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2015年7月

2015年7月29日 (水)

ディーパンカラ・サヤレーの法話会(日程変更)

ディーパンカラ・サヤレーは、アメリカからの帰路、日本に立ち寄られます。
当初2日間の瞑想会を予定していましたが、ニュースでも報じられているように、ミャンマーでは大雨による洪水被害が起きています。
そのため予定を繰り上げ、21日夜に法話会を行い、翌22日に帰国されることになりました。

8月21日(金)18:30~20:30 板橋区南常盤台集会所 東上線「ときわ台」駅より徒歩5分


Photo


およそのスケジュール
18:30~「お経」のチャンティング
18:45~ 法話
20:30 頃閉会

予約の必要はありません。座布団はあります。
参加費:無料、サヤレーへのお布施を受け付けています。
瞑想しやすい服装でおいで下さい。(タンクトップ、短パンは厳禁)
参加される方は、「お経」をプリントしてご持参ください。

ディーパンカラ・サヤレー について

サヤレーは子供の頃から瞑想を始め、ミャンマーのいろいろな指導者について瞑想指導を受けました。
1990年、パオ瞑想センターにて出家し、それ以降瞑想指導者としての訓練を受けました。
1996年より世界各地の仏教センターに招かれ、オーストラリア、アメリカ、カナダ、台湾、イギリス、マレーシア、シンガポール、日本などで瞑想指導をしています。
ミャンマー・メイミョ―にサヤレーの瞑想センターがあります。

サヤレーの瞑想センター「brahmavihari」のホームページ
http://brahmavihari.wix.com/brahmavihari

サヤレーの本:「The Happiness of a Beautiful Mind」
こちらのサイトからダウンロードできます。
http://brahmavihari.wix.com/brahmavihari#!gallery/c11fl


問い合わせ:はらみつ法友会事務局(paramifriend@gmail.com)

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お経
○礼拝
   ナモ タッサ バガヴァト アラハト サンマ  サンブッダサ
  Namo tassa Bhagavato Arahato Samma ?Sambuddhassa    

 私は、阿羅漢であり正自覚者であるかの世尊を礼拝いたします

○三帰依
    ブッダン サラナン ガッチャーミ   ダンマン  サラナン ガッチャーミ
    Buddham saranam gacchami   Dhammam saranam gacchami
     
     サンガン  サラナン  ガッチャーミ
     Sangham saranam gacchami          

 私は、仏に帰依いたします、私は、法に帰依いたします、私は、僧に帰依いたします。

      ドゥティヤンピ
       Dutiyampi--- (再び)  再び私は、―――
       タティヤンピ
     Tatiyampi--- (三度) 三度私は、―――

◯仏の十徳

Itipi(イティピ) so(ソ)  bhagava(バガヴァ)  arahan(アラハン)  samma (サンマ)sam buddho(サンブッド)            
Vijja(ヴィッジャ) carana(チャラナ) sampanno (サンパンノ)  sugato (スガト)  lokavidu(ローカヴィドゥ)             
Anuttaro(アヌッタロ)  purisadamma(プリサダンマ) sarathi(サーラティ)                             
Satha(サッター) deva(デーヴァ) manussanam (マヌッサーナン) buddho (ブッド)bhagavati(バガヴァティ)

かの世尊は、阿羅漢、正自覚者であり、明行具足、善逝、世間解であり、無上士 調御丈夫であり、神々、人間の師、仏陀、世尊である

◯法の六徳

Svakkhato(スヴァッカート) bhagavata (バガヴァタ)dhammo (ダンモ) sanditthiko (サンディッティコ) akaliko (アカーリコ)      
 Ehipassiko(エーヒパッスィコ)  opanayiko(オーパナイコ)  paccattam(パッチャッタン) veditabbo(ヴェーディタッボ) vinnuhiti(ヴィンニューイティ)   

 法は世尊によってよく解かれたものであり、 自分で見るべきものであり、即時のものであり 
 来たり見よと招くものであり、自己の心に獲得すべき、 各自に経験して識らるべきものである  

◯僧の九徳
Supatipanno(スパティパンノ) bhagavato(バガヴァト)  savakasangho (サーヴァカサンゴ) Ujupatipanno(ウジュパティパンノ)
bhagavato(バガヴァト) savakasangho (サーヴァカサンゴ)           
Nayapatipanno(ニャーヤパティパンノ) bhagavato(バガヴァト) savakasangho (サーヴァカサンゴ)         
Samicipatipanno(サーミチパティパンノ) bhagavato(バガヴァト)  savakasangho (サーヴァカサンゴ)
Yadidam (ヤディダン)cattari (チャッターリ)purisayugani (プリサユガーニ)attha purisa puggala(アッタプリサプッガラ)         
Esa(エーサ)  bhagavato(バガヴァト) savakasangho (サーヴァカサンゴ)               
Ahuneyyo(アーフネイヨー)  pahuneyyo(パーフネイヨー)  dakkhineyyo(ダッキネイヨー)  anjolikaraniyo(アンジョリカラニヨー)
Anuttaram(アヌッタラン) punnakkhettam(プンニャケッタン) lokassati(ローカサッティ)

世尊の弟子の僧は、善行者であり、世尊の弟子の僧は、真直ぐに行ずる者であり、世尊の弟子の僧は、涅槃を目指して行ずる者であり、世尊の弟子の僧は、尊敬に値する行者である。
これらが四双八輩である。  これら世尊の弟子である僧は、 供食、供献、供養、合掌に値し、世界における無上の福田である。


 ○Karaniya Metta Sutta (慈経)          (中村元訳)

カラニーヤ マッタ クサレーナ ヤン タン サン タン パダン アビサメッチャ究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達して
Karanîya mattha kusalena Yantam santam padam abhi-samecca    なすべきことは、次のとおりである。      
サッコー ウジューチャ スージューチャ スワチョー チャッサ ムドゥ アナティマーニー 能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、
Sakko uju ca sûjû ca  Suvaco cassa mudu anatimâni  柔和で、思い上ることのない者であらねばならぬ。   
サントゥッサコー チャ スバロー チャ アッパ キッチョー チャ サッラフカ ヴッティ足ることを知り、わずかの食物で暮し
Santussako ca subharo ca Appa-kicco ca sallahuka-vutti        雑務少く、生活もまた簡素であり
     
サンティンドゥリョー チャ ニパコーチャ アッパ ガッボー クレース アナヌギッドー  諸々の感官が静まり、聡明で、
Santindriyo ca nipako ca Appa-gabbho kulesu ananu giddho 高ぶることなく、諸々の(ひとの)家で貪ることがない
ナチャ クッダン サマーチャレー キンチ イェーナ ウィンニュー パレ- ウパワディユン他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、 
Naca khuddham samâcare kinci Yena viññû pare upava-deyyum   決してしてはならない。

スキノー ワー ケーミノー ホントゥー サッベー サッター バワントゥ スキタッター  一切の生きとし生けるものは、
Sukhino vâ khemino hontu Sabbe sattâ bhavantu sukhi-tattâ     幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ
イェーケーチ パーナ ブータッティ タサーワー ターワラー ワー アナワセーサー いかなる生物生類であっても、
Ye keci pâna bhû-tatthi Tasâvâ thâvarâ vâ anava sesâ      怯えているものでも強剛なものでも悉く、
           
ディーガー ワー イェー マハンター ワー マッジマー ラッサカーヌカ トゥーラー長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、
Dighâ vâ ye mahantâ vâ Majjhimâ-rassa-kânuka thûlâ    短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、
ディッターワー イェーワアッディッター イェーチャ ドゥーレー ワサンティ アヴィドゥーレー目に見えるものでも、見えないものでも、
Ditthâ vâ yeva additthâ  Ye ca dûre vasanti avidûre     遠くに住むものでも、近くに住むものでも、

ブーターワー サンバウェースィーワー サッベーサッター バワントゥスキタッターすでに生まれたものでも、これから生まれようと
Bhûtâ vâ sambhavesi vâ Sabbe sattâ bhavantu sukhi-tattâ 欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。
ナ パロー パラン ニクッベーター ナーティ マンニェータ カッタチナン カンチ何びとも他人を欺いてはならない。
Na  paro param nikubbetha Nâti-mannêtha katthaci nam kanciたといどこにあっても他人を軽んじてはならない。

ビャーローサナー パティガ サンニャー ナーンニャマンニャッサ ドゥッカ ミッチェッヤ 悩まそうとして怒りの想いをいだいて
Byâro-sanâ patigha-saññâ  Nâññâ-maññassa dukkha-miccheyya  互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない
マーター ヤターニヤン プッタン アーユサー エーカ プッタ マヌラッケーあたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように
Mâtâ yathâ niyam puttam Âyusâ eka-putta- manu rakkhe  そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、 

エーワンピ サッバ ブーテース マーナサン バーワイェー アパリマーナン    無量の(慈しみの)こころを起すべし。
Evampi sabba bhûtesu  Mânasam-bhâvaye apari-mânam 
メッタンチャ サッバ ローカスミン マーナサン バーワイェー アパリマーナンまた全世界に対して無量の慈しみの心を起すべし。
Mettañca sabba lôkasmin Manasam-bhâvaye apari-mânam

ウッダン アドーチャ ティリヤン チャ アサンバーダン アベーラン アサパッタン   上に、下に、また横に、
Uddham adhô ca tiriyanca  Asam-bâdham averam asa-pattam 障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。
 
ティッタン チャラン ニスィンノーワー サヤーノーワー ヤーワタッサ ヴィガタミッドー立ちつつも、歩みつつも、
Tittham caram nisinno vâ Sayâno vâ yâva tassa vigata middho 坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、   
エータン サティン アディッテェッヤ ブラフマメータン ヴィハーラン イダマーフ この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。
Etam satim adhitthheyya Brahma metam viharam idha-mâhu   この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。
ディッティンチャ アヌパガンマ  スィーラワー ダッサネーナ  サンパンノー   諸々の邪まな見解にとらわれず、
Ditthiñca anupa gamma sîlavâ Dassa-nena sampanno       戒を保ち、見るはたらきを具えて、
カーメース ヴィネッヤ ゲーダン ナヒジャートゥ ガッバ セッヤン プナレーティー ティ諸々の欲望に関する貪りを除いた人は
Kâmesu vineyya gedham  Nahi jâtu gabbha seyyam punaretî ti  決して再び母胎に宿ることがないであろう。


○ 廻向

エタヴァタッチャ アンメーヒ サンバダン  プンニャ サンパダン
Ettavata ca amhehi Sambhatam punna sampadam    私達の積んだ功徳をすべてのデーヴァたちに廻向します  
サッベ デーヴァ アヌモダントゥ サッバ  サンパティ スィディヤ
Sabbe deva anumodantu  Sabba sampatti siddhiya   幸せでありますように

エタヴァタッチャ アンメーヒ サンバダン  プンニャ サンパダン
Ettavata ca amhehi Sambhatam punna ampadam   私達の積んだ功徳をすべての(餓鬼を含む)生き物たちに廻向します   
サッベ  ブータ アヌモダントゥ サッバ  サンパティ スィディヤ
Sabbe bhuta anumodantu Sabba sampatti siddhiya   幸せでありますように

エタヴァタッチャ アンメーヒ サンバダン  プンニャ サンパダン
Ettavata ca amhehi Sambhatam punna sampadam    私達の積んだ功徳をすべての衆生に廻向します
サッベ  サッタ アヌモダントゥ サッバ  サンパティ スィディヤ
Sabbe satta anumodantu Sabba sampatti siddhiya    幸せでありますように

Sadhu!  Sadhu!  Sadhu!

2015年7月12日 (日)

オバサ・セヤドー9月経典学習会のお知らせ

次回の学習会は、9月13日(日)に開催予定です。
8月は、セヤドーがミャンマーへ帰られるのでお休みです。

9月13日(日)13:00~17:00 

中板橋MCWA事務所(地図参照)
住所 板橋区仲町39-1 電話03-3973-3348 
東武東上線中板橋駅より徒歩5分

Mcwamap


予定

13:00より瞑想、休憩
14:00よりセヤドーの解説
16:00より質疑応答
17:00終了

参加費無料
予約の必要はありません

テキスト:「初転法輪経」(Dhammacakkapavattana sutta)

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Dhammacakkappavattana­sutta  初転法輪経(ウ・ウェープッラ長老 訳)

Ekaṃ samayaṃ bhagavā bārāṇasiyaṃ viharati isipatane miga·dāye. Tatra kho bhagavā pañca·vaggiye bhikkhū āmantesi:

私はこのように聞きました。
 ある時、世尊は、ベナレスの昔仙人が降りて来た所であると伝えられた鹿野園に住んでおられました。そこで世尊は五人の比丘に説かれました。

Dve·me, bhikkhave, antā pabbajitena na sevitabbā. Katame dve? Yo c·āyaṃ kāmesu kāma·sukh·allik·ānuyogo hīno gammo pothujjaniko an·ariyo an·attha·saṃhito, yo c·āyaṃ attakilamath·ānuyogo dukkho an·ariyo an·attha·saṃhito. Ete kho, bhikkhave, ubho ante an·upagamma majjhimā paṭipadā tathāgatena abhisambuddhā cakkhu·karaṇī ñāṇa·karaṇī upasamāya abhiññāya sambodhāya nibbānāya saṃvattati.

 比丘たちよ、これら二つの極端は出家者のなすべきことではない。二つの極端とは何であるか、(五)欲における卑俗な・在俗の・凡俗な・聖者の行なうものでない・利益を伴わない娯楽に執着し耽ること、及び苦しい・聖者の行なうものでない・利益を伴わない肉体を苦しめる苦行に努めることである。
比丘たちよ、如来はこれら二つの極端に従わず。中道をよく覚られた。
(この中道は智慧の)眼を生じさせ・智慧を生じさせるもので、寂滅・勝智・正覚・涅槃に導くものである。

‘Katamā ca sā, bhikkhave, majjhimā paṭipadā tathāgatena abhisambuddhā cakkhu·karaṇī ñāṇa·karaṇī upasamāya abhiññāya sambodhāya nibbānāya saṃvattati? Ayam·eva ariyo aṭṭhaṅgiko maggo, seyyathidaṃ: sammā·diṭṭhi sammā·saṅkappo sammā·vācā sammā·kammanto sammā·ājīvo sammā·vāyāmo sammā·sati sammā·samādhi. Ayaṃ kho sā, bhikkhave, majjhimā paṭipadā tathāgatena abhisambuddhā cakkhu·karaṇī ñāṇa·karaṇī upasamāya abhiññāya sambodhāya nibbānāya saṃvattati.

如来によってよく覚られたかの中道―――(智慧の)眼を生じさせ。智慧を生じさせ、寂滅・勝智・正覚・涅槃に導びくものである―――とは何であるか。                
それは八つの聖なる道である。即ち正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。
 比丘たちよ。これが如来によってよく覚られた中道であって(それは)眼を生じさせ。寂滅・勝智・正覚・涅槃に導く。

Idaṃ kho pana, bhikkhave, dukkhaṃ ariya·saccaṃ: jāti·pi dukkhā, jarā·pi dukkhā (byādhi·pi dukkho) maraṇam·pi dukkhaṃ, a·p·piyehi sampayogo dukkho, piyehi vippayogo dukkho, yampicchaṃ na labhati tam·pi dukkhaṃ; saṃkhittena pañc·upādāna·k·khandhā dukkhā.

 比丘たちよ。これが苦の聖なる真理である。生も苦である、老も苦である、病も苦である、死も苦である、心配・悲泣・苦しみ・憂い・苦悩も苦である、嫌いなものと結ばれるのも苦である、愛するものと結ばれないのも苦である、求めて得られないのも苦である。要するに五つの固執される集まり(五固執蘊)は苦である。

Idaṃ kho pana, bhikkhave, dukkha·samudayaṃ ariya·saccaṃ: Y·āyaṃ taṇhā ponobbhavikā nandi·rāga·sahagatā tatra·tatr·ābhinandinī, seyyathidaṃ: kāma·taṇhā, bhava·taṇhā, vibhava·taṇhā.

 比丘たちよ。これが苦因の聖なる真理である。これは再生を起こし・歓楽愛着を伴い・ここかしこで歓楽する渇愛である。この渇愛とは何であるか。五欲への渇愛・(常見を伴う)存在への渇愛・(断見を伴なう)虚無への渇愛である。

Idaṃ kho pana, bhikkhave, dukkha·nirodhaṃ ariya·saccaṃ: yo tassā·y·eva taṇhāya asesa·virāga·nirodho cāgo paṭinissaggo mutti anālayo.

比丘たちよ、これが苦滅の聖なる真理である。これはかの渇愛の完全な離貪・滅・捨棄・捨離・解放・無執着である。

Idaṃ kho pana, bhikkhave, dukkha·nirodha·gāminī paṭipadā ariya·saccaṃ: ayam·eva ariyo aṭṭhaṅgiko maggo, seyyathidaṃ: sammā·diṭṭhi sammā·saṅkappo sammā·vācā sammā·kammanto sammā·ājīvo sammā·vāyāmo sammā·sati sammā·samādhi.

比丘たちよ、これが苦滅に到る道の聖なる真理である。これは八つの聖なる道である。即ち、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定てある。

‘Idaṃ dukkhaṃ ariyasacca’ nti: me, bhikkhave, pubbe an·anussutesu dhammesu cakkhuṃ udapādi, ñāṇaṃ udapādi, paññā udapādi, vijjā udapādi, āloko udapādi. ‘Taṃ kho pan·idaṃ dukkhaṃ ariyasaccaṃ pariññeyya’ nti: me, bhikkhave, pubbe an·anussutesu dhammesu cakkhuṃ udapādi, ñāṇaṃ udapādi, paññā udapādi, vijjā udapādi, āloko udapādi. ‘Taṃ kho pan·idaṃ dukkhaṃ ariyasaccaṃ pariññāta’ nti: me, bhikkhave, pubbe an·anussutesu dhammesu cakkhuṃ udapādi, ñāṇaṃ udapādi, paññā udapādi, vijjā udapādi, āloko udapādi.

 比丘たちよ。「これが苦の聖なる真理である」と以前には聞いたことのない諸法において私に(智慧の)眼が生じ、智が生じ、慧が生じ、明が生じ、光明が生じたのである。
 比丘たちよ、「その苦の聖なる真理は遍知されねばならない」と以前には聞いたことのない諸法において私に(智慧の)眼が生じ、智が生じ、慧が生じ、明が生じ、光明が生じたのである。
 比丘たちよ、「その苦の聖なる真理は遍知された」と以前には聞いたことのない諸法において私に(智慧の)眼が生じ.智が生じ、慧が生じ、明か生じ、光明が生じたのである。
 
‘Idaṃ dukkha·samudayaṃ ariyasacca’ nti: me, bhikkhave, pubbe an·anussutesu dhammesu cakkhuṃ udapādi, ñāṇaṃ udapādi, paññā udapādi, vijjā udapādi, āloko udapādi. ‘Taṃ kho pan·idaṃ dukkha·samudayaṃ ariyasaccaṃ pahātabba’ nti: me, bhikkhave, pubbe an·anussutesu dhammesu cakkhuṃ udapādi, ñāṇaṃ udapādi, paññā udapādi, vijjā udapādi, āloko udapādi. ‘Taṃ kho pan·idaṃ dukkha·samudayaṃ ariyasaccaṃ pahīna’ nti: me, bhikkhave, pubbe an·anussutesu dhammesu cakkhuṃ udapādi, ñāṇaṃ udapādi, paññā udapādi, vijjā udapādi, āloko udapādi.

比丘たちよ、「これが苦因の聖なる真理である」と以前には聞いたことのない諸法において、私に(智慧の)眼が生じ、智が生じ、慧が生じ、明か生じ、光明が生じたのである。
比丘たちよ、「その苦因の聖なる真理は捨断せらるべきである」と以前には聞いたことのない諸法において、私に(智慧の)眼が生じ、知が生じ、慧が生じ、明か生じ、光明が生じたのである。
 比丘たちよ、「その苦因の聖なる真理は捨断された」と以前には聞いたことのない諸法において、私に(智慧の)眼が生じ、智が生じ、慧が生じ、明か生じ、光明が生じたのである。

‘Idaṃ dukkha·nirodhaṃ ariyasacca’ nti: me, bhikkhave, pubbe an·anussutesu dhammesu cakkhuṃ udapādi, ñāṇaṃ udapādi, paññā udapādi, vijjā udapādi, āloko udapādi. ‘Taṃ kho pan·idaṃ dukkha·nirodhaṃ ariyasaccaṃ sacchikātabba’ nti: me, bhikkhave, pubbe an·anussutesu dhammesu cakkhuṃ udapādi, ñāṇaṃ udapādi, paññā udapādi, vijjā udapādi, āloko udapādi. ‘Taṃ kho pan·idaṃ dukkha·nirodhaṃ ariyasaccaṃ sacchikata’ nti: me, bhikkhave, pubbe an·anussutesu dhammesu cakkhuṃ udapādi, ñāṇaṃ udapādi, paññā udapādi, vijjā udapādi, āloko udapādi.

比丘たちよ、「これが苦滅の聖なる真理である」と以前には聞いたことのない諸法において、私に(智慧の)眼が生じ、智が生じ、慧が生じ.明が生じ、光明が生じたのである。
 比丘たちよ、「その苦滅の聖なる真理は覚らるべきである」と以前には聞いたことのない諸法において、私に(智慧の)眼が生じ、智が生じ.慧が生じ.明か生じ、光明が生じたのである。
 比丘たちよ.「その苦滅の聖なる真理は覚られた」と以前には聞いたことのない諸法において.私に(智慧の)眼が生じ、智が生じ、慧が生じ、明か生じ.光明が生じたのである。

‘Idaṃ dukkha·nirodha·gāminī paṭipadā ariyasacca’ nti: me, bhikkhave, pubbe an·anussutesu dhammesu cakkhuṃ udapādi, ñāṇaṃ udapādi, paññā udapādi, vijjā udapādi, āloko udapādi. ‘Taṃ kho pan·idaṃ dukkha·nirodha·gāminī paṭipadā ariyasaccaṃ bhāvetabba’ nti: me, bhikkhave, pubbe an·anussutesu dhammesu cakkhuṃ udapādi, ñāṇaṃ udapādi, paññā udapādi, vijjā udapādi, āloko udapādi. ‘Taṃ kho pan·idaṃ dukkha·nirodha·gāminī paṭipadā ariyasaccaṃ bhāvita’ nti: me, bhikkhave, pubbe an·anussutesu dhammesu cakkhuṃ udapādi, ñāṇaṃ udapādi, paññā udapādi, vijjā udapādi, āloko udapādi.

比丘たちよ、「これが苦滅に到る道の聖なる真理である」と以前には聞いたことのない諸法において.私に(智慧の)限が生じ、智が生じ、慧が生じ、明か生じ、光明が生じたのである。
 比丘たちよ、「その苦滅に到る道の聖なる真理は修習されねばならない」と以前には聞いたことのない諸法において、私に(智慧の)眼が生じ、智が生じ、慧が生じ、明が生じ.光明が生じたのである。
 比丘たちよ、「その苦滅に到る道の聖なる真理は修習された」と以前には問いたことのない諸法において。私に(智慧の)眼が生じ、智が生じ、慧が生じ、明か生じ、光明が生じたのである。

Yāvakīvañ·ca me, bhikkhave, imesu catūsu ariyasaccesu evaṃ ti·parivaṭṭaṃ dvādas·ākāraṃ yathā·bhūtaṃ ñāṇa·dassanaṃ na su·visuddhaṃ ahosi, neva tāv·āhaṃ, bhikkhave, sa·deva·ke loke sa·māra·ke sa·brahma·ke sa·s·samaṇa·brāhmaṇiyā pajāya sa·deva·manussāya anuttaraṃ sammā·sambodhiṃ abhisambuddho paccaññāsiṃ.

Yato ca kho me, bhikkhave, imesu catūsu ariyasaccesu evaṃ ti·parivaṭṭaṃ dvādas·ākāraṃ yathā·bhūtaṃ ñāṇa-dassanaṃ su·visuddhaṃ ahosi, ath·āhaṃ, bhikkhave, sa·deva·ke loke sa·māra·ke sa·brahma·ke sa·s·samaṇa·brāhmaṇiyā pajāya sa·deva·manussāya anuttaraṃ sammā·sambodhiṃ abhisambuddho paccaññāsiṃ. Ñāṇa·ñca pana me dassanaṃ udapādi: ‘akuppā me vimutti, ayam·antimā jāti, natth·idāni puna·b·bhavo’ ti.

比丘たちよ、これら四つの聖なる真理において、このように三転十二行相のあるがままの智見が、私に清浄とならなかった間は、比丘たちよ、天・魔・梵天と倶なる(天の)世界、沙門・婆羅門・王・人々の人間界において、私は無上の正自覚をよく覚ったとは自称しなかった。
 比丘たちよ、これら四つの聖なる真理において、このように三転十二行相のあるがままの智見が、私に清浄となったのであるから、比丘たちよ、天・魔・梵天と倶なる天の世界、沙門・婆羅門・王・人々の人間界において、私は「無上の正自覚(の阿羅漢道智)をよく覚った」と自称したのである。
 私の(阿羅漢果の)解脱は壊れることはない、これが最後の生であり、今や再び生を享けることはないとの智見が私に生じた。

Idam·avoca bhagavā. Attamanā pañca·vaggiyā bhikkhū bhagavato bhāsitaṃ abhinandunti. Imasmi·ñca pana veyyākaraṇasmiṃ bhaññamāne āyasmato koṇḍaññassa virajaṃ vītamalaṃ dhamma·cakkhuṃ udapādi: 'yaṃ kiñci samudaya·dhammaṃ, sabbaṃ taṃ nirodha·dhamma' nti.

 世尊はこれを説かれました。満足した五比丘は世尊の教説を心から喜んで受けました。
  この教説が説かれているうちに、尊者コンダンニャ(憍陳如)に「生ずるものはすべて滅するものである」との遠塵(埃のない)離垢(汚れのない)の法眼が生じたのでした。

Pavattite ca pana bhagavatā dhamma·cakke bhummā devā saddam·anussāvesuṃ: 'etaṃ bhagavatā bārāṇasiyaṃ isipatane miga·dāye anuttaraṃ dhamma·cakkaṃ pavattitaṃ appaṭivattiyaṃ samaṇena vā brāhmaṇena vā devena vā mārena vā brahmunā vā kenaci vā lokasmin·ti.

世尊によって法輪が転じられた時。地の神々は、「世において沙門、婆羅門、神、魔、梵天のなにものによっても、逆転され得ない無上の法輪が、世尊によってベナレスの(昔、仙人が降りて来た所であると伝えられた)鹿野園において転じられた」と(一斉に讃嘆の)声を発しました。

Bhummānaṃ devānaṃ saddaṃ sutvā cātumahārājikā devā saddam·anussāvesuṃ: 'etaṃ bhagavatā bārāṇasiyaṃ isipatane miga·dāye anuttaraṃ dhamma·cakkaṃ pavattitaṃ appaṭivattiyaṃ samaṇena vā brāhmaṇena vā devena vā mārena vā brahmunā vā kenaci vā lokasmin·ti.

四天王の神々は地の神々の(讃嘆の)声を聞いて、「世において沙門、あるいは婆羅門、あるいは神、あるいは魔、あるいは梵天のなにものによっても逆転され得ない無上の法輪が、世尊によってベナレスの(昔、仙人が降りて来た所であると伝えられた)鹿野園において転じられた」と(一斉に讃嘆の)声を発しました。

Cātumahārājikānaṃ devānaṃ saddaṃ sutvā tāvatiṃsā devā saddam·anussāvesuṃ:

三十三天の神々は四王天の神々の(讃嘆の)声を聞いて「世において……略。

Tāvatiṃsānaṃ devānaṃ saddaṃ sutvā yāmā devā saddam·anussāvesuṃ:

夜摩天の神々は三十三天の神々の(讃嘆の)声を聞いて、「世において……略。

Yāmānaṃ devānaṃ saddaṃ sutvā tusitā devā saddam·anussāvesuṃ:

都率天の神々は夜摩天の神々の(讃嘆の)声を聞いて「世において……略。

Tusitānaṃ devānaṃ saddaṃ sutvā nimmānaratī devā saddam·anussāvesuṃ:

楽変化天の神々は都率天の神々の(讃嘆の)声を闘いて「世において……略。

Nimmānaratīnaṃ devānaṃ saddaṃ sutvā paranimmitavasavattī devā saddam·anussāvesuṃ:

他化自在天の神々は楽変化天の神々の(讃嘆の)声を聞いて「世において……略.

Paranimmitavasavattīnaṃ devānaṃ saddaṃ sutvā brahmakāyikā devā saddam·anussāvesuṃ: 'etaṃ bhagavatā bārāṇasiyaṃ isipatane miga·dāye anuttaraṃ dhamma·cakkaṃ pavattitaṃ appaṭivattiyaṃ samaṇena vā brāhmaṇena vā devena vā mārena vā brahmunā vā kenaci vā lokasmin·ti.

梵天界の神々は他化自在天の神々の(讃嘆の)声を聞いて「世において沙門、あるいは婆羅門、あるいは神、あるいは魔、あるいは梵天のなにものによっても逆転され得ない無上の法輪が世尊によって、ベナレスの(昔、仙人が降りて来た所であると伝えられた)鹿野園において転じられた」と(一斉に讃嘆の)声を発しました。

Iti·ha tena khaṇena tena muhuttena yāva brahma·lokā saddo abbhuggacchi. Aya·ñca dasasahassi·loka·dhātu saṅkampi sampakampi sampavedhi, appamāṇo ca uḷāro obhāso loke pāturahosi atikkamma devānaṃ dev·ānubhāva' nti.

このようにその刹那、その頃刻、その須臾の間に(讃嘆の)声は(梵衆天から色究竟天の)梵天界まで達しました。またこの一万の世界も震い、揺れ、震動し、また無量広大の光明が神々の威力を越えて世に現われたのでした。

Atha kho bhagavā imaṃ udānaṃ udānesi: ‘aññāsi vata, bho, koṇḍañño, aññāsi vata, bho, koṇḍañño’ ti! Iti hidaṃ āyasmato koṇḍaññassa ‘aññāsi·koṇḍañño’ tv·eva nāmaṃ ahosīti.

その時、世尊は「おお、コンダンニャは覚った、おお、コンダンニャは覚った」と感嘆の声を発せられました。このことによって尊者コンダンニャの名前はアンニャーシコンダンニャ(コンダンニャは覚った=阿若憍陳如)となったのでした。


「その時、尊者アンニャーシコンダンニャは師の教えにおいて法を見、法に達し、法を知り、法に悟入し、疑惑を越え、疑念が消失し、無畏(絶対の自信)に達し、師の教えを措いて他によることなく、「世尊よ、私は世尊の御許において出家をしたい。具足戒を得たい」と世尊に申し上げました。世尊は「さあ、来るがよい、比丘よ。法はよく説かれた。苦を滅尽するためによく梵行を行ぜよ」と言われました。これがその尊者の受具足戒でありました。」

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2012/8 宝台樹高原

  • 6
    8月に合宿の行われたみなかみ町藤原は宝台樹山のふもとにあり、冬はスキー場になる高原風ののどかな村です。

2009年クムダ・セヤドーのお寺 

  • 10 セヤドーのお話を聞く
    ミャンマー・ヤンゴン市郊外モービにあるクムダ・セヤドーの瞑想センターを訪ねた方が写真を送ってくださいました。 シーマホールも完成し、そこには富士山をバックにした仏像がまつられています。

2008/8 水上合宿

  • 雨上がり
    8月に合宿の行われた水上町藤原はまさに水の里。民宿周辺の風景をお届けします。

2008 夏の風景

  • 朝霧の沢
    夏の暑い日、川の源流では入道雲が湧き、山や木々は様々な表情を見せていました。

2008/7 関西合宿・瞑想会

  • 延命寺三門にて
    大阪、河内長野市にある延命寺は弘法大師空海が開基と伝えられ、市の紅葉名所にもなっている美しいお寺です。 ここで7月、クムダ・セヤドーをお招きして一週間の瞑想合宿が開かれました。
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