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2011年4月

2011年4月 8日 (金)

サヤレー法話 「波羅蜜(はらみつ)について」

 10の波羅蜜(はらみつ) 
今晩は波羅蜜(はらみつ)についてのお話をしたいと思います。波羅蜜というものは瞑想にとって大変重要なのですが、それは過去、そして今世において積み重ねてきたものがカルマとして、波羅蜜となって瞑想を助けるからです。ブッダもまたその前の菩薩のとき、過去世において、非常に長い間10の波羅蜜(パーラミー)を積んできました。

 波羅蜜には10の種類があります。
第一にダーナ、お布施の波羅蜜です。
二番目は戒。戒律を守るという持戒の波羅蜜です。
三番目はネッカンマと言って、離欲、欲を離れる、世間的なものを離れて森の中に入って行くと云う意味です。
四番目は智慧の波羅蜜です。
五番目は精進、努力の波羅蜜です。
六番目はカンティーと言いまして、忍耐です。
七番目はメッタ、慈しみの波羅蜜です。
八番目は真理の波羅蜜。真実を語るという意味の波羅蜜。
九番目は決定、ディタミネーション。パーリ語ではアディッターナと言いますけれども、心で決定して、決意すると言う波羅蜜です。
十番目はウペッカーです。日本語にすると「捨」と言います。

 ブッダもその弟子たちもこの10の波羅蜜を一生懸命積んでいたのですが、弟子たちは一段階目の波羅蜜を積んでいる。もっと上の波羅蜜、第二段階、第三段階という三つの波羅蜜が有って、それらはなかなか大変な波羅蜜です。最初のダーナ、布施について例を言いますと、一般的な人は自分の持っているものをお布施すると言うことをします。これが一段階目の布施です。それで、布施についての第二段階というのは、たとえば奥さんを下さいとか、旦那さんを下さいとか、家族を下さいとか言われたり、あるいはあなたの眼とか、体の器官を下さいと言われた時に、亡くなってから上げるということは出来るのですが、その時に与えるという布施が第二段階のダーナです。

 誰かにあなたの奥さんを頂きたいと言われた時、簡単にあげられますか?出来る人は手をあげてください。誰かにあなたの命がほしいと言われた時に、菩薩はすぐに自分を差し出すことをしました。こんなふうに三つの段階が有って、例えば八戒とか十戒にしても、一般の人はちょっと調子が悪かったりすると、それを破ったりしますが、菩薩の場合は死んでもそれを守りました。 

三番目の離慾について言うと、例えばたった七日間でも家を離れて、ここに来て瞑想しているというのも離慾の一つです。わずか七日間、家を離れていることですが、退屈になってきて家へ帰りたいとか、そんな気持ちが起ったりします。第二段階の離慾というのはサヤレーのように頭を剃って出家するということです。第三段階というのはブッダのように強い決意をもってやるという事です。誰かに還俗しなさいと迫られても、殺されても還俗しないというしっかりした決意を持つという事です。

 この10の波羅蜜のうち、最後に来るのが智慧です。その前の九つの波羅蜜というのは、この智慧の波羅蜜を高めるために有るようなものです。例えば精進ですと、第一段階のレベルの人はこうして瞑想して努力するのですが、そのうち足が痛くなってきて、足が壊れてしまうのではないか、もう帰ってしまおうかと言うふうに簡単に努力が壊れてしまう、そういうレベルのものです。
どうですか。それは事実ではないですか?(笑い)

 そして、第二段階の精進と言うのは、足が壊れても、そんなことは気にしないという位の決意です。一時間半というのはそんなに長い時間ではないから、その時間は動かないで坐っている。第三段階の精進というのは、たとえば瞑想してジャーナに到達しないうちは絶対部屋に戻らないとか、一晩中瞑想しているということです。例えばブッダの場合は、悟りを開くまではここを絶対立たないとか、阿羅漢になるまでずっと瞑想しているとか、そういう非常に固い決意というのが第三段階の精進です。

 そのようにして他の波羅蜜についても三つのレベルが有ります。 瞑想を始めて最初の日は眠くなったりとか、あるいはいろいろな考えが浮かんできたりという事が起りますが、それに対して努力でもって、乗り越えていく。それで努力と呼吸に対するマインドフルネス、サティ(気付き)をもってそれを越えて行くようにします。一日目からリラックスしようと思っていると眠気が出て来るので、最初の時は努力(精進)が必要だと言う事です。

 朝、サヤレーは瞑想している時みなさんを見ていました。今日は皆さん一生懸命瞑想して、寝ている人は居ませんでした。Very good!
皆さんは思考とか妄想にどれだけ悩まされているのかというのをチェックしています。サヤレーがチェックするときには顔を見ます。顔を見ていると、その顔に怒っている、あるいは笑っている表情があります。笑っている時は、本当に瞑想がうまくいって微笑している時と、昔のことを思い出して、ニコニコしている時があって、顔を見ればそれは良くわかります。
 ディターミネーション(決意)ということが非常に大事で、時間はそんなに沢山有るわけではないから、時間を無駄にできないと思って、いつも呼吸に集中することを思い出すようにします。呼吸に気付いている事を決意するのが大事です。

慈しみの心 
私たちの心はバランスが大切で、もう少し慈しみの心を持つようにしなければいけません。瞑想している時、その対象である呼吸を見ているのですが、その時に幸福な感覚が有ればとても集中が良いし、幸福な気持ちがないと集中するのが大変難しくなります。退屈になってきます。ですから、メッタ(慈しみ)の心が有るということがとても大事になります。慈しみというのはこの10の波羅蜜にも入っている一つで、これは毎日訓練して作り出すようにすべきものです。例えば怒りとか、迷妄とか無知の心が出てきたらすぐに慈しみで乗り越えて行くというように日々訓練していくことが大事です。

 そういうふうに慈しみの心が有ると皆さんの心は、柔らかく、平安があるので、それが瞑想のサポートになるわけです。家でいかにして慈しみを養うかという事が、たいへん重要です。では、家でいかにして慈しみを育てるかというと、朝早く起きて10分あるいは20分でも、まず自分に対して慈しみの瞑想をして、次に家族に対して、特に一番親しい人に向けて、四つの言葉を唱えます。「○○に災いが有りませんように」、「○○の心に苦しみが有りませんように」、「○○の体に苦しみが有りませんように」、「○○は健やかで幸せでありますように」という言葉を家族のメンバーに送ります。そうすると容易に慈しみの心が湧いてくると思います。

 慈しみの心というのはインテンション(意志)ですね、意志によって湧いてくる力です。それから仕事に行ってオフィスに行きます。仲間と仕事をしますが、仲間に対しても慈悲の心を送ります。それで、瞑想だけでなく実際に慈悲を実践することが大事で、例えば朝、家族のメンバーと会った時、心から親切な気持ちを持って話しかけたり、悩みが有ったらそれをみんなで聞いて、お互いにシェアしたり、あるいはお互いに褒めあったりとか、そういう事が大切です。

 例えば朝、奥さんが台所でたいへん忙しい時には、「ちょっと手伝おうか?」と言うのが慈悲の心で、「それは私の仕事ではないから知りません」と言っていると、良い結果にはなりません。仕事場において同僚と仕事をする時には、忍耐が大事で、人によっていろいろな見方とか考え方、感じ方が違うわけですから、自分の考え方、見方が一番正しいと思わないことです。他の人がいろいろなことを言ったり、感じたりして自分とは違っていても、それは人によって違うという風に見る忍耐の力が必要です。

 なぜかと言うと、私たちにはいつも完全でありたいと思う心が有って、それが時としていろいろな問題を起こします。そんな風にして他人と自分との関係というのは緊張をともなったりします。お互いに完全を求めるために緊張を伴います。それに対して許すという事が大事で、「結局、他人は自分を満足させてくれるわけではない」と思って、他の人たちを許すという事が大切です。ですから慈しみの心を育てる時に忍耐と、許す事、この二つがたいへん重要な事になります。

 忍耐と許しの心が有れば怒りを乗り越えていく事が出来ます。慈しみの心を基礎にして、コンパッション(悲)、つまり苦しんでいる人に対する共感というものが育ってきます。コンパッションについてですが、苦しんでいる人を実際に見たとき、たとえばホームレスの人とか、何も食べるものが無くて物乞いをしている人たちを見たとき、自分の心にどういう感情、気持が起って来ているかという事をチェックします。
 皆さん、自分の中にそういう慈しみの心とか苦しみに対する共感の心が起っているのか、それとも、「関係ないからあっちへ行ってくれ」という気持ちを持っているのか、どうでしょうか?どちらが善いでしょうか?

 ですからメッタ(慈しみ)の心と苦しんでいる人に対する共感の心(コンパッション)とウペッカー(捨)の心が大事で、そういう心を持っていないと、いつか自分がそういう貧しい立場になったりします。慈しみの心を持って接する事によって、自分自身を育てていくことができます。

 慈しみの心を与える時には、与えるだけで返ってくるということを期待しません。ただあげるだけという気持ちでします。ミャンマーでは、よくお布施をするのですが、お布施をすると、良いカルマが帰ってくるというふうに期待してやっています。お布施にも、色々なレベルがあって、たとえば阿羅漢といわれる人にお布施をすると、もっと高いカルマを積むことができる。そういうレベルも色々あります。僧院とかには、皆お布施をするのですが、尼さんのところにはあまり来ません。

 貧しい人たちも、僧院などに一生懸命お布施をして、心による良いカルマを積んでいます。(僧院にお布施すると、高いレベルのカルマをつむことができるが、貧しい人にお布施してもそんなに高いカルマは望めないから、僧院に布施する人が多い)。それがミャンマーの伝統的な考え方だそうです。サヤレーも、小さい時は伝統に従って、僧院に一生懸命お布施をしていたそうです。

 サヤレーの体験で、ヤンゴンからモーラミャイン(パオの本部がある)へ行く夜行バスに乗ると、途中数箇所に停まります。そこで、子ども達が物を売りに来る。たとえば夜中の1時とかに、子供達が来て物を売る。ところがなかなか買う人がいない。その子どもたちは非常に家が貧しくて、そこでバスのお客に物を売って、生活の糧を得ようとしているのですが、なかなか売れない。そういうのを見ていて、サヤレーは子どもたちにお布施するそうです。

 そうすると、子どもたちも喜ぶし、親たちも嬉しく思う。これは、僧院にお布施をするのとは違うが、そうすることによって、自分の心が幸福になるということでやっています。僧院にお布施すると立派な建物が建ったりする。僧院の建物ができると、瞑想する人が利益を受ける。それはひとつのお布施の功徳となっています。それに比べて、子ども達にあげても何か建物ができるわけではないが、心が幸せになる。そういうのがあって、あげています。

 見返りを求めるお布施は、時には怒りを生じる。これだけ上げたのに、何も返ってこないではないかというような形になるので、お布施は、ただ上げるだけにします。お布施をするときには、心をこめて、幸福な気持ですることが大切です。家族のメンバーに対しても親切な心を持って接することが大事で、そうすることによって、色々な問題は解決していく。たとえば、職場においても、そういうメッタの心で接することで、人間関係が良くなる。これは、人間関係をくっつける糊のようなもので、そういう役割をします。

 例えば、サヤレーが6つぐらいの時、家で砂糖をおいておくと、蟻が砂糖を食べにくる。蟻に砂糖をお布施してあげて、とても幸福な気持になる。でも、お母さんは汚れるから好きではなかったそうです。ほんの小さなお布施ですけれど、その時の気持、インテンション(意志)が大切です。すべてに対して、こういうことをすることが大事で、例えば、友達に対して、いろいろなものを分け与える。たとえ小さなビスケットであっても、分け与えて、慈しみの心でシェアする。もらった人も、感謝の気持ちを持って応えるということがとても大切です。

 そういう風にして毎日毎日、心において、言葉において、行動において、慈しみを実践していくことが大事で、毎日毎日やっていくことで、心が柔らかくなって、穏やかになり、怒りが出てきた時に、それを乗り越えることができるようになります。それで慈しみの波羅密を積んでいくことが出来ます。そうしてメッタ(慈しみ)の力を非常に力強くすることができるようになります。これは、たとえばバッテリー電池のようなもので、電池があっても中が空っぽだと、光が付かないように、バッテリーに中身を入れる必要があります。毎日、こんなふうにして慈しみの心を訓練していくと、何かが起こった時に、それが充電されていて、すぐに応えることが出来るようになります。

ライオンの息子の話  
これは例え話でスリランカでのお話です。昔、ティッサという王様がいました。となりの国は、バングラデッシュですが、そこにも王様がいて、王女をスリランカのお后としてあげたそうです。ところが、スリランカへ行く途中、森のどこかで迷っていなくなってしまった。その森の中で、バングラデッシュの王女は、ライオンと出会い、好きになってしまった。それで、一緒になり一人の子供が出来ました。
 このお父さんライオンが、毎朝餌を探しに外へ出る時に、洞窟の中にいたわけですが、大きな岩で洞窟の入り口をふさぎ、王女と息子が外に出られないようにした。そうして出かけて行きました。それで、食べ物を探して戻ってきて、また石をどけて、中に入りました。

 毎日、出て行く時は石で入り口のところに蓋をして、帰ると開けて入ってきたわけです。その息子というのは、お父さんはライオンなのですが、体は人間の体をしていて、パワーはライオンの力を持っていた。それで息子がだんだん大きくなって行って考えたのは、「何で自分達は人間なのに、こんな檻にいなくてはならないのだろうか」ということで、そこから出たくなった。そのライオンの父と住むのがいやになったということです。
 息子は、非常に力があったので、大きな岩を外に出すことができました。それで、岩をどかして、母親と一緒に森から逃げました。それで、ライオンが戻って来て、誰もいないのに気付き、森中を探し回ったけれども、見つからないので、非常に怒った。その近くに村がありましたが、村に入って行って、探し回ったが、村にもいなかった。それで、村人たちをみんな殺してしまったということです。

 このライオンは、そんなふうにして、村から村へと捜し求めて、その度に、村人を殺すので、村人たちは非常に恐れて、他の村に避難するようになった。それで、村人たちは王様に、「こういうライオンが出て、村人が殺されて危険な目にあっているので、何とかしてほしい」と直訴しました。王様は家臣と色々相談したのですが、ライオンは恐ろしいので、「誰かこのライオンをしとめる者はいないか。もし、ライオンを退治できたら、その人を王様にしよう」という布告を出しました。

 布告を出したのですが、みんなは恐れて来なかった。その中で、独り来たのは、ライオンの息子でした。息子は森の境まで行って、そこにいた自分の父親のライオンと、顔と顔を向き合わせて対面することになりました。そんな風に対面したのですが、父親の方は自分の可愛い息子が現れたので、とても幸福な気持ち、慈しみの気持ちが湧いてきました。ところが、息子の方には怒りの気持があり、ライオンを殺したいという思いがありました。

 息子はライオンに向かって、矢をどんどん射るのですが、ライオンの方は、メッタ(慈しみ)の力が非常に強いので、矢が飛んできても、刺さることはなかった。動物でさえも、慈しみの心があれば、ジャーナ(禅定)に入っていなくても、矢が刺さることは出来ません。最後の一本の矢を放つとき、ライオンの方は、最初慈しみの心を持っていたのですが、「息子は自分を殺そうと思っている」ことがはっきりと分かって、怒りの心が出てきました。怒りの感情に包まれた時に、息子が矢を放った。その矢は、眉間のところに当たって、ライオンは死んでしまいました。
 ですから、たとえ禅定に入らなくても、慈しみの心を持つことはとても大事なことで、自分の家族に対してあるいは、友達に対して、慈しみの心を持つことは非常に大切です。

 ライオンが死んでから、息子は王様になりました。王様になった最初の日に、非常な頭痛に悩まされました。家臣に、「何でこんなに頭が痛いのだろう」と聞いたら、「ライオンをしとめたそのカルマが結果として表れて、頭が痛いのでしょう」と答えました。それで王様は、「カルマで痛いとすれば、それを克服するにはどうすればよいか」とたずねました。家臣は、「ライオンの像を作りなさい。その像にむかって、毎日、許しを請いなさい」と言ったので、そのようにしました。

 そして、ライオンの像の横にパゴタを建てました。王様は、そのライオンの像に許しを請うために毎日拝んでいたのですが、それを国民に見られるのがいやなので、仏像を安置したパゴタを作って、パゴタにいつも礼拝して、それと一緒にライオンの像も拝んでいたわけです。そういう風にして、許しを請うて拝んでいるうちに、彼の頭痛は無くなってきました。そういう逸話があるために、スリランカ・インド・ミャンマーなどでは、パゴタの横にライオンの像があるわけです。

 動物でさえも、慈しみにこれだけの力があるわけですから、まして人間は知恵を持っているから、努力をすれば力はもっと大きなものになります。さらに、ジャーナ(禅定)まで達することができれば、そのことによってまた、慈しみの力は非常に大きなものにすることが出来ます。

 そんなふうに、瞑想する前に5分くらい慈悲の瞑想をすることによって、心が非常に柔らかくなって、穏やかになる。今度は、その穏やかさを呼吸の方に向けることによって、入ってくる呼吸、出て来る呼吸をその心で見るようにします。そうすると瞑想がうまく進むようになります。

 そんなわけで、瞑想する人にとって慈悲の心がとても大事です。今の時代はとても忙しく、いろいろな軋轢とかいざこざが起こります。これはどこの国においてもそういうことがありますが、一生懸命に働いて、働き過ぎになって疲れがたまっているという状態があります。そうなってくると心は幸せではありません。人生は幸せではないと感じるようになります。そういうストレスの多い状況ですが、それでて瞑想をしに来ると今度は瞑想の先生が、「もっとやれ、もっとやれ」と圧力をかけてくる(笑い)。それで人生は苦に満ちていると言うことになります。

 サヤレー がもっとしっかりやりなさいと言うのは、「しっかりと集中力をつけなさい。そうすれば人生はもっと幸せになります」ということを言っているのです。今瞑想をして、例えば家に帰ってきたときに、仕事で疲れていたとしても、ジャーナ(禅定)に入ることができれば、とてもリラックスすることができ、疲れを癒すことができます。

 ですから感覚にと言うのが大事なことです。仕事が忙しくて、疲れているときに、どうして楽しくなれるか分からない。にっこりと笑うことができない。リラックスすることができない。緊張と問題を抱えてしまいます。ですから、私たちは慈しみの心を持つことが大事で、そして心をバランスさせることが大切なわけです。そして呼吸に集中すれば呼吸はとても柔らかくなってきて、そして心もまた柔らかくなってきます。そうすると、そのあとで10分間でも集中することができ、そして容易にニミッタが現れてきます。

 ニミッタはそれほど難しいものではありません。とても容易なものです。ただ私たちの心が難しいだけです。私たちの心はとても複雑で、いつも何かを作り出しています。そして、止まることはありません。欲望に動かされ終わることがありません。ですからコントロールすると言うことが大切なわけで、ジャーナに入ることができるようになればそれはとても簡単にできます。1時間でも2時間でも心がさまよいだすことなしにいることができます。

 一般的に心は一つの対象に長い間、集中することができません。例えばテレビを見て、面白いドラマをやっているときに、1時間でも2時間でもそのドラマに集中することができるでしょう。皆さんどうですか。同じことなのです。興味のある対象には集中することができます。次はどんな風になるのだろう、と言うふうにその結果を知りたくなります。それで見ているのが楽しくなります。興味を持ちます。
 呼吸を見るのは、とても退屈な対象です(笑い)。あまり面白くありません。ですからメッタ(慈しみ)の助けが必要になります。慈しみの心を呼び出すと言うことはとても易しいことです。皆さんどうですか。易しいですか難しいですか。

菩薩が鹿だった時の話
 ここで慈しみに関する一つのお話をしましょう。ブッダが、悟りを開く前に菩薩であった時、多くの過去世がありましたが、森に住む鹿だったことがありました。彼のカルマによってその体は金色をしていました。その鹿には多くの弟子がいました。別の森にもやはり金色をした鹿がいて、多くの弟子を持っていました。
 菩薩はその時の名前をニジョーダといい、別の鹿はサカと言いました。後にデーバダッタになり、ブッダに危害を加えた人です。そこはバラナシという国でしたが、その王様はいつも食事のときに、鹿の肉を食べなければ気がすまない人でした。彼は毎日鹿の肉を食べ.そのために村人に森へ行って鹿を獲らせました。 

 ですから王様が森へ来ると、森にある村の人々は、大変忙しく、自分たちの仕事をすることができませんでした。それで村人たちは、王宮のそばにある公園に鹿を放そうと考えました。そうすれば、森で王様の世話をする必要がないからです。村人たちは二つの鹿の集団を捕まえて王宮の庭に放ちました。そして王様は食用にする鹿を庭でつかまえて料理をしました。それで鹿たちは大変恐れました。

やがて鹿たちはみな殺されることを恐れて、だんだん痩せていってしまいました。鹿たちは「とても恐ろしくてどうしていいかわからない」とニジョーダに相談しました。そして菩薩であるニジョーダと、デーバダッタであるサカは、その事について話し合いました。「弟子の鹿たちはみな恐れて苦しんでいる。そして毎日多くの鹿が殺されている。それなら、弓で射止められて殺されるのではなく、毎日1頭の鹿をこちらで決めて王様の所へ行かせ、食べてもらってはどうだろう。そうすれば毎日殺されることを心配しなくて済むだろう」。それで、今日はニジョーダのグループから、明日はサカのグループからという風に、順番に決めることにしました。王様は、2頭の金色のリーダーの鹿に対しては、殺すことを免除しました。

 ある日、サカの弟子のうち妊娠して臨月にある鹿に、殺される順番の日がやってきました。しかしその雌鹿は、子どもがもうすぐ生まれるので殺されたくありませんでした。そこでサカの所へ相談しに行きました。「今日、私は死にたくありません。いずれ私は子どもが産まれて2頭になるのですから、それまで待って、今日は他の鹿を差し出していただけないでしょうか」。しかしサカは許しませんでした。「代わりの鹿はいない。あなたが行かなければならない」。それを聞いた雌鹿は、とても動転しました。もしもみなさんの弟子がこのように相談しに来たら、どのように決断しますか?

 その後、この雌鹿は、ニジョーダの所にも行って相談しました。するとニジョーダは、直ちに次のように決断しました。「わかりました。心配しないでください。あなたは行く必要はありません。他の鹿も行く必要はありません。私が行きましょう」と言って、ニジョーダが王宮へ行きました。
 これは良いことですか、悪いことですか?とても良いことですよね。とても美しいことです。この中には、慈しみの心と、忍耐と、苦しみに対する共感があります。そしてもう一つ、自分の命を差し出すという、布施の心も入っています。

 そして、ニジョーダは、屠殺場へ行きました。それを見た屠殺場の人は、大変驚きました。なぜならこの金色の鹿は殺されることを免除されていたからです。ですから、彼は果たしてこのまま金色の鹿を殺して良いのだろうかと考えて、王様に報告しました。王様はそれを聞くと、沢山の従者たちと一緒に、その状況を見に行きました。

 王様はニジョーダを見て彼に聞きました。「お前は殺されることを免除されているのに、なぜここにいるのだ」。するとニジョーダは今までの経緯を王様に話しました。それを聞いた王様は、「人間の社会でもそのように自分を差し出して布施する人など見たことがない。お前の行いは慈しみの心と忍耐と、苦しみに対する共感にあふれ、私はとても感心した。だから立ちなさい。私はお前を殺すことはしない。そしてお前の弟子の鹿たちも殺すことはしない」と約束をしました。

 そこでニジョーダは、「ではもう一方のグループの鹿たちはどうでしょうか」と王様に聞きました。王様は、「よろしい、もう一方のグループの鹿も殺さないことを約束しよう」と言いました。ニジョーダはさらに、「では森に住むすべての鹿たちはどうでしょうか」と聞きました。すると王様は「よろしい、森に住むすべての鹿たちも殺さないことを約束しよう」と言いました。このように、すべての鹿が、ニジョーダのお陰で殺されることを免れたのです。
そしてニジョーダは王様に、良い指導者になるためには、慈しみの心と忍耐と、苦しんでいる者に対して共感を持つことが大切だという話をして森へ帰って行きました。

 大変美しい話だと思います。皆さんいかがですか。私たちは自分自身の欲に気をつけなければなりなせん。なぜなら、欲で幸せを感じている時と言うのは、その背後で多くの痛みや犠牲が伴っているからです。動物も自分の命を愛しているのです。動物だって死にたくはないのです。今私たちは肉を食べたいと思えば、スーパーマーケットに行けば自分で殺さなくても手に入ります。そのような時に、生き物に対して慈しみと哀れみの心を持つようにしてください。そうすればやがて食べたいという欲はなくなります。慈しみや哀れみの心が表れれば、傷つけたくない、殺したくないという気持ちになって、私たちの心を守ることができます。

 ですから、五戒をしっかり守るようにしてください。五戒というのは、良いカルマを作るためにとても大切なのです。私たちが何かをしようとする意思は、カルマを作って自分に戻ってきます。悪いカルマが戻ってくるのを、私たちは受け入れたくありません。しかし受け入れなければなりません。なぜならカルマというのは、自分自身の過去の行いの結果だからです。
 我々は誰でも完全ではないので、時には戒を破ってしまうこともあるでしょう。しかしそのような時に過去について心配する必要はありません。現在と未来において再び誤りを犯さないように気をつけるようにしましょう。

 慈と悲の心を育んでください。そしてもっと幸福な気持ちを持つようにしましょう。20分、あるいは30分間、呼吸に集中して幸せを感じるようになってください。よろしいですか?時間の無駄だと思わないでださいね。みなさんが吸う息と吐く息に集中して、気付きの瞑想をしている時は、沢山の良いカルマを作っているのです。ニミッタが出ないからといって心配しないでください。時間が来れば、そういうものは自然に見えてくるものです。心配すればするほど、ニミッタは出てきにくくなるのです。

 ですから、新年のこの休日に、呼吸に集中することで幸せを感じて楽しんでください。「新年あけましておめでとうございます(ハッピーニューイヤー)」と言いますけれども、「楽しい呼吸を!(ハッピーブリージング)」と言いましょう。 明日新年を迎えますが、これはとても大事な日です。一年の始まりの日が良いと、一年中良くなります。ですから、元旦には八戒を守ってください。そして怒りや欲を起こすことなく幸せな気持ちで呼吸に集中してください。明日、早朝から一日中呼吸に集中すれば、この一年のために沢山の良いカルマを作ることができます。よろしいですか。ビールやご馳走より良いと思います。どちらが良いですか。「ハッピー・ニューブレス!」の方がいいですね。ありがとうございました。

 サードゥ!サードゥ!サードゥ!

サヤレー法話  「集中とバランス」


 今晩は、瞑想においてどのように集中のバランスをとるのか、ということについてお話したいと思います。今日一日アーナパーナ瞑想をしてきたわけですけれども、楽にできた人もいることでしょうし、あまりうまくいかなかった方もいることと思います。うまく心をコントロールできた人というのは、昨日もお話した「五つの障害」がそれほど問題にならず、そのために心が対象を見ることができ、心をコントロールすることが比較的容易にできる人です。

 「五つの障害」が多い人はなかなか心をコントロールすることが難しいのです。なぜ難しいのでしょうか。難しい人というのは、まず心がさまよいだし、妄想が浮かんできたり、眠気が襲ってきたのではないでしょうか。もう一つは心を呼吸に集中させようとしても、しばらく経ってくると退屈になってしまうという、退屈感が出てきたのではないでしょうか。

 心をコントロールするには「五つの要素」が大事になってきます。「五つの要素」というのは、まず第一にサッダー(信)、つまりブッダやダンマ(理法)に対する信がしっかりしているということです。二つ目は精進。三つ目がマインドフルネス(サティ)あるいは気付きの力。四つ目が定(サマーディ)、ひとつの対象に集中していく力。五つ目が智慧の力。この「五つの要素」要素が大事になってきます。

 一番目の信ですが、ブッダとダンマとサンガに対する信がしっかりしているということです。信をしっかり保つためには、ブッダの教えやブッダがどのような人であるかということを知る必要があります。ブッダや法に対する信があると、瞑想していて幸福な気持ちになります。けれども信がないと、瞑想していて退屈になりやすいのです。皆さんがどれだけ仏教に対して信を持っているかは分かりませんが、ここでミャンマーのちょっとしたお話をしてみたいと思います。

信仰深い娘の話 
ミャンマーは上ビルマと下ビルマという二つに分かれていて、下ビルマは南の方のヤンゴンとかパゴーとかの地域のことです。昔々下ビルマの王国に、ある王様がいました。この王様は、もともと仏教徒だったのですが、家臣たちはみんな仏教徒ではなかったので、王様は仕方なく仏教から改宗しました。王様が仏教徒を止めてしまったとき、全ての国民に対して、「仏教徒であることを止めて違う宗教を信仰しなければならない」という布告を出しました。同時にそれまでは家の中に仏像などがあったわけですが、王様は家に仏像を置くことも禁止し、仏像は川へ捨てなければなりませんでした。

 ある村に、ダラートという名の、ブッダとダンマに対してとても信仰の厚い娘さんがいました。皆が王様に殺されるのを恐れて改宗したにもかかわらず、このダラートだけは強い信仰を持っていたので、仏像を家に置いて仏教徒であり続けました。
 ある時、ダラートは友達と一緒に川へ水浴びに行きました。水浴びをしていると、川上から八体の仏像が流れてきました。それを見つけたダラートは、仏像を川から拾いました。それを見ていた友達は、とても心配して言いました。「仏像を拾うのをおよしなさい。仏像を持っていることが王様に知れたら、殺されてしまいますよ」。しかしダラートは、「たとえ私が仏像を持っている事で王様に殺されても、気にしません。私は死んでも構いません」と言いました。そして、ダラートはすべての仏像を家へ持って帰り、祀って毎日礼拝していました。

 しかしある日王様がその事実を知り、彼女を殺すよう命じました。王様は殺す時に、見せしめのために公の場で死刑を執行しようと考えました。そして、ダラートを象に踏ませて殺そうと考えました。なぜ王様はそのような方法を考えたかというと、それを見せることによって人々が恐れて、もう仏像を礼拝しなくなると思ったからです。
 とても凶暴な象を連れてきて彼女を踏み潰させようとしたのですが、象が近づいてくると、彼女は毎日やっていたように三帰依を唱えました。それを見た象はブッダのパワーを感じて恐れを抱き、ついには逃げ出してしまいました。ミャンマーではこのように三帰依を唱えると、色々な危害から守られると信じられています。

 王様は非常に腹を立てて、また別の象を連れてきて殺させようとしましたが、また同じように彼女が三帰依を唱えると象は逃げ出してしまいます。また違う象を連れてくると同じことが起こって、ついに王宮にいる象がみないなくなってしまいました。王様は非常に腹を立てて、彼女は何か黒魔術を知っているのではないかということで、火あぶりの刑にしようとしましたが、また彼女が三帰依を唱えると、火は彼女の体を燃やすことができませんでした。

 次に王様は、違う方法で彼女を殺そうとしました。土を掘って穴をあけ、彼女をその中にいれて上から土をかぶせてしまおうと考えました。そして、家臣に命じて土を掘って穴を掘り、彼女を落としました。王様が穴の近くに寄ってくると、彼女は王様に慈悲をずっと送っていました。王様が土をかぶせようとしても彼女は恐れることもなく慈悲を送っていたため、王様はそれを見て同情のような感情を感じ、それ以上続けることができなくなりました。

 王様はダラートに言いました。「よし、ではお前に最後のチャンスを与えよう。家に祀ってある八体の仏像をパワーを使って私の目の前に見せてくれたら、お前を自由にしてやろう」。彼女は「分かりました」と言ってお祈りしました。「この国の全ての人々が改宗してしまったけれども、私はブッダ、ダンマ、サンガにお祈りして自分一人が仏教徒として残っています。もし私の信仰が真実であるならば、どうか八体の仏像がここに現れますように」と念じて心に決意してお祈りしました。すると、八つの仏像は家から王宮に空を飛んでやってきて、皆がそれを見ました。

 それを見た人たちはとても幸福な気持ちになりました。王様は非常に驚きました。そして王様はブッダ、ダンマを信じるようになって、再び仏教徒に戻りました。王様が仏教徒になった後、全ての国民が仏教徒になることを許しました。その後、信仰心の深いダラートは王様と結婚してその国の女王になりました。ダラートが女王になった後、治めていた下ビルマの全国にパゴダ(仏塔)や沢山の仏像を作ったので、今でも下ビルマにはパゴダや仏像が沢山見られます。彼女のおかげでミャンマーは今でも仏教の国を保っているのです。今でも彼女の信がみんなの心に生きています。

瞑想を支える精進 
ブッダは涅槃に入っていないわけですけれども、私たちはブッダの九つの徳を今でも信じています。そして私たちはダンマ(理法)も信じています。それは智慧を与えてくれるし、涅槃への道を教えてくれるので、信じています。そして私たちがここへ来ているのは瞑想をするためなのですが、瞑想をしているときもダンマ(ダンマというのは非常に広い意味があって、いろいろな現象そのものを表わしたり、真理という意味があります)やブッダを対象として感じているわけです。ですから、瞑想している時はブッダとダンマを感じているので、とても幸せで、退屈にはならないのです。幸せな気持ちというのがあると、努力をしようという気持ちも起こってくるのです。そういう幸福感がないと、なかなか努力をしようという気持ちにはなれないのです。

 特に初心者にとっては努力(精進)するということが非常に大切です。努力がないと、心が落ちてしまって眠くなったり、心がさまよってしまったりするのです。人間の本性というのは、自然にしておくと、貪瞋痴(欲・怒り・無知)に流されるという性質があって、努力しなくてもだんだん悪い方向に行ってしまいます。良い方向にもっていくためには瞑想をして、努力しなければなりません。どうですか、そう思いませんか?
 ここに来ている皆さんはそれがよく分かっていると思います。このような休日に入ると普通はどこかへ遊びに行ったり、休養しようという気持ちになるのですが、皆さんは努力してここへきて瞑想しようと思ったのです。それは智慧があるからです。せっかく智慧をもってここまで瞑想に来たのですから、努力してジャーナまで到達しようという気持ちで励んでください。「ジャーナまで到達しなかったら帰らない」という決心でやってみてください。 

 心というのは非常に大きな力を持っていて、心を制御したいと思い、心を制御することで幸福感を感じられれば、簡単に心を制御(コントロール)することができます。、心を制御したくないと感じ、制御することに幸福感を感じなければ、心を制御することが難しくなります。
 努力とか精進というのは、要するに心のエネルギーのことです。人間の心というのは、努力をしていないと、どんどん沈んで行ってしまうという性質があって、それは例えて言えば、泥の池の上に咲いている蓮の花みたいなものです。蓮の花もしっかりと支えていないと、だんだんと泥の中に沈んで行ってしまうのですが、水面から出て咲いているというのは、ある種の努力があるからです。
 
 もう一つの例え話をしたいと思います。これはブッダの時代の、パリーヤという象のお話です。このパリーヤという象がまだ若い時は、非常に力があり、他の国との戦でいつも勝つので、王様も非常に大事にしていました。しかしだんだん歳をとってきて引退ということになりました。引退して森に入って住んでいましたが、沼の湿地に入って行ったら、ドンドン沈んでしまいました。人々が集まって来ましたが、象は自力で上がってくることができません。人々は、どうすることもできないのでハラハラして見ていました。

 その時に王様は、そのニュースを知り、かつての象の調教師にその話をすると、調教師はすぐそこへ駆けつけました。昔若い時に他の国と戦った時、象を鼓舞するためにドンドン太鼓を叩いて気持ちを奮い立たせました。調教師は、象が沈みかけている沼に行って、その太鼓をドンドン、ドンドン叩きました。そうしたら象が音を聞いて、若い時に戦った事を思い出し、心が非常にパワフルになり、力が出てきました。それで、「エイッ」とばかりにそこから飛び出る事ができたそうです。
 
 私達の心も同じようなもので、自分の心で、「よしっ、やるぞ」と思って、眠気に打ち勝とうとしたり、「とにかく、集中しよう」という風に、心でいつも思っていると、段々といくつもの障害を乗り越えて行く事ができるようになります。心はそんな風にして努力で強く持たなくてはなりませんが、呼吸の方は、あまり強くやろうとはしないで、いつも自然に、ナチュラルな呼吸でやってみてください。呼吸はいつもソフトに、そして幸福な感じでやるようにしてください。

六種類の妄想 
 努力が強くなってくると、サティー(気付き)の力ですね、マインドフルの力が一緒に強くなってきます。サティー(気付き)ということですけれども、これがとても大事で、いつも呼吸に注意を向けているという事です。呼吸以外の対象に心を向けないようにしているのが、気付きの力で、マインドフルなのですが、それが弱くなってくると、妄想が起こってきたり、他の方に心が行ってしまって、だんだん対象が見えなくなってしまいます。サティの力によって呼吸をいつも見ている、注意を向けているという事が大事なわけです。
  
  入ってくる息と、出て行く息を対象に見ているのですが、吸う息、吐く息を非常に簡単に見ることができる人もいると思いますし、難しい人もいると思います。呼吸を見るのが難しいという人は、一つの葛藤みたいなものが起こっているわけす。その葛藤というのは、つまり妄想が起こり、心がさまよい出してしまうという事が起こっているのですが、妄想というのも六種類の妄想があります。六種類というのは、まず、欲です。そして貪・瞋・癡です。欲と、怒りと、無知(迷妄)という三つ。

四つ目は、信です。信じる気持ちですけれども、何でこれが妄想の原因になるかというと、仏・法・僧に信が強いと、思考が入って来てしまい、今やるべきことは呼吸を見ることですが、それよりも「いずれ私は出家したい」とか、「どこそこの瞑想センターに行ってやろう」と、そういうような思考が入ってきてしまうからです。 
 ですから信を持つのはとても大事なのですが、呼吸瞑想の時に信は一応置いておきます。瞑想する時はあくまでも呼吸を対象に瞑想して、信から出てくる「どこへ行こう、今度はどうしようか」という考え方は起こさないで、呼吸に集中してください。
  
  ブッダが悟りを開く前に、6年間ウルベーラの森で瞑想をしていました。ブッダは、森で瞑想をしていた時に、例えばクティ(小屋)で、毎朝起きるとドアを開けて森を見渡し、あるいは散歩をします。その時に、「とてもすがすがしい朝だ」とか、あるいは森の中に花が咲いていたら「大変綺麗な花だ」という風に思ったりします。それでクティに戻ってきて瞑想する時に、そういう光景とかが、思考に入ってきます。それは瞑想に良くないという事で、私達にも同じような事が言えます。ですから私たちが例えば外で歩行瞑想する時にも、「なんてきれいな空なんだろうか」とか、「この木は素晴らしい木だ」とか、「花が咲いてる」とか、そっちの方を見ないで、ひたすら呼吸に集中するようにしてください。歩いている時も必ず呼吸の方に意識を集中するようにしてください。
  
 五番目は、さっきの逆で、無欲です。それから六番目に無瞋、怒りのない事です。無瞋についていうと、それは慈悲の心なのです。最初に慈悲の瞑想をやって慈悲を感じて、人々を思い浮かべますが、瞑想中にまたそういう人が出てくると、そっちの方に心が行ってしまって、やはり思考になって妨げになってしまうので、瞑想中は呼吸に集中して、慈しみ(メッタ)の心は一応置いておくようにします。最初の5分ぐらいは慈悲瞑想をしますが、呼吸瞑想に入ったら一応それは置いておいて、呼吸の方に集中するようにします。
  
妄想を避ける四つの方法
 この六つの原因による思い・考えが入ってくるのです。妄想というのは、一つの考え・思いですから。瞑想する時には、こういう思いが入り込まないように、考えがさまよい出すのを切って行くということが大事です。それでも呼吸に集中しようとして退屈さが起こってくるという事があります。その時には四つの方法があります。第一の方法は、自然な呼吸をしていて、ゆっくりしてきて、息が長く入り、長く出ていくという風に感じたら、「息が長く入り、長く出て行く」と気付きます。その時に、呼吸の後をついて行くと、段々肺の中に入って行ってしまいますが、それはしないで、あくまでもこの鼻のあたりに意識は置いておいて、呼吸の出入りを見ているというようにします。

 次は呼吸を見ていて、短い呼吸が入ってきて短い呼吸が出ていくという風な感じたら、「短く吸って短く出ていく」という風に気付きます。
  次は呼吸全体を感じるようにします。呼吸の始まりそれから真ん中、それから終わりです。吸う時に「始まり、真ん中、終わり」。それから出す時も、「始まり・真ん中・終わり」というように呼吸の全体をを三つぐらいに分けて眺めて感じるようにします。
  
 四番目は、そんな風にして見ていると、もっと呼吸を細かく見る事ができるようになってきます。微細な呼吸が見えるようになります。微細に呼吸が見えるようになったら、「微細な息が入って、微細な息が出ていく」と気付きます。こんな風にしてだんだん、微細な呼吸が見えるようになってきて、集中が良くなってくると、心が非常に快適、軽快になってきて、体の方も軽い感じになってきます。心が軽快になって体が軽くなってくると、ある光が現れ始めます。それは集中が良くなってきた時の印、サインなのですが、人によって色とか、形が違っています。
  
集中のサイン、ニミッタ
 この時に光が見えてきたとしても、その色とか光には集中しないで、あくまでも呼吸の方に集中するようにしてください。光の方に意識を移してしまうと、すぐそれは消えてしまいます。ある時は、呼吸が非常に微細になってきた時にそういう光が見えてきてそれを続けていると、ババンガ(有分心)と言って、ある種の無意識状態みたいな所に心がスッと入ってしまうという事も起きます。

  これは初心者で、ある程度瞑想が進んだ人が陥りやすい事なのです。段々呼吸が微細になってきて、集中が良くなってくると、ある種の光がぼんやり見えて、非常に心が平和な感じになってきます。そうすると幸福感の方に意識が集中するようになり、呼吸ではなくて幸福感の方に心が行くようになって、それを追っているとスーッと無意識の方に行ってしまいます。ですから、呼吸が柔らかくなって微細になってきて、心が平安で幸福になっても、そちらの平安の方に心を持って行かないで、あくまでも呼吸の方に意識を集中するようにしていてください。そうしていると、光がもっとはっきりしてきます。
  
  もう一つの問題は、呼吸が非常に微細になると、呼吸が消えてしまったかのような感じになる事があります。呼吸がどこに行ってしまったのか、分からなくなってしまう、そういう感覚になる事があります。その時に、待っていても一向にはっきり呼吸が現れてこない、というような事が起こります。そういう時は、意識的に呼吸をして、「吸ってる、吐いてる」という風に呼吸を意識的にやるようにすると、また呼吸を感じる事ができるようになります。また呼吸が戻ってきます。

 そんな風にして、呼吸に集中していって集中力がついてくると、いろいろな明るい色が現れてきます。これは人によって黄色とかオレンジとか青とか、いろいろな色があるのですが、その色はあまり気にしないでください。そしてさらに呼吸を見続けていると、色がだんだん白っぽくなってきます。この白い光が第二段階のニミッタです。
 光が白くなってもそちらに意識を向けないで、呼吸に集中していると、白くなってきた光が輝く星のようになってきて、だんだん鼻の方に近づいてきて、鼻の前のあたりで止まります。それが第三段階のニミッタです。光が安定して見えてくるようになったら、今度は呼吸ではなくて、ニミッタに心を集中してください。そして心で「アーナパーナ・ニミッタ、ニミッタ、ニミッタ」というように、ニミッタの光の方に意識を集中するようにします。10分くらいニミッタに心を集中させると、心が非常に平和な幸福な気持ちになってきます。それでニミッタの方に心をずっと向けていると、五禅支が現れて、禅定(ジャーナ)に入って行きます。

五禅支 
禅定に入ると、五つの要素が現れます。一番目はヴィタッカ、尋(じん)という、心をアーナパーナ・ニミッタという対象に向けて行く要素です。二番目は、ニミッタをずっと継続して見続けていく要素、これをヴィチャーラ(伺)と言います。支える心、ニミッタを見続ける心です。三番目の要素はピティと言いますけれども、これは日本語で書くと「喜」です。ニミッタを見続けていると、心が幸福になってきますけれども、その喜びの感覚です。四番目はピティと似ているのですが、スッカという要素で、日本語では「楽」と書きます。ピティは喜びで、振動しているような感覚ですが、スッカというのはもっと落ち着いた、静かな淡々とした喜びという感覚です。

 例ばアイスクリームを見て、食べる前はアイスクリームを食べられるという非常に嬉しい気持ちになります。食べた後は、満足して落ち着きます。食べる前の喜びがピティで、食べた後の落ち着いた喜びがスッカです。分かりましたか?
 五番目はパーリ語ではエカーガタ、日本語では「一境性」書きますが、心が一つのニミッタという対象にぴたっと集中して張り付いている状態です。そんな風にしてニミッタに心が没入していると、五つの要素(五禅支)が起こってくるわけです。

 明日はみなさん第一禅定に入れるように頑張ってください。できますか、できませんか?(会場、苦笑)。
心は非常に強力ですから、ただ心をコントロールしたいと思うだけで良いのです。呼吸を観察することに幸せを感じれば、みなさん必ずできます。最初の禅定に入ることができれば後の四段階までは非常に容易に達することができます。第四禅定まで達することができれば体の内部の三十二の部分を見ることができるようになります。

 サヤレーは台湾でも教えているのですが、そこにいろいろなグループがあって、とても強力な尼さんたちのグループがあります。その人達は毎年10日間ずつ10年続けてやっているのですが、どんどん成長していてジャーナ(禅定)から体の中を見て、それからナーマ・ルーパという精神現象や体の現象を見るところまで行って、自分の過去世を見るという瞑想まで入っています。今回は強力な決意を持って、ここにいる全員がジャーナに入ってもらいたいと思います。よろしいですか? 台湾に行った時に、「サヤレーはいつも日本でリトリートをやっていますが、日本の人はどうですか」と聞かれても、答えようがありません。

 でもここへ来れて大変幸せです。日本に来ると富士山も見られ、故郷に帰ってきたようで、大変幸福な気持ちになります。いつも合宿の時は皆さんが来てくれて、なんだかふるさとに帰ってきたような気分です。ですから、サヤレーのためにもジャーナに達するように決意してくださいね、良いですか?(笑い)。みなさんが必ず「OK!」という気持ちで頑張っててください。
 
 ですから、マインドフル(気づき)というのが非常に大切で、20分でも呼吸に向けていることが大切になります。ジャーナ(禅定)というのは、非常に強い集中力です。そんな風に禅定に心が達することができれば、心がとても強力で鋭くなってきます。それでそんな風になってくると、次第に洞察力、理解力がついてきます。集中力や智慧がないと、我々の心はいつも散乱していろいろな欲などを追いかけたり愚かな状態になります。それでいろいろな物に執着すると、それによって時間を浪費してしまいます。そういうことによって悪い(不善)なカルマを作ってしまいます。集中力をつけて智慧を持つことができれば、執着を簡単に切ることができます。涅槃に行くことも簡単になります(笑)。

執着による苦しみを絶つ
 それではまた一つのお話をします。ブッダの時代にコーサラ国という国がありました。その国にあるとき大変に強盗が出没したので、王様はサンダッティという家臣に命じて取り締まらせました。サンダッティは強盗を取り締まって、その後王宮に戻って来ました。王様はとても幸せになって、サンダッティに「褒美に今日から7日間だけおまえを王様にしてやろう」と言いました。7日間の間王様になった家臣は、お酒を飲み続けて酔いどれになっていました。

 7日目の最後の日にサンダッティは象に乗って、従者と一緒に王宮の庭を王国の門に向かって歩いていました。その途中で、彼はブッダが托鉢に来るところに会いました。ブッダを見たサンダッティは、象に乗ったまま象から降りることもなく、ブッダに対してただ頭を下げるだけの礼をしました。それを見たブッダは、にこっと笑いました。ブッダに従っていたアーナンダ尊者はそれを見てブッダに、「なぜお釈迦様は笑ったのですか」と聞きました。ブッダは次のように答えました。「アーナンダよ、サンダッティを見てみなさい。今、サンダッティは綺麗な格好をしていますが、今日の午後に必ず私たちの僧院に訪れるでしょう。そして法話を聞いた後、彼は阿羅漢になるでしょう。そして阿羅漢になるとすぐに死んでしまうでしょう。今日、彼は死ぬでしょう」。その話は瞬く間に国内に広まって、人々はどうなることやらと、皆、僧院に見にきました。

 サンダッティはブッダに会った後、沢山の従者とともに王宮の庭へ行きました。その中に一人のとても美しい踊り子がいました。その踊り子は、サンダッティが王様になっている間、いつも彼の世話をし、7日間歌い続け、踊り続けていたので、あまりにも疲れて、その時に死んでしまいました。7サンダッティは彼女に対してとても執着、愛着がありました。始め、彼は酔っ払っていてその事がよく分からなかったのですが、踊り子が死んだ話を聞いたとき非常にショックを受けて、酔いから醒めてしまいました。酔いから醒めて心がはっきりしてくると、彼はとても動転し、大変深い悲しみとショックが生まれてきました。彼は心をコントロールすることができなくなって、この感情をどうしていいかわからず、心を鎮めることができるのはブッダしかいないと思いました。

 それから彼は僧院へ行ってブッダに踊り子が亡くなったことによって受けた自分の苦しみについて話しました。ブッダは彼に次のように言いました。「あなたは今世だけでなくて、過去世においても彼女のことでずっと涙を流してきました。あなたが過去に流した涙は海の水よりももっともっと多いのです」。
 ブッダは続けて言いました。「あなたが多くの過去世においてずっと涙を流してきたのは、彼女に対する執着があったからです。この苦しみから逃れるためには、過去の記憶における彼女に対する執着を切らなければなりません。それと同時に彼女に対する執着を未来に持って行ってはなりません。未来における執着を切らなければなりません。現在においてもヴィパッサナーで観察をして執着を断たなければいけません。過去においても、現在においても、未来においても、ヴィパッサナー瞑想をして執着を断たなければいけません。すべての執着を切ることができれば、容易に涅槃に行くことができるでしょう」。

 非常に単純な話ですね。その話を聞いて彼は瞑想をしてすぐに阿羅漢になることができました。なぜそんなに早く阿羅漢になったかと言うと、彼には過去においてずっと瞑想をしてきたという大変大きな波羅密があったからです。私たちはどうでしょうか。今、このような話を皆さん聞きましたけど、阿羅漢になれたでしょうか。まだですか?まだならもっと瞑想が必要ですね(笑い)。サンダッティは阿羅漢になって、自分の生を観て、今日が自分の死ぬ日だということを知り、ブッダのところに行って暇乞いをし、その後すぐに亡くなりました。

 そういうわけで、私たちはすべての苦しみを集中力と智慧によって断っていくといくことが大切なのです。先にお話した、五つの禅の要素が涅槃に行くときに大切な力となります。ですから、みなさん自分の中の、嫌だとか退屈だといった不善な心を乗り越えて、呼吸に集中することに幸福を感じるようにして頑張ってみてください。明日からインタビューを始めます。その時、どのくらい集中できたかを聞きます。皆さん「20分も30分も妄想せずに集中できました」と答えられるようになって欲しいと思います。ありがとうございました。

   サードゥ! サードゥ! サードゥ!

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2012/8 宝台樹高原

  • 6
    8月に合宿の行われたみなかみ町藤原は宝台樹山のふもとにあり、冬はスキー場になる高原風ののどかな村です。

2009年クムダ・セヤドーのお寺 

  • 10 セヤドーのお話を聞く
    ミャンマー・ヤンゴン市郊外モービにあるクムダ・セヤドーの瞑想センターを訪ねた方が写真を送ってくださいました。 シーマホールも完成し、そこには富士山をバックにした仏像がまつられています。

2008/8 水上合宿

  • 雨上がり
    8月に合宿の行われた水上町藤原はまさに水の里。民宿周辺の風景をお届けします。

2008 夏の風景

  • 朝霧の沢
    夏の暑い日、川の源流では入道雲が湧き、山や木々は様々な表情を見せていました。

2008/7 関西合宿・瞑想会

  • 延命寺三門にて
    大阪、河内長野市にある延命寺は弘法大師空海が開基と伝えられ、市の紅葉名所にもなっている美しいお寺です。 ここで7月、クムダ・セヤドーをお招きして一週間の瞑想合宿が開かれました。
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