自分のセンターに居ても、いずれにしても死ぬものは死ぬのですから、どうせなら自分で治そうと決意して四界分別観という瞑想を行い、自分の身体の中を見て患部に熱を当てたりしてみました。

 それでこの二ヶ月間は台湾へ行って100人以上の人たちに瞑想を教えたり、あるいはマレーシアへ行ったり、あるいは日本に来てという風に過ごしながら瞑想して自分で治療しているうちに腫瘍は無くなってしまいました。それはダンマの力が自分を守ってくれたのだと思っています。

 長生きというのは大切ですが、まずは長生きして善い行いをするということ、それと瞑想をするということが大事です。そしてダンマ(理法)について皆さんと分かち合うということが一番大切なことです。貧しい人たちや自分の親族にお布施することによって幸福になることができます。

男性の寿命が短い理由

 今、だんだん寿命が短くなってきていますが、特に男性のほうが女性よりも寿命が短くなっています。
なぜだか分かりますか?
 中国では男性の方が女性より4歳ほど平均寿命が短いそうです。日本では6歳違います(笑)。ロシアでは13歳違います。それぞれ違いますが、それぞれの国によってプレッシャーが違うからです。

 男性が短命なのは4つの理由があります。
 一つ目の理由は男性が泣かないからです(笑)。男性は泣くことが出来ずに、涙をコントロールしようとします。二つ目の理由は男性が単純に喋らないで、コントロールしようとするからです。

 三つ目の理由は、体調が悪くてもすぐに医者に見せないで自分で治そうとして、本当に痛くてどうしようもなくなったときに初めて医者に行くことです。四つ目の理由は、家族を持っている人は仕事が終わってもすぐに帰宅しようとせず、どこかに寄ってしまうからです。

 男性が涙をコントロールしてしまうというのは、男性は女性に比べて強いという意識を持っているので、涙をコントロールしてしまうのです。女性は悲しいことがあればすぐ泣くことが出来ますから、周囲の人々も慰めてくれるのです。男性が泣くと見下されますが、女性が泣くと慰めてもらえます。

 心が動揺して不幸なときには泣くものですが、男性はそれをコントロールしてしまいます。ですからストレスも多く溜まってしまいます。いつも抑えよう、抑えようとしているから身体も不幸になってしまうのです。いろいろな不幸に出会ったときには泣いてしまえば感情が外に出て、その後は善くなっていきます。

 二つ目は、単純に自分の思っていることを喋ったら見下されるのではないだろうか、少しレベルの高いことを話さないといけないのでは、と思っているからです。だから感情を出すときにはビール等のアルコールを飲んだり、タバコを吸ったりしながら吐き出します。ですから悩み苦しみ、心の葛藤がいつも心の中に溜まっていて外に出ることがないのです。涙をこらえて飲み込み、胃の中に入ってしまいます。

 多少の痛みでしたら、たいしたことは無いと思ってしまうし、家族を持っている人でしたら、働かないといけませんので、多少の病気、痛みというのはこらえてしまいます。だから長く病院に行かないと、それがドンドン溜まっていってしまうのです。

 女性の場合はちょっと痛みがあると大変だということで、すぐに診てもらいます。腫瘍についても男性のほうが女性よりも40%多いそうです。ですからいくら一生懸命、お金を稼いでも早く病院に行かないために病気がさらに悪化して亡くなってしまえば、自分の問題だけではなく家族の悲しみにもなります。

 死ぬことに関しては三つのケースがありまして、一つ目は非常に若い時、幼い頃に父親が亡くなったりしますと、それが大きな苦しみになります。次の段階で、例えば結婚していて、夫婦のどちらかが先に亡くなった場合は、残された方が非常な悲しみに襲われます。また高齢になってから子どもたちに頼らざるを得なくなった場合、その子ども達が先に亡くなる場合も大きな悲しみに襲われます。これら三つの失う苦しみがあります。

 仮に平均寿命が70歳だとしても、四つの理由により若くしても、いつでも亡くなる可能性があります。四つの理由というのはカルマ、心、温度、栄養素です。ですから私達が幸福な人生を送るためには知恵とマインドフル(気づき)を持っていることが大事です。瞑想が重要な理由は、瞑想によって集中力と理解力、洞察力を得て、善いカルマ(業)を作ることが出来るので、それが自分自身の人生の支えになります。

 という訳で私達は瞑想をしていますが、瞑想して集中力が良くなり禅定を得ることが出来れば、不善すなわち不幸な感覚というのは無くなってしまいます。そして五戒を守ること、さらには慈悲の瞑想をすることが大切です。ですから皆さん頑張って瞑想してください。
ありがとうございました。

サードゥ! サードゥ! サードゥ!

2010年2月11日 (木)

サヤレー法話「黄金の孔雀と呼吸瞑想」

 仏陀の過去世のお話をしたいと思います。仏陀はある過去世において、バラナシに住む金色をした孔雀の王様でした。毎日、森の中に朝食を探しに出かける前に、太陽の神に礼拝し、「光を授けてくださりありがとうございます。今日も私にご加護をお与えください」とマントラを捧げていました。また過去仏に対しても、その徳を思いマントラを捧げていました。この二つのマントラを700年間、朝晩、必ず唱えていましたので、危険に襲われることもなく、平穏無事に過ごすことが出来ました。

 ある夜、バラナシ国の王妃は、法話をする黄金の孔雀の夢を見ました。翌朝、王妃はこの夢の話を王様に話し、「ぜひ、この孔雀に会って法話を聞きたいので探してください」とお願いしました。王様はこの願いを聞き入れ、黄金の孔雀を探すように御触書を出しました。

 同じ頃、1人の猟師が「森で黄金の孔雀を見た」と息子に告げました。これを聞いた息子は、早速、王様のもとへこれを伝えに行きました。王様は孔雀を捕まえるよう猟師に命じました。しかし、7年間探し続けても、毎日、礼拝を続け加護の下にある孔雀を見つけることは出来ませんでした。そして猟師も王妃も寿命を迎えてしまいました。

 王妃を失った王様の悲しみは怒りに変わり、孔雀を憎むようになりました。そして王様は金の紙に「黄金の孔雀を食べたものは不老不死を得る」と嘘の遺言を残し死んでいきました。
2代目に就いた王様はこの遺言を信じ、黄金の孔雀を探し続けましたが、彼も寿命を迎えました。こうして通算6世代に渡る王たちが孔雀を探し、そして寿命を迎えていきました。
みなさんも、この金の紙を見たら、孔雀を食べたい気持ちになりますか?

 7代目の王様に孔雀探しを頼まれた猟師は智慧があり、雌の孔雀に魅力的な踊りと歌を教えました。ある朝、黄金の孔雀が礼拝をしようとしたら、心地よい音楽が流れてきました。
とても心地よくなってしまった黄金の孔雀は、一瞬、気付きの心を失くし、その朝の礼拝を忘れてしまったため捕まってしまいました。
気付きというものはとても大切で、黄金の孔雀も一日だけ気付きを忘れたために捕まってしまったのです。

「さ迷う心」は、いつも隣に居て、いつ攻撃してくるか分からないものなので、一瞬でも気付きが無くなれば、すぐにガードを超えて攻撃してきます。一度、心がさ迷い出してしまえば、元に引き戻すのはとても難しく、どんどんさ迷い出してしまいますので、気付きで守りをしっかり固めて、常に吐く息、吸う息に気付きを置いて瞑想してください。

 捕まった黄金の孔雀は猟師に連れられて城に行きました。孔雀は自分を森に帰すよう王様に頼みましたが、王様は「黄金の孔雀を食べたら不老不死が得られる」との初代の王様の遺言について話しました。それを聞いた黄金の孔雀は「私も病になるし、老いもするし、死にもします。その私を食べても不老不死にはなりません。私が黄金の体になったのは前世で五戒を守ったからです。他の孔雀も五戒を守れば黄金の体になることでしょう」と法を説きました。

 私達も今世で五戒をきちんと守れば来世で美しく生まれてくることが出来ると思います(笑)。
みなさん、美しくなりたいですか?(笑)
みなさん美しくなるために沢山お金をかけてる方もいらっしゃると思います。

 気付きの邪魔をする「五つの障害(五蓋)」というものがあります。一つ目は五感を通して得られる感覚的な欲(貪欲)。二つ目は怒り(瞋恚)。集中が薄れて行くに従って過去のことを思い出し、怒りの心が出てくることがあります。三つ目は眠気(昏沈睡眠)。四つ目は散乱して安定しない心(掉挙)。五つ目は疑いの心(疑)で、「今回の合宿では禅定は無理ではないか」とか、「仏陀の教えは正しくないのではないか」という猜疑心が浮かび上がってくることがあります。猜疑心が湧いてきたら信念をもって疑わないということが必要です。

 過去世で積んだカルマ、波羅蜜を心配されてる方もあると思いますが、ここへ来て瞑想しているということは善い波羅蜜を持っている方々なので、みなさん善い修行ができます。自信をもってください。

 15~20分、呼吸のみに集中していればニミッタは必ず観ることが出来ます。集中力が高まった証拠として呼吸が微細になって身体も心も軽くなってきます。しかし、心が軽くなって幸福な気分になると、そのまま幸福な気分に浸ってしまい、呼吸への気付きや集中力が途絶えてしまうことがあるので、幸福感をサポート的存在としながら、頑張って呼吸に集中します。その状態をしばらく保っていくと心が作り出す明るい光が現れてきます。それは外部からの光ではなく極度の集中力がもたらす光です。

 人それぞれの状況によって見える色は違いますが、色に集中するのではなく、常に呼吸に集中してください。するとだんだん色が変わってきます。最初の段階では人によって黄色、青、紫、オレンジ・・などの色が見えてきます。その段階を経ると明るい白色に変わってきます。次にその白色の光が鼻先に移動してきます。そういう状態になってもまだ呼吸に集中します。

 さらにその段階を経ると白色の光がダイヤモンドのような輝きに変わって鼻先に留まるようになります。それでもなお光ではなく呼吸に集中します。この状態で5~10分と呼吸に集中することができたら、初めて集中の対象をニミッタに移します。さらにニミッタに集中した状態を1~2時間持続することができたら禅定に入ることができます。

 みなさん明日はニミッタが見えて、明後日には禅定に入れるように頑張ってください。
一時間、テレビの前で動かずに座っていられるのであれば15分呼吸に集中することも出来ると思いますので、あとは「対象」をどれだけ興味深いものにするのかというところに鍵があるのではないでしょうか。集中することは興味深く面白いものだと心を持っていくことが大切です。

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付記:Mora Paritta (孔雀経)

Udetayañcakkhumaa eka-raajaa
Harissa-va.n.no pa.thavippabhaaso
Ta"m ta"m namassaami harissa-va.n.na"m pa.thavippabhaasa"m
Tayajja guttaa viharemu divasa"m.

Ye braahma.naa vedagu sabba-dhamme
Te me namo te ca ma"m paalayantu.
Namatthu buddhaana"m namatthu bodhiyaa.
Namo vimuttaana"m namo vimuttiyaa.

Ima"m so paritta"m katvaa
Moro carati esanaa.

Apetayañcakkhumaa eka-raajaa
Harissa-va.n.no pa.thavippabhaaso
Ta"m ta"m namassaami harissa-va.n.na"m pa.thavippabhaasa"m
Tayajja guttaa viharemu ratti"m

Ye braahma.naa vedagu sabba-dhamme
Te me namo te ca ma"m paalayantu.
Namatthu buddhaana"m namatthu bodhiyaa
Namo vimuttaana"m namo vimuttiyaa

Ima"m so paritta"m katvaa
Moro vaasamakappayiiti.

(ウ・ウェーブッラ長老訳)
黄金に等しい色をした大地を照らすもの、世間に眼を与える唯一の王は昇る、その黄金に等 しい色をした大地を照らすものを、私は礼拝します。あなたの守護により今日一日を我々は過 します。

すべての法を覚知した諸婆羅門(悪を捨断した諸仏)は、私の礼拝を(受け給え)。そして私 を護り給え。諸仏に我が礼拝あれ、菩提に我が礼拝あれ。解脱者を礼拝し、解脱を礼拝します。
かの孔雀はこの護経を誦えたがら餌を求めに行きました。

黄金に等しい色をした大地を照らすもの、世間に眼を与える唯一の王は沈む、その黄金に等 しい色をした大地を照らすものを、私は礼拝します。あなたの守護により今宵一夜を我々は過 します。

一切法を覚知した諸婆羅門(悪を捨断した諸仏)は、我が礼拝を受け給え。そして私を護り 給え。諸仏に我が礼拝あれ、菩提に我が礼拝あれ。解脱者を礼拝し、解脱を礼拝します。
かの 孔雀はこの護経を誦えながら住んでいました。

2010年2月 3日 (水)

サヤレー法話「苦の循環・呼吸への気付き」 (2009年12月29日)

みなさん、今晩は。
 今は瞑想するのに大変ふさわしい時です。というのはもうすぐ新年を迎えますが、古いものが終わって、新しいものが生まれるというのがこの世界の本性であり、サイクル(循環)であります。これから世間では休暇に入り、海や山や温泉に遊びに行くことと思いますが、そんな中、瞑想したり法話を聞くためにここに集まったということは大変素晴らしいことです。ここに集まってくださった皆さんを尊敬します。

 新しい年を迎えると一つ歳をとります。そこで私達がここに来た目的が大変重要になります。合宿は休日の遊びではなく、自分たちの心の汚れと戦うための場所です。瞑想するといろいろな苦しみが出てきます。普段、仕事をしているでしょうから疲れが出たり眠くなったりすると思いますが、それらと戦うことが大事です。

比丘への質問

 仏教徒はカルマ(業)というものを信じます。善い行い、善い瞑想して、善いカルマを作っていくということを信じます。苦から解放されて涅槃へ到達することを信じます。一週間で涅槃へ到達することは難しいですが、それでも集中力を高めて努力を積み上げていくことが大切です。

 ブッダの時代のお話をしたいと思います。
ブッダは25回目の雨安居(ワサ)のとき、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ林にある祇園精舎にて数多くの法話をなさいました。マハーサティパッターナ・スッタ(大念住経)がとても有名ですが、クル国で説かれたお話も重要です。

 クル国の人々は優れた知恵をもっていたのでブッダは彼らに話しました。ラッタパーラという男性が法話に感銘を受け、ブッダへの信をもち出家したいと申し出ました。出家したいなら両親の許可を得るようにと、ブッダに言われたので、ラッタパーラは家へ戻り両親にお願いしました。しかし、彼の家は長者の家で、しかも一人息子だったために両親は出家を許しませんでした。そこで彼はハンガーストライキ(断食)をして、次第に衰弱して行きました。そんな彼を見た両親は死ぬよりはマシだろうと出家を許すことにしました。

 そして彼はブッダのもとで出家して、短い期間で阿羅漢に達しました。それから彼は両親にも善いカルマを積んでもらうために家へと戻って、両親からの供養を受けることにしました。そのとき家の中に入らず、家の外に立っていました。外に立っている比丘が我が子だと気づかなかった父親は供養するものは何もないから、早く門前から立ち去るように言いました。
 すると召使の女性が残飯を捨てるために表に出てきました。それを見たラッタパーラは「どうせ捨てる飯なら私にください」と言いました。すると召使は彼がラッタパーラであることに気づき、彼を家の中に招き入れ、両親にこの比丘がラッタパーラであることを告げました。

 両親は彼の前に宝石を積み、さらに10人の美しい女性を並べて、どれでも好きなものを選ぶよう、そして還俗するよう頼みました。普通の比丘ならば、そこで心が動揺するところですが、彼はすでに阿羅漢だったので心が動揺することなくその場を離れ、僧院に戻り、樹の下で瞑想して、「両親の心に無知があるため本当のことが見えなくなっている。人々は無知によって眼が閉ざされている」と感じました。

 このとき僧院にコーラヴィア国王が訪ねてきました。付き人から一人の比丘が庭で瞑想していることを伝えられた国王は、ぜひその比丘に会ってみたいと興味を示しました。そして国王は彼に一つ目の質問をしました。「あなたはお幾つですか?」。比丘は「20歳です」と答えました。国王は驚き、「20歳とは、まだ若いですね。普通の人は高齢になってから出家するものですが、なぜその若さで出家したのですか? あなたのご両親は誰ですか?」と二つ目の質問をしました。

 そこでラッタパーラは、これまでの経緯を国王に話しました。すると国王は、「あなたはお金持ちの家の息子ですね。普通は貧乏だから出家するものです。なぜ財産もあるあなたが出家したのですか? あなたは病気なのですか?」と三つ目の質問をしました。これに対してラッタパーラは、「私には病気もなく健康です」と答えました。すると国王は、「普通は病気で不幸だから出家するものです。あなたには親類縁者はいますか?」と四つ目の質問をしました。これに対してラッタパーラは「私には親類縁者があります」と答えました。すると国王は「普通は孤独になったから出家するものです。あなたは孤独ではないのに、なぜ出家したのですか?」と質問しました。

苦しみの循環

 国王が質問した四つのこと、それは世間一般の人が出家する動機となるものですが、ブッダの時代も同じでした。そして彼は一つ目の質問から答えはじめました。

「私達は苦しみの循環の中にいます。母親のお腹の中に入って生まれてくるという循環の中にいます。そして生まれてくると、20歳、30歳と歳をとって行きます。つまり生まれることは年老いて行くことと結びついています。年老いて行くと誰でも病気に罹ります。そして次に死がやって来ます。この四つは真実です。生まれ、年を取り、病になって、死んで行きます。

 しかし死が終わりではなく、そこからまた次の生へとつながっていきます。馬を飼っている人が毎日、毎日、餌をやるために馬を柵の中から連れ出し、また柵の中に連れ戻すように生、老、病、死の循環が終わることなく延々と続いて行きます。人生というものも循環(サイクル)で、繰り返し、繰り返し、終わることなく続いていることを考えて私は出家したのです」とラッタパーラは国王に答えました。

 二つ目の問いは財産についてでした。家、自動車、財産を持っていれば「これは私の物である」という気持ちになります。しかし死んでしまえば自分の物は一つもなく、全て残していかなくてはなりません。自動車、家・・等は、自分の本当の持ち物ではありません。ラッタパーラは、「ブッダ、ダンマ、サンガ、そして布施、戒を守ること、瞑想することによって得られる善いカルマだけが唯一、自分の財産です」と答えました。これが私達の本当の財産になるのです。

 また三つ目の質問にこう答えました。「私達はいつも誰かに頼っています。仏教徒ならブッダ、ダンマ、サンガ(仏・法・僧)に頼りますし、一般の人ならば親類縁者に頼ります」。ラッタパーラは国王に「貴方には何人の奥様をお持ちですか?」と、逆に質問しました。「私には14,000人の妻がいます」と国王は答えました。すると「貴方には大勢の奥様がいらっしゃいますが、貴方が病気になったときに、その苦しみを分担してくれる人はどれくらいいらっしゃいますか?」と聞きました。

 家族、親類、愛している人が居たとしても、自分が病気になったときに自分の苦しみを半分でも分担できる人がいるでしょうか?みなさんどう思いますか? これは重要なことですが、自分が病気になったら、その苦しみは自分ひとりで受け持たなくてはなりません。沢山の自動車、山ほどの食べ物を持っていたとしたら、それは皆で分けることが出来ますが、でも、それらは頼りにはなりません。

 布施、戒を守ること、瞑想するという三つの行いが善いカルマになり自分の頼りとなります。
ラッタパーラは、「自分の善き未来、善き生のためには善いカルマを作ることが大切で、それのみが自分の頼りとなります。だから私は出家したのです」と答えました。

 四つ目の質問に関してですが、この世界の人々の心は皆「渇愛(タンハー)」の支配下にあります。渇愛により人々は、見たい、聞きたい、味わいたいなどの感覚器官から来る欲望を喚起されます。例えば子どもの頃はいつもお腹がすいて、食べても、食べても満足できません。渇愛に支配されると、死ぬまで満足することがありません。眠い人は、いくら長く寝ても満足せず、「良く寝た」と思う事がありません。

 人々は車が欲しいとか、家が欲しいとか、財が欲しいとかいうために一生懸命働くわけですが、そのために寝る暇もなく、体を壊し、それでも満たされる事がなく働き続けます。人々は、「私はこれが欲しい」とか、「私はこれを愛している」とか「私はあれが好きである」とかいう風に何かを探し求めています。そういう風に考えます。しかし、死ぬまで満たされる事がありません。

 14,000人の奥さんが居ても、更に美しい女性が居たら、「まだ欲しい」と思います。「周りにいろいろな国がありますが、その国と戦って簡単に自分の領土にする事が出来るとすれば、王様はそうしますか?」と阿羅漢が聞きました。王様は、「それが簡単に出来るのだったら、私は国をもっと大きくしたい。隣の国も占領したい」と答えました。
 何故人々がそんな風にするかというと、それは執着、大きな欲望と執着があるからそういう行動に走るわけです。そうする事によって忙しくしているのです。どうですか、それが事実ではないでしょうか?

 1人の奥さんだったらそんなに問題はありませんが、3人も奥さんが居るといろいろ問題が起きてきます(笑)。どうですか、それが事実ではないですか?奥さんも夫も居なければ、それが一番良い事です。なぜなら自分の面倒をみれば良いだけですので、さらに他人の面倒もみてあげれば良いという事です。 自分一人なら、一人のことだけで済んでしまいますが、もう一人いれば、例えば奥さんの事も心配しなくてはならない。自分以外にも面倒を見なくてはいけない、面倒が増えてしまいます。

 ブッダは、執着のないことが一番良いことであり、自分の体にしても自分の心にしても、執着がなければ苦しむ必要がない、とおっしゃいました。それでラッタパーラは、「私は自分の執着を捨てたいために、また苦しみを捨てたいために出家しました」と答えました。

 ラッタパーラ阿羅漢の話を聞いて、王様は大変嬉しくなり、出家して比丘になりました。同じように皆さんもここに来ているわけですから、この1週間は家族の事とか、仕事の事とか、そういう事をすべて離れて、それらの事は考えないで、合宿に励んでください。今言った事は、すべての執着を切る事が善いカルマを作るという事です。もし今すぐに執着を全部断ち切って阿羅漢になる事が出来ないとしても、善いカルマを作って行く、善いカルマを積み上げて行くという事が先々の人生にとって善い結果をもたらします。

 それで皆さんここに来て、八戒を守るということは、戒を守るという事は心が幸せになるという事ですから、幸せになる事によってよいカルマ作っていくことができます。瞑想していると、いろんな 苦痛が起こってくると思いますけれども、その苦痛を乗り越えていく事によって心を成長させてください。

 王様が比丘に「あなたはいくつですか」と聞いたように、皆さんも自分に「いくつになったか」と聞いてみてください。ほとんどの人が二十以上ですが、二十代・三十代・四十代・五十代と、その間自分がどれだけ怒りとか欲とかを作ってきたかをじっと観察してみてください。その貪欲とか、怒りとか無知、そういうものがどれだけ自分の心の中にあるかをよく見てください。

 もしそういう欲とか、怒りとか、無知とかが自分の中に非常に多くあれば、それは善くないカルマを作っています。自分の中に悪いカルマを持っていると、死んだ後に例えば地獄などへ行って、長い間苦しみを受けなければならないことになります。瞑想している時の痛みというのは、ほんの僅かの苦しみ、一時の苦しみですからどうぞ乗り越えて欲しいと思います。
 短い間の痛みを乗り越え、忍耐する事によって、長く地獄へ行って苦しむという事は避けられるわけです。それでなぜこれをしたいのかという、意志(インテンション)がとても大事な事です。その意志も正しい意志でなくてはなりません。

アーナパーナ・サティ(呼吸への気付き)

 今している事に対して自信のある時に、修行はうまく進みます。八戒については、明日から八戒を守りますが、ブッダがおっしゃったのは、第一に戒を守るという事です。それから第二に集中力(コンセントレーション)を身につけるという事です。その集中力については、四十の瞑想法があって、その中から私達は呼吸を対象にする瞑想、アーナパーナ・サティをやっていきます。それで集中力がしっかりついた後に、ヴィッパサナー瞑想をする事が出来ます。

 これからアーナパーナ・サティ、呼吸瞑想をやっていくわけですけれども、それを少し説明したいと思います。アーナパーナ・サティをする時に、心をバランスさせるという事が大変重要です。瞑想をする時には、欲とか怒りとか無知からくる妄想や、嫉妬とか、そういう事はすべて横に置いて考えないようにする事が大事です。そして、絶え間ないいろいろな雑念も横に置いておく。

 それから眠気の心です。明日の朝おそらく眠くなるという事もあるでしょうけれども、それも何とか乗り越えて欲しいと思います。それらの善くない思いを切るためには、心をコントロールするという事が大事で、その為にサティ、気づき、マインドフルを持つことが大切です。

 サティ、マインドフル、気付いているという事ですが、何に気付いているかというと、吸う息と吐く息にいつも気付いていて、それをいつも覚えている。いつもそこに心を置いているという事です。もしその気付きがなくなると、簡単に妄想とか雑念とか、あるいは不善な考えがスッと入ってきます。だから気づいているという事が非常に大事なわけです。

 次に大切なのは、呼吸している時の呼吸の場所です。鼻の部分ですけれども、鼻の鼻腔の所に入ってきて、出ていくという呼吸を、タッチングエリアすなわち接触点で気付いているという事が大切です。接触点(タッチングエリア)は、空気の流れと鼻が接触している所で、これは人によって感じる所が違っていて、例えば片一方の鼻腔の所に感じる人もいるし、反対側に感じる人もいる。中央部、真ん中あたりに感じる人もいますが、いずれにしても自分の感じる所をそこにしっかり持っているという事が大事なわけです。

 ここが微妙な所ですが、接触点を見る場合、接触している皮膚の所だけを見るのではなく、空気の出入りしている領域を見る事が大切です。例えばその接触点を見ている場合、皮膚の領域だけに焦点を当てていると、段々頭が痛くなって来る事があります。

 それからその皮膚の感覚だけを見ていると、冷たいとか暖かいとか、そういう感覚のバイブレーション、波動を感じてしまう事があります。そういった、冷たいとか温かいという感覚の方に焦点を当てていくと、段々違う瞑想、すなわち四界分別観という瞑想の方に入り込んでしまうので、アーナパーナの時はそれをやらないでください。

 アーナパーナサティをする時は、呼吸しているのを分かっているという事で充分です。呼吸をする場合は、自然な呼吸というのが大事で、意識的に強く吸ったり吐いたりという風にはしないでください。また、呼吸を追って行って、頭の中に入って行くとか、肺とかお腹の中に入って行く事はしないでください。

 というのは、空気に従って入って行くというのは、風の要素を観察する瞑想になってしまいます。ですから大事な事は、自然な呼吸をする事と、自分の心をコントロールして、いつも呼吸に気付いているという二つです。

 また、心をリラックスさせ、楽しくさせる事が大切です。だいたい合宿の一日二日は、一つの対象に心を向けるのが大変難しく、心はあちこちへと散乱してしまう事がよく起こります。もっと集中しようとすると、もっとあちこちへ行ってしまうと言うような事が起こります。そういう時に、心に鞭打って、「しっかりやれ」と言っても難しいのです。

赤ん坊をあやすように

 そういう時は、鞭を打つような事はしないで逆に優しくあやすようにすることが大事です。呼吸を見る事と、赤ん坊を見る事は同じようなもので、色々むずかったり、ヤンチャな事をしている時に、叩いても上手く行かないわけで、逆にあやす様にすると上手く行くという事です。例えば、子どもをあやす時に、歌を歌ったりするでしょう。

 子どもがむずかる時に、子守唄を歌ってあげる時には、その歌っている気持ちの中に、慈悲の心があることが大事で、慈悲の気持ちなしにただ歌っているだけだと、子どもは泣き止みません。分かりますか、みなさん? 歌っている時に、よく聞くと本当に心から歌っているのかどうかが分かります。慈悲の心を持っていると、その波動が赤ん坊にも伝わり、赤ん坊にも分かるから、心が安らかになって静かになります。

 私達の心も赤ん坊と同じようなもので、心に慈悲を送ると、心が落ち着いて幸せな気分になってきます。心が静かになって、平和になってくれば、大変容易に集中を得る事が出来ます。

 そんな風にして、10分ないし15分、呼吸に集中する事が出来るようになれば、とても容易にニミッタ(集中のサイン)が現れてきます。慈悲の瞑想をするのは容易に出来ることです。何故かというと、慈悲を出そうと思えば、自分自身の心で出すことは大変容易だからです。ですから思い、あるいは自分の意志で、「災いから自由でありますように」と念じる、そういう思いを持つことはそんなに難しくありません。

 それから自分だけではなく、他の人についても、「他の人も災いから自由でありますように」という思いを持つことも大切です。最初に言ったように、「私は災いから自由でありますように」と心の中で唱えていると、心は落ち着いて、幸せな感覚が生まれてきます。

 二番目には、「私は、心の苦しみから自由でありますように」というように念じます。三番目は「私は、体の苦しみから自由でありますように」と念じます。そして四番目には「私は、健康で幸せでありますように」と念じます。最初は自分に対してその四つを念じ、それから自分以外の人にも四つの事を念じます。

 それで特に初めての方は最初に慈悲の瞑想をして、自分に対して四つの慈悲を心の中で唱えて、心が穏やかになってきたら呼吸を見るようにします。10分ないし15分慈悲の瞑想をして心が落ち着いてきたら、呼吸を見るようにしてください。

 それから座っている以外の時、例えば立っている時、歩いている時、それから横になっている時、行住坐臥ですね、そういう時も呼吸の方にに集中して、歩いていても、「歩いている」ことや足の感覚にいかないで、たえず呼吸の方に心を向けるようにしてください。呼吸と親しくなって呼吸を楽しむようになってください。

 もし眠くなってきたら、パッと目を開けたり閉じたりしてください。決意するという事がとても大事で、このリトリートは非常に短いわけですから、短いリトリートの中で私は絶対に禅定まで達するという風に決意して、一つ一つの坐禅の時間にしっかり座る事が大事です。

 それでも眠気があったら、耳をグッと引っ張ってみて、痛みで眠気に打ち勝ってみてください。また、眠気がある時にする一つの方法として、数を数えるのがあります。呼吸を吸って吐いて、それで「1」、吸って吐いて「2」、という風に数えていって、「8」まで数えたらまた「1」まで戻って繰り返します。
話が長くなりましたけれども、明日から眠気に打ち勝つよう頑張ってみてください。
ありがとうございました。

サードゥー! サードゥー! サードゥー!

2010年1月28日 (木)

サヤレー法話「ヴィパッサナー瞑想で真実を見る」(2010年1月1日)

 皆さん、新年おめでとうございます。合宿では楽しく過ごされていることと思います。皆さんが、こうして集まり、智慧と気付きを持って、お布施をしたり、戒を守ったり、あるいは瞑想したりと、すべて善き行いをしているので、私も大変幸せに思っています。善きことというのは、善き人だけが行えることです。新しい年が始まり、私達が善きことをしていると、これはこの生だけではなく、未来の生にも良い結果をもたらします。

変化することがこの世界の本性

 全ての人は幸せに生きたいと願っています。そして、平安に死にたいと思っています。ダンマというのは理解するのがとても難しいのですが、心と体にしても、この世界あるいは宇宙にしても全て変化しているということがあります。私達は幸福でありたいと思っていますが、時としてその条件が変化し、不幸な状況になります。私達は毎日毎日、あるいは、毎年毎年、歳をとっていくわけですから、ダンマについて深く思いをいたす必要があります。

 人生というものも絶えず変化して、生まれ、歳をとり、病気になり、死んでいくという生老病死があります。それは、ダンマにおける人生四つの項目です。それで、一年をとってみても、ある時は幸福だったり、あるときは不幸だったり、苦しみが起こったりと、絶えず変化があります。変化するのがこの世界の本性であり、物事は絶えず変化しているから、私達は変化を受け入れなければならないと、仏陀はおっしゃっています。

 人生においても、ある時は一生懸命働いて、大変豊かになり、ある時は条件により、またカルマによって、貧しくなります。また、ある時はたくさんの人を従え、ある時は、誰もついて来ません。ある時は、人々に賞賛され幸せな気持ちになり、ある時は人々に非難され、落ち込みます。ある時は、この世で名声を挙げ、ある時は、誰にも認められません。

 これが、いわゆる世間における八つのダンマ(世間八法)ということです。こんな風に私達の周りのものは絶えず変化します。こういう変化は絶えず起こるわけですから、私達は瞑想することによって心を強くして、良い方へ行っても、悪い方へ行っても心が動揺することなく、それを受け入れバランスを保つようにしなければなりません。

ヴィッパサナー瞑想でこの世界の本性を見る

 私達はヴィッパサナー瞑想、観察の瞑想をして私たちの中で何が起こっているか、その真実を見ます。ヴィッパサナーというのは、心にしても、外の世界にしても、この世界の本性、本質を見るということです。ヴィッパサナーの第一段階では私達の体の中で何が起こっているかを見ます。それで最初に四つの要素、地、水、火、風がどんな風に働いているかを見ます。これは、瞑想をしていれば分かり易いことだと思います。ある時は硬く感じたり、あるときは柔らかく感じたり、ある時は熱かったり、ある時は冷たかったりと、そういう感覚を受け取ることができると思います。

 そして、ヴィッパサナーの第二段階は、体の32の部分について観察していくということです。瞑想の力によって体の内側を見ることができるようになって、その匂いであるとか、色であるとか、その真実を見ていくことができます。体の表面は皮膚に覆われていて、中まで見えませんが、集中力によって、その内側がどんな風になっているのか、汚いものもありますが、そういう事実を見て行きます。

 体の中の器官を見ても、長い間見ていないと、変化は分からないものです。ブッダは、あるところに焦点を当てて、現在の瞬間における変化を見なさいとおっしゃいました。例えば、病気になると、体の中の器官も、色が変化するのが見られます。例えば、集中力で自分の心臓を見ると、なかなか心臓は美しいものだとか思って執着が起こります。あるいは髪を見てみると、なかなか髪は綺麗じゃないかという風に、そこにも執着が起こります。どうですか、それは事実ではないですか(笑)?

 髪の毛などを美しいと思って執着するということがあります。髪の毛がなければ、美しいも何もありません(笑)。しかし、皆さんは、髪の毛を剃りたいとは思いません。剃ってしまえば安上がりなのですけれども。それから、時間の節約にもなりますし、いちいち手入れする必要もないですし、髪の毛というのはあまり綺麗なものではないから、本当は剃ってしまった方が良いのです。それが、執着になっています。

 そんな風に私達は自分の体のいろいろなところに執着しているために、ありのままに見ることが難しくなっています。そして、集中して、体の中を見ていくと、体の中にある細菌、黴菌の類がいろいろうごめいているのが見えて、それは、綺麗とはいえない状況です。皆さんそういうことを信じられますか、いかがですか(笑)?細菌同士が一緒になって、子孫を作ってどんどん増えていく、そういう状況が起こっています。細菌が生まれて死んでいく、そういうことが体の器官の中で起こっています。

 ですから、私達の体というのは、細菌の墓場でもあるのです。どうですか、これは事実ではないですか?集中力を持って、体の器官を見ていくと、どんな器官にしても細菌がいて動いているのを見ることができます。ですから、細菌の墓場である体に執着する必要は全くないわけです。本来細菌の墓場である体にさらに執着があれば、そういう時はさらに高い段階でのヴィッパサナーというものがあります。それは、体の部分をさらに細かくバラバラにして、ルーパ・カラーパという非常に小さな微粒子の集まりにまで分解してしまうという観察の瞑想です。

ルーパ・カラーパを見る

 私達の体には六つの感覚器官があって、それは、眼、耳、鼻、舌、身体と、もう一つは心が宿っているところの心臓。心臓のところに心が宿っていて、心基と呼んでいます。それで、例えばその一つの感覚器官である眼をずっと集中して見ていると、眼自身がとても微細な微粒子によって出来ているということが分かり、それを見ていると眼というものがなくなって、ただ単なる微粒子(ルーパ・カラーパ)の集まりというものがあるだけということなります。そうして、同じように、耳も、鼻も、舌も、身体も、あるいは、心の宿る心臓のところも同じように微粒子によって出来ているのが見えます。

 そして、ブッダは眼の中にはどんなルーパ・カラーパ、微粒子があるかを見なさい、とおっしゃっています。それで、眼のルーパ・カラーパに、それが作られる四つの原因があります。一つは、カルマによって作られるものであり、それは、どれがカルマによって作られた微粒子かというのを見ることができます。

 もう一つは心によって作られるルーパ・カラーパで、また別の一つは、温度によって作られるルーパ・カラーパです。四番目は栄養素が原因になって作られるルーパ・カラーパで、これは例えば食べ物を食べたときに、それが分解され栄養素になって、その栄養素によって作られているルーパ・カラーパがあるわけです。ですから、眼の中のルーパ・カラーパを見たときに、どれがカルマによって作られているか、どれが心によって作られているか、どれが温度によって作られているか、どれが栄養素によって作られているかをチェックします。

 さらに、そのルーパ・カラーパが、変化して、絶えず生じて滅してを繰り返しているのを見ていきます。変化しているために無常であって苦であって無我であるというのを見ていきます。もし、そのルーパ・カラーパが生じて滅しているのを見ることができなければ、無常ということ、変化ということを理解することが難しいのです。それで、この微粒子、ルーパ・カラーパの中にどんなエネルギーがあるか、どんな性質があるかを見ていきます。

 例えば水について言いますと、コップの中の水を集中して観察すると何が見えるでしょうか。非常に集中力が良ければ、水の中に細菌たちがいるのが見えるでしょう。信じられますか。水の中を集中して見てみると、細菌がたくさんいるというのを信じられるでしょうか。皆さん見ることができますか(笑)?

 十分な集中力がないと見えないわけで、しっかりした集中力があると、水の中にいる細菌を見ることが出来ます。さらに、鋭い集中力をもって見るとH2Oの分子が見えます。信じられますか(笑)?さらに、H2Oの中の水素について詳しく見ていくと、電子があり、陽子、中性子、全てその中にあるのが見えます。それは信じられないかもしれませんが、信じようと信じまいと科学者はあると言っていることですから、見ることに挑戦してみてください。

 今、私達は水の中に細菌がいるということを見ることが出来ませんが、私達が今見ることが出来ないからと言って、そこに細菌がいないということにはなりません。どうですか、それが事実ではありませんか?もし、本当に見たければ、しっかりとした集中力をつければ、見ることが出来ます。自分で試してみてください。
 それで、体の中の最小の微粒子であるルーパ・カラーパというのを見ることは大変難しいことで、なかなか実践できないのですけれども、それを実際に見ないと、この世界の本性、本質というのが見えてこないわけです。

 それで、見えない為にそれを見逃してしまって理解を得ることができません。ですから、透徹した集中力によってルーパ・カラーパを見て、それが生じて滅しているのを見て、この世界の本性というものを理解することが出来ます。

 私達の体だけではなく、外側の体も観察します。自分自身のルーパ・カラーパだけでなく、外の他の人たちのルーパ・カラーパを見ることによって、例えば太陽の光線が、ぱーっと入ってきたときに、空気中に浮かんでいる塵がキラキラと見えるように、周りの人々、男であるとか女であるとか言うことでなく、最終的に全部ルーパ・カラーパの集まりにすぎないというのがはっきり分かってきます。空中にもルーパ・カラーパ、空気の微粒子があらゆる方向に動いているのが見えます。

 そのことによって正見(正しい見方)が起ります。正見によると、男か女か、人間か動物か、などは関係なく全てルーパ・カラーパであると究極の真実が見えてきます。対象についての誤った見方があるために、自分は誰それであるとか、あの人は私の彼氏であるとか、これは私の両親であるなど誤った見方をして、執着しています。

 この人はあなたの妻あるいは夫でありません、と言われたら、皆さんは怒り出すでしょうか。でもそれが事実ではありませんか?例えば、この人はあなたの夫ではないから、誰かにあげてしまいなさいと言ったら、怒り出すでしょう。なぜなら、妻あるいは夫は自分に属しているので、誰にもあげることはできないと思っているからです。

 独身の人は自分自身を糸で縛りつけ、家族を持っている人は家族をチェーンで縛りつけ、執着しています。その縛りつけているものを切るとすれば、どちらが切りやすいでしょうか?独身者の方が容易です。家族がいる人は容易ではありません。それが事実ではないでしょうか?もし、苦しみから自由でありたいならば、結婚しないのが一番です。家族の絆を切るのは非常に難しいからです。

執着を切って行く

 そこで、真実を見ることによって、執着を切って行くことができます。自分や他人に対する執着は、いろいろな困難や問題を引き起こします。例えば、嫉妬です。嫉妬は、愛と憎しみによって起こります。どうして愛と憎しみが起こるかというと、その対象に対する執着があるからです。ブッダは、執着を持っている人に、ヴィパッサナー(観察)をして、その対象をルーパ・カラーパまで分解して観るように教えました。

 執着についての一つのお話をしたいと思います。ブッダには、ナンダという兄弟がいました。また、ジャーナパタカラヤミーという姉妹がいました(*註)。あるとき二人の結婚式がありました。ブッダもその結婚式に呼ばれて、食事の供養を受けました。ブッダは、昼食の供養を受けて帰る時に、ナンダに食事の鉢を渡して、付いてくるように仰いました。
(*註)シャカ族では、同じ世代の親類を兄弟、姉妹と呼び合っていた。

 ナンダは、門のところまで鉢を持って行き渡せば良いのかと思い、門のところまで付いて行ききました。しかし、ブッダはスタスタと歩いていったので、ナンダはジェータ林の祇園精舎まで付いて行かざるを得ませんでした。ナンダがブッダに付いて行く時に、ナンダの奥さんは、「すぐに戻ってきてくださいね」と言いました。そして、ナンダは、祇園精舎に着くまで奥さんの、「すぐに帰ってきてください」という言葉を反芻していました。

 しかし、ナンダが僧院に着いた時に、ブッダは頭を剃って出家するように言い渡しました。皆さん、彼は出家したかったと思いますか?彼は全く出家したいとは思っていませんでした。しかしナンダはブッダを恐れていましたし、尊敬もしていました。ですから、ナンダはブッダの申し出を断ることができませんでした。それで、ナンダは仕方なく出家しましたが、家に帰りたいという思いばかりがつのって、瞑想が進みませんでした。

 あるとき、ブッダは、天界にはいろいろ素晴らしいものがあるので神通力で天界に行こうとナンダを誘いました。「私には神通力がないので行くことはできません」とナンダは答えました。ブッダは、「私の神通力で連れていくので一緒に行きましょう」と仰いました。
 それで天界に行く途中、ヒマラヤの山々を横切るときに、そこで止まって、ブッダはナンダに、「あれを見てみなさい」と指をさしました。その先には、年老いた雌の猿が座っていました。そして、ブッダはナンダを天界に連れていきました。

 天界に着くと、天界の女神(デーヴィ)達が集まってきて、ブッダに祝福を捧げました。その女神達は大変に美しかったのです。ナンダは、美しい女神達を見て、喜び、一緒にいたくなり、ブッダに「この女神の誰かと一緒になりたい」と言いました。そこで、ブッダは、「この女神達を見た後で、奥さんのジャナパタについてどう感じますか?」と質問されました。ナンダの奥さんは人間界では大変美しい人でした。しかし、ナンダは、「天界に来て女神を見た後では、ジャナパタは来る途中で見た年老いた猿みたいなものです」と答えました。

 もし、皆さんのご主人がそんな風に答えたら、どう感じますか?(会場から)「すぐに離婚します」(笑)。 でも、それが自然です。なぜなら、人はいつも美しいものを探し求めているからです。また、変化するものを探し求めているからです。それが事実ではないでしょうか?

 ですから、手放してしまうことです。心をオープンにするということが大事です。心をオープンにして、慈悲の心を持っていれば、いろいろな変化を受け入れることができます。これは難しいことですが、少しずつ実践して行くことにより、徐々に心が安定し、平安になることができます。これがダンマ(理法)です。ダンマは、手放すということです。

 そこでブッダは、「もし天界の女神と結婚したければ、瞑想して阿羅漢になりなさい。阿羅漢になれば、私がアレンジしてあげましょう」と仰いました。ナンダは、「分かりました。瞑想します」と答えました。 ナンダは以前、瞑想が苦痛で仕方ありませんでしたが、そのような理由で、僧院に戻ってから一生懸命瞑想に励みました。

 そこでブッダは、侍者のアーナンダ尊者を呼び、「ナンダはいまとても一生懸命瞑想に励んでいるが、それは天界の女神と結婚したいからだ」と僧院の皆に伝えなさいと仰いました。アーナンダ尊者が皆に知らせた後、ナンダは僧院の人々から、「あなたは瞑想して、天界の女神と結婚したいんだって?」と聞かれて、非常に恥ずかしくなりました。それでも、とにかくナンダは一生懸命瞑想に励んで、ついに阿羅漢になりました。阿羅漢になると全ての執着がなくなり、女神たちのことはどうでもよくなりました。このようにして、ブッダはナンダが執着から離れるよう助けました。

 その後、宮殿に残されたナンダの奥さんは、ご主人やお母さんなど周囲の人が皆出家し、周りに誰もいなくなり、淋しくなってしまいました。そこで、出家すれば前の家族と一緒にいられると思い、彼女も出家しました。しかし、皆がクティ(小舎)でブッダの法話が素晴らしかったと話していても、彼女はあまり法話に興味を示さず、聴く気もありませんでした。

 なぜ、彼女がブッダの法話を聴きたくなかったというと、ブッダはいつも死体など、死の話ばかりしていましたが、彼女はいつも美人だと誉められて、美しいものに執着があったからです。それで、ブッダの法話のときには、前の方には決して座らず、見えないよう、比丘尼達の背後に隠れるように座っていました。

 しかしブッダは、神通力で彼女のいることが分かっていました。そして神通力を使って、16才ぐらいの赤いドレスを着た大変に美しい女性を創りました。その女性は、ブッダの横に座って、扇でブッダを扇いでいました。彼女は、美しいものに執着があるので、その女性を見て、大変幸せな気持ちになりました。ブッダは、彼女がその女性に惹かれているのを感じて、20才、30才、40才と徐々に年齢を変化させていきました。彼女は、女性の年齢が徐々に変化していくのを見ていました。ブッダは、50才、60才、70才、80才、90才とさらに女性の歳を変化させました。

 女性は、黒髪から白髪に変化し、80才、90才になってくると、病気になったり、あちこちが痛そうな様子を見せました。最後には、女性は死に、死体となって横たわりました。それを見ていた彼女は、次第に恐れの感情を持つようになりました。同時に、それを厭う気持ちが湧いてきました。彼女は、瞑想で深く自分を観ることにより、自分自身も同じように年老いて死んでいくことを知りました。ブッダは、さらに女性が骸骨になる姿を見せました。彼女は、それを見ながら、次第に瞑想に入っていくことができました。

 ダンマというのは、私たちが現在理解しているものとは反対の面があります。私たちは、醜いものを美しくしたいと思っています。しかしダンマでは、いかに美しいものでも、醜いものであると見ます。結局私たちは、そのような醜いものを理解し、そのような状態でも幸福になるよう努めなければなりません。

 それがダンマです。骸骨を見ると誰でも恐ろしく思い好きにはなれません。皆さん他人の骸骨を見るのが好きですか(笑)?ですから皆さんも良く瞑想してください。誰でも骸骨なのですから。それは美しいでしょうか?どんなに汚くても、あるいは醜いものであっても、それがダンマであってそれが事実ですから、我々は深く瞑想することによって、それがこの世界の本性であり本質であると知るわけです。

 ある時ある日私たちにはそういう事がいつか起こります。現在はすぐ火葬場に持って行って燃しますからそういう事を見ることはできません。でも亡くなった人の死体というのは見ることが出来ると思います。例えば死体を見ていると、美しいわけじゃないし、匂いもするし、みんな嫌だというような気持ちになるけれども、それでも死体というものに集中してそれを深く見つめて、瞑想していくことによって、次第にそれを受け入れていくことが出来るようになります。しかも深く瞑想することによって、心が段々落ち着いてきて、第一禅定まで達することが出来るようになります。

 私たちは事実を事実として本当のことを見ることによって執着というものを断ち切ることが出来るようになります。ジャナパナタは、そんな風にしてブッダの説法を段々聞くようになって、最後には瞑想をしっかりやって阿羅漢になることが出来ました。

カルマを見る

 今、私達の心とか体は、カルマという原因によって作られているものもありますが、それを見ていくことは大変興味深いことです。私達はカルマの支配下、カルマのコントロールの下にあります。カルマと執着というのは同じことです。今現在のこの生、生きているこの生があるのは、その前の過去のカルマがあって、現在ここに生きているわけです。

 皆さんそういう事を信じられますか?皆さん疑っているみたいですね(笑)。皆さん前のカルマすなわち、過去のカルマが現在の自分たちを作っていると信じられますか?では、自分がどんなカルマを作ってきたかが分かりますか。それを見ることが出来ますか?

 なかなか難しいでしょう。瞑想して、集中力によってヴィッパサナーの瞑想をすることによって、過去世を見ることが出来るようになります。そういう風に見ることによって、過去においてどんな行動をして、どんな行いをして、どんなカルマを作ったかというのを知ることが出来るようになるわけです。

 カルマを作る原因には二つあって、一つは無知、無明です。もう一つは、サンカーラ(行)で、心の中で何かを作り出す働きのことです。過去における無明、無知があって、次の生で私は男に生まれたいとか、女に生まれたいとかそういう意思が作られます。無明(アビッジャー)があると、そういう事が起こります。

 無明(アビッジャー)というのは不善な心なのですけれども、人間に生まれるには善きカルマ、善き行いをしていないと生まれる事は出来ないわけで、それで過去にどんなカルマを作ってきたかというのをチェックすることが必要なわけです。例えばお布施をしたり、戒を守ったり、あるいは瞑想をしたりすると、これが善い行い、善いカルマを積むことになります。それがサンカーラという心・意思(チェータナ)――その人の意思を作って、サンカーラという風に呼ばれているわけですけれども、それが過去にもあって、それで人間に生まれてきているというわけです。

 それが過去から現在に再生する主要な原因です。ですからこの二つの原因、無明と、行すなわち心の形成力(サンカーラ)ですね、この二つの要因によって現在私たちはここにまた生まれてきているわけです。
 ですから過去におけるこの二つが原因になっています。過去において亡くなる直前の事、亡くなる時の意思がとても重要です。死ぬ時の意識に、ある種のイメージが出てくる。そのイメージとは、その次に行くところのイメージです。それはほとんど色として出てくる。例えば次に人間として生まれとすれば自分が入る母親の子宮の中の色のイメージが出てきます。

 死ぬ瞬間の意識があり、その意識が次の瞬間には新しい生が始まる意識に繋がるという事で、そんな風に次々に繋がって行きます。次に新しい生が始まると、意識の次にナーマ・ルーパすなわち、心の働きと、体、物質的な働きが次に生まれます。それは原因と結果という関係でもあります。無知・無明(アヴィッジャー)があり、それが原因になり、サンカーラ、すなわち心が何かを思い、心が何かを作り出すという、心の形成作用が起こります。

 そのサンカーラ(行)が原因になって「意識」が生まれます。サンカーラ(行)というのは一つの意思ですから、意思があるために、「次に何かをしよう」というわけで意識が発生し、その意識があるためにナーマ・ルーパすなわち、心の働きと、それから体の働きが生まれるわけです。

 それからナーマ・ルーパ、心の働きと体の働きが起こると、次に六つの感覚器官が出来ます。六つの感覚器官が出来ることによって六つの接触すなわち、見るとか聞くとか外界との接触が起こります。六つの外界からの接触があると、次に六つの感覚が生じます。六つの感覚が生じると執着が起こります。

 この執着が起こるという所が境界になり、現在の人生と未来の人生が起こる、境界線になっています。ここが境界線であり、阿羅漢になると執着というものが無くなりますから、感覚から次の執着が始まるということが無くなって、ここで切れてしまい、阿羅漢では亡くなる時にそこから次に涅槃の方に行くようになります。

 今いかにして執着を切るかという事について、その連鎖について説明してきました。それから自分というのも無いし、他人とか彼女とか彼というのも無い。あるのはルーパ・カラーパだけであるという事を見てきました。現在の執着を断ち切ることが出来れば未来は、幸福な未来へ行くことが出来るわけです。

幸福な未来

 どうですか、皆さん、未来にまた違う人生を始めたいと思いますか。死んでから皆さんどこへ行きたいと思いますか?今、丁度年が変わったわけですけれども、人生が変わったらどこに行きたいでしょうか?年が変わってhappy new yearですけれども、自分の人生はどういうhappy new lifeにしたいでしょうか?
 
未来に人間界とか天界とかに行くと言うのがはっきり見えないとすればちょっと危険なことです。それが見えないというのは、happyなnew lifeに行くことが出来ないという事です。

 いかがですか、それが事実ではないでしょうか?
自分は次にどこに行きたいかについて、はっきりとしたイメージ、意識・意思を持つことが必要です。例えば天界に行くにしても、人によりいろいろな欲求があって、天界に行って大いに楽しみたいと思っている人もいるし、天界に行って瞑想をしたいと思っている人もいると思います。瞑想によって自分はどこに行きたいのかをはっきりさせるのが大事で、必要なわけです。例えばイギリスへ行きたいと思ったら、チケットを買う必要があり、何もお金を持っていなかったら行くことは出来ません。ですから良いカルマというのは大変重要なわけです。

 もし阿羅漢になっていたら、良き未来かどうかの心配をする必要は全くありません。阿羅漢になるのは私達にとってはちょっと難しいですから、良いカルマを積む、善い行いを積む事が必要で、1週間位のリトリートではそれほど充分ではありません。すべての事についていつもマインドフルすなわち、気づきをもって行うという事が必要です。

 色々なお布施をするというのも一つなのですけれど、こんな風に瞑想するというのが行いとしては善い行いという事になります。皆さん、下の世界に行きたいと思いますか?例えば死んだ後に、動物界に生まれるとか、地獄界に生まれるとか、そういう所に行きたいと思いますか?
 誰も行きたいとは思わないでしょう。それは、何故でしょうか?苦しみがあるからです。もし集中力があって能力があれば、下の世界の生き物たちが如何に苦しんでいるかを見る事が出来るようになります。

 心の中で、一つの過程、プロセスが起こります。例えば何か一つのものを見て、それに対して好きではない、嫌だという感情が起こると、一つの心の過程、一つのプロセスが一つのカルマを作ります。

 モッガラーナ尊者が下の世界、地獄へ行って、そこで苦しんでいる人たちにどういうカルマであなたは苦しむようになったのかと、いろいろ聞いて回ったそうです。その時にそれが怒りであったり、嫉妬であったりとかいうことで、その世界に行ってしまったと。それを見てみると非常に短い心の過程で、つまり怒りにしても大変短い怒りなのだけれども、それによって下の世界に行って長く苦しまなければならない、という事が起こるわけです。

 ですから私たちはいつも自分の心の中で、善の心を育てるように、いつもマインドフルで気づいているという事が大切です。マインドフル、気付きをいつも持っていないと、不善な心――怒りとか嫉妬だとかが起こって、それが重なってくることによって悪いカルマになって、最後の死ぬ瞬間に悪いイメージが現れてきたりします。

 ですから瞑想する時は楽しく瞑想するように、幸せに瞑想するようにして、1週間の瞑想合宿で苦しんだなんて、そういう気持ちを持たないようにしましょう。またその瞑想の対象に対して、あまり退屈にならないようにしてください。瞑想というのはとても楽しく幸せなものです。それを信じられますか?まあ皆さん眠そうですが。

 ですから皆さんに是非とも阿羅漢になってほしいのですけれども、それが無理だとしても次の人生、新しい人生はhappyな人生になるように、善い人生が生まれますように、善い行いをしてほしいと思います。例えばこのリトリートで熱心に瞑想して楽しかった、というような事を毎年毎年いつも思い出す事によって、段々心が良い方に、良い思いが積み重なって行きます。

 今年のゴールデンウィークは、サヤレー自身のリトリートがあるために来る事が出来ませんが、暮にはまた来る事が出来ると思います。今年で出家して20年経ちました。いままで、教えることばかりで自分自身の瞑想が出来なかったのですが、今年は自分自身の瞑想をしたいと思っています。集中力と瞑想を深める事が出来れば、さらにパワーアップして、また皆さんの瞑想を成長させるために教える事が出来ると思います。

 よろしいですか。天国、天界の名簿に、皆さんの名前を書き込んでおきます。天国の王様にEメールで送っておきたいと思います(笑)。毎年この人たちは善いことをしていると書いて送ります。ブッダの時代にお布施をすると、お布施というのは大きなカルマで、徳を積んだ事になって、それが結果となってすぐ現われました。

 例えば誰かがお布施をすると、天界に大変美しい立派な家が出現しました。モッガラーナ尊者は度々下の世界に行きますが、上の世界にも行ったときに、この美しい家を見て、「この綺麗で立派な家は誰の家ですか」と尋ねたら、「いや、まだそこの住人は来ておらず、下の人間界に居ます」という答えでした。ブッダにお布施をした人の、お布施の力、徳の力で家が出来てしまったということがあったそうです。

 お布施でさえこれだけの結果が出るのですから、瞑想による功徳、力というものは、もっと強いわけです。皆さんも天界で誰もが立派な家を持っていることと思います。ですからhappy new yearならぬhappy new lifeをお祈りいたします。
今日はありがとうございました。

サードゥー! サードゥー! サードゥー!


2012/8 宝台樹高原

  • 6
    8月に合宿の行われたみなかみ町藤原は宝台樹山のふもとにあり、冬はスキー場になる高原風ののどかな村です。

2009年クムダ・セヤドーのお寺 

  • 10 セヤドーのお話を聞く
    ミャンマー・ヤンゴン市郊外モービにあるクムダ・セヤドーの瞑想センターを訪ねた方が写真を送ってくださいました。 シーマホールも完成し、そこには富士山をバックにした仏像がまつられています。

2008/8 水上合宿

  • 雨上がり
    8月に合宿の行われた水上町藤原はまさに水の里。民宿周辺の風景をお届けします。

2008 夏の風景

  • 朝霧の沢
    夏の暑い日、川の源流では入道雲が湧き、山や木々は様々な表情を見せていました。

2008/7 関西合宿・瞑想会

  • 延命寺三門にて
    大阪、河内長野市にある延命寺は弘法大師空海が開基と伝えられ、市の紅葉名所にもなっている美しいお寺です。 ここで7月、クムダ・セヤドーをお招きして一週間の瞑想合宿が開かれました。
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