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2016年4月

2016年4月17日 (日)

オバサ・セヤドー経典学習会(変更)のお知らせ

5月の学習会は都合によりお休みし、次回は6月12日に開催予定です。

6月12日(日)13:00~17:00 

中板橋MCWA事務所(地図参照)
住所 板橋区仲町39-1 電話03-3973-3348 
東武東上線中板橋駅より徒歩5分

Mcwa


予定

13:00より瞑想、休憩
14:00よりセヤドーの解説
16:00より質疑応答
17:00終了

参加費無料
予約の必要はありません

テキスト:今回より「無我相経」(Anattalakkhana sutta)

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無我相経( Anattalakkhana Sutta )

Ekaṃ samayaṃ bhagavā bārāṇasiyaṃ viharati isipatane miga·dāye. Tatra kho bhagavā pañca·vaggiye bhikkhū āmantesi:
– Bhikkhavo ti.
– Bhadante ti te bhikkhū bhagavato paccassosuṃ. Bhagavā etad·avoca:

 ある時、世尊はベナレスの、昔仙人が降りて来た所であると伝えられた、鹿野園に住んでおられました。そこで世尊は五人の比丘に、比丘たちよ」と話しかけられました。彼らが「尊師よ」と世尊に答えると、世尊は次のように説かれました。  

– Rūpaṃ, bhikkhave, anattā. Rūpañ·ca h·idaṃ, bhikkhave, attā abhavissa, na·y·idaṃ rūpaṃ ābādhāya saṃvatteyya, labbhetha ca rūpe: ‘evaṃ me rūpaṃ hotu, evaṃ me rūpaṃ mā ahosī’ti. Yasmā ca kho, bhikkhave, rūpaṃ anattā, tasmā rūpaṃ ābādhāya saṃvattati, na ca labbhati rūpe: ‘evaṃ me rūpaṃ hotu, evaṃ me rūpaṃ mā ahosī’ti.

「比丘たちよ、色は無我である。比丘たちよ、もし色が我であるならば、色は病いにかかることはないし、また色に対して『私の色はこのようになれ、私の色はこのようになるな』と命じろことが出来るであろう。しかし比丘たちよ。実に色は無我であるから色は病いにかかり、 また色に対して『私の色はこのようになれ、私の色はこのようになるな』と命じることが出来ないのである。

Vedanā anattā. Vedanā ca h·idaṃ, bhikkhave, attā abhavissa, na·y·idaṃ vedanā ābādhāya saṃvatteyya, labbhetha ca vedanāya: ‘evaṃ me vedanā hotu, evaṃ me vedanā mā ahosī’ti. Yasmā ca kho, bhikkhave, vedanā anattā, tasmā vedanā ābādhāya saṃvattati, na ca labbhati vedanāya: ‘evaṃ me vedanā hotu, evaṃ me vedanā mā ahosī’ti.

受は無我である。比丘たちよ、もし受が我であるならば受は病いにかかることはないし、また受に対して『私の受はこのようになれ。私の受はこのようになるな』と命じることが出来るであろう。しかし比丘たちよ、実に受は無我であるから受は病いにかかり、また受に対して『私の受はこのようになれ、私の受はこのようになるな』と命じることが出来ないのである。

Saññā bhikkhave, anattā, saññañ·ca h·idaṃ bhikkhave, attā abhavissa na·y·idaṃ saññaṃ ābādhāya saṃvatteyya, labbhetha ca saññāya: ‘evaṃ me saññā hotu, evaṃ me saññaṃ mā ahosī’ti. Yasmā ca kho bhikkhave, saññaṃ anattā, tasmā saññaṃ ābādhāya saṃvattati, na ca labbhati saññāya: ‘evaṃ me saññā hotu, evaṃ me saññaṃ mā ahosī’ti.

想は無我である。比丘たちよ、もし想が我であるならば想は病いにかかることはないし、また想に対して『私の想はこのようになれ。私の想はこのようになるな』と命じることが出来るであろう。しかし比丘たちよ、実に想は無我であるから想は病いにかかり、また想に対して『私の想はこのようになれ、私の想はこのようになるな』と命じることが出来ないのである。  

Saṅkhārā bhikkhave, anattā, saṅkhārañ·ca h·idaṃ bhikkhave, attā abhavissa na·y·idaṃ saṅkhāraṃ ābādhāya saṃvatteyya, labbhetha ca saṅkhāresu: ‘evaṃ me saṅkhāraṃ hotu, evaṃ me saṅkhāraṃ mā ahosī’ti. Yasmā ca kho bhikkhave, saṅkhāraṃ anattā, tasmā saṅkhāraṃ ābādhāya saṃvattati, na ca labbhati saṅkhāresu: ‘evaṃ me saṅkhāraṃ hotu, evaṃ me saṅkhāraṃ mā ahosī’ti.

行は無我である。比丘たちよ、もし行が我であるならば行は病いにかかることはないし、また行に対して『私の行はこのようになれ、私の行はこのようになるな』と命じることが出来るであろう。しかし比丘たちよ。実に行は無我であるから行は病いにかかり、また行に対して『私の行はこのようになれ、私の行はこのようになるな』と命じることが出来ないのである。 

Viññāṇaṃ bhikkhave, anattā, viññāṇañ·ca h·idaṃ bhikkhave, attā abhavissa na·y·idaṃ viññāṇaṃ ābādhāya saṃvatteyya, labbhetha ca viññāṇe: ‘evaṃ me viññāṇaṃ hotu, evaṃ me viññāṇaṃ mā ahosī’ti. Yasmā ca kho bhikkhave, viññāṇaṃ anattā, tasmā viññāṇaṃ ābādhāya saṃvattati, na ca labbhati viññāṇe: ‘evaṃ me viññāṇaṃ hotu, evaṃ me viññāṇaṃ mā ahosī’ti.

識は無我である。比丘たちよ、もし識が我であるならば識は病いにかかることはないし、また識に対して『私の識はこのようになれ、私の識はこのようになるな』と命じることが出来るであろう。しかし比丘たちよ、実に識は無我であるから識は病いにかかり、また識に対して『私の識はこのようになれ、私の識はこのようになるな』と命じることが出来ないのである。

Taṃ kiṃ maññatha, bhikkhave: rūpaṃ niccaṃ vā aniccaṃ vā ti?
– Aniccaṃ, bhante.
– Yaṃ pan·āniccaṃ dukkhaṃ vā taṃ sukhaṃ vā ti?
– Dukkhaṃ, bhante.
– Yaṃ pan·āniccaṃ dukkhaṃ vipariṇāma·dhammaṃ, kallaṃ nu taṃ samanupassituṃ: ‘etaṃ mama, eso·ham·asmi, eso me attā’ti?
– No h·etaṃ, bhante.
– Vedanā niccā vā aniccā vā ti?
– Aniccā, bhante.
– Yaṃ pan·āniccaṃ dukkhaṃ vā taṃ sukhaṃ vā ti?
– Dukkhaṃ, bhante.
– Yaṃ pan·āniccaṃ dukkhaṃ vipariṇāma·dhammaṃ, kallaṃ nu taṃ samanupassituṃ: ‘etaṃ mama, eso·ham·asmi, eso me attā’ti?
– No h·etaṃ, bhante.
– Saññā niccā vā aniccā vā ti?
– Aniccā, bhante.
– Yaṃ pan·āniccaṃ dukkhaṃ vā taṃ sukhaṃ vā ti?
– Dukkhaṃ, bhante.
– Yaṃ pan·āniccaṃ dukkhaṃ vipariṇāma·dhammaṃ, kallaṃ nu taṃ samanupassituṃ: ‘etaṃ mama, eso·ham·asmi, eso me attā’ti?
– No h·etaṃ, bhante.
– Saṅkhārā niccā vā aniccā vā ti?
– Aniccā, bhante.
– Yaṃ pan·āniccaṃ dukkhaṃ vā taṃ sukhaṃ vā ti?
– Dukkhaṃ, bhante.
– Yaṃ pan·āniccaṃ dukkhaṃ vipariṇāma·dhammaṃ, kallaṃ nu taṃ samanupassituṃ: ‘etaṃ mama, eso·ham·asmi, eso me attā’ti?
– No h·etaṃ, bhante.
– Viññāṇaṃ niccaṃ vā aniccaṃ vā ti?
– Aniccaṃ, bhante.
– Yaṃ pan·āniccaṃ dukkhaṃ vā taṃ sukhaṃ vā ti?
– Dukkhaṃ, bhante.
– Yaṃ pan·āniccaṃ dukkhaṃ vipariṇāma·dhammaṃ, kallaṃ nu taṃ samanupassituṃ: ‘etaṃ mama, eso·ham·asmi, eso me attā’ti?
– No h·etaṃ, bhante.

比丘たちよ、そなたらはどう思うか。色は常であるか。無常であるか。
  「尊師よ、無常であります。」
  「無常なるものは苦であるか。楽であるか。」
  「尊師よ、苦であります。」
  「無常であり、苦であり、壊れるものを『これは私のものである。これは私である、これは私の我である』と見るのは正しいか。」
  「尊師よ、それは正しくありません。」
  「受は常であるか、無常であるか。乃至、想は常であるか。無常であるか。乃至。行は常であるか。無常であるか。乃至、識は常であるか。  無常であるか。」
  「尊師よ。無常であります。」
  「無常なるものは苦であるか、楽であるか。」
  「尊師よ。苦であります。」
  「無常であり。苦であり。壊れるものを『これは私のものである、これは私である、これは私の我である』と見るのは正しいか。」
  「尊師よ、それは正しくありません。」

– Tasmātiha, bhikkhave, yaṃ kiñci rūpaṃ atīt·ānāgata·paccuppannaṃ ajjhattaṃ vā bahiddhā vā oḷārikaṃ vā sukhumaṃ vā hīnaṃ vā paṇītaṃ vā yaṃ dūre santike vā, sabbaṃ rūpaṃ ‘n·etaṃ mama, n·eso·ham·asmi, na m·eso attā’ti evam·etaṃ yathā·bhūtaṃ samma·p·paññāya daṭṭhabbaṃ.

「比丘たちよ、それゆえ、色であるものは何であれ。過去のものでも、未来のものでも、現在のものでも、内部のものでも、外部のものでも、粗いものでも、細いものでも、劣ったものでも、優れたものでも、遠いものでも、近いものでも、そのすべての色を『これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない』とこのようにあるがままに正しい智慧によって見るべきである。

Yā kāci vedanā atīt·ānāgata·paccuppannā ajjhattā vā bahiddhā vā oḷārikā vā sukhumā vā hīnā vā paṇītā vā, yaṃ dūre santike vā sabbā vedanā ‘n·etaṃ mama, n·eso·ham·asmi, na m·eso attā’ti evam·etaṃ yathā·bhūtaṃ samma·p·paññāya daṭṭhabbaṃ.

受であるものは何であれ。乃至……。

Yā kāci saññā atīt·ānāgata·paccuppannā, ajjhattā vā bahiddhā vā oḷārikā vā sukhumā vā hīnā vā paṇītā vā, yaṃ dūre santike vā sabbā saññā ‘n·etaṃ mama, n·eso·ham·asmi, na m·eso attā’ti evam·etaṃ yathā·bhūtaṃ samma·p·paññāya daṭṭhabbaṃ.

想であるものは何であれ、乃至……。

Ye keci saṅkhārā atīt·ānāgata·paccuppannā, ajjhattā vā bahiddhā vā oḷārikā vā sukhumā vā hīnā vā paṇītā vā, yaṃ dūre santike vā sabbā saṅkhārā ‘n·etaṃ mama, n·eso·ham·asmi, na m·eso attā’ti evam·etaṃ yathā·bhūtaṃ samma·p·paññāya daṭṭhabbaṃ.

行であるものは何であれ、乃至……。

Yaṃ kiñci viññāṇaṃ atīt·ānāgata·paccuppannaṃ, ajjhattaṃ vā bahiddhā vā oḷārikaṃ vā sukhumaṃ vā hīnaṃ vā paṇītaṃ vā, yaṃ dūre santike vā sabbaṃ viññāṇaṃ ‘n·etaṃ mama, n·eso·ham·asmi, na m·eso attā’ti evam·etaṃ yathā·bhūtaṃ samma·p·paññāya daṭṭhabbaṃ.

識であるものは何であれ、過去のものでも。未来のものでも、現在のものでも、内のものでも、外のものでも、粗いものでも、細いものでも、劣ったものでも、優れたものでも。遠いものでも、近いものでも。そのすべての識を『これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない』と、このようにあるがままに正しい智慧によって見るべきである。

Evaṃ passaṃ, bhikkhave, sutavā ariyasāvako rūpasmim·pi nibbindati, vedanāya·pi nibbindati, saññāya·pi nibbindati, saṅkhāresu·pi nibbindati, viññāṇasmim·pi nibbindati. Nibbindaṃ virajjati. Virāgā vimuccati. Vimuttasmiṃ ‘vimuttami’ti ñāṇaṃ hoti. ‘Khīṇā jāti, vusitaṃ brahmacariyaṃ, kataṃ karaṇīyaṃ, n·āparaṃ itthattāyā’ti pajānātī·ti.

比丘たちよ、このように見ると、多聞の聖なる弟子は、色をも厭離し、受をも厭離し、想をも厭離し、行をも厭離し、識をも厭離する。厭離のゆえに貪りを離れる。貪りを離れるゆえに解脱する。解脱すれば、『解脱した』という智慧が生じる。『生まれることはもう無い。修行は完成した。(道のために)為すべきことはすでに為し、この道のために他に為すべきことは無い。あるいは、二度とこのような生存を受けることはない』と知るのである。」と。

Idam·avoca bhagavā. Attamanā pañca·vaggiyā bhikkhū bhagavato bhāsitaṃ abhinanduṃ.
Imasmiñ·ca pana veyyākaraṇasmiṃ bhaññamāne pañca·vaggiyānaṃ bhikkhūnaṃ anupādāya āsavehi cittāni vimucciṃsūti.

世尊がこれを説かれると、五人の比丘は世尊の教説を心から喜んで受けました。この教説が説かれているうちに、五人の比丘は心に執着がなくなり、漏より解脱したのでした。

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