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2010年4月

2010年4月 5日 (月)

サヤレー法話「身・受・心・法の観察」

 皆様もこのリトリートに参加されて幸せを感じますように。もし幸せでなかったなら、幸せになるよう努力してみてください。善いことをすれば幸福になります。今回は、「6日間リトリート」ということで非常に短いものでしたが、この間にもニミッタが見え始めた人や、禅定に入りかけた人もいて成果があったことと思います。ニミッタが見えなかった人も呼吸の観察に楽しさを感じたことと思います。

 呼吸に集中することを時間の無駄だと思わないでください。呼吸などは赤ちゃんでもやっていることなので、そんなものをなぜ観察するのかと思う人がいるかも知れません。ブッダは「大念処経(マハー・サティパッターナ・スッタ)」の中で、呼吸(出息入息)の観察が瞑想の対象であると仰っています。これはとても単純な対象です。考えてみれば呼吸というのは簡単明瞭で、子どもの頃からしていますから瞑想の対象としては分かりやすい対象です。どうですか皆さん簡単でしょう、難しいですか?(笑)

 呼吸に焦点を合わせるだけですからとても単純で易しい瞑想です。でも呼吸は単純でも、心は単純ではありません。それが瞑想を難しくしている原因です。ですからブッダはアーナパーナサティ(呼吸の瞑想)を集中力育成の手段として教えてくださったのです。そして集中力をつけることにより、より高度な観察の瞑想、すなわちヴィパッサナーに入っていくことができます。

 またブッダは四つの観察(四念住)について教えてくださっています。
一つ目はパーリ語で「カーヤヌパッサナー」と言って身体(身)の観察です。
二つ目は「ヴェダナーヌパッサナー」と言って感覚(受)の観察です。
三つ目は「チッターヌパッサナー」と言って、心、意識の観察です。
四つ目は「ダンマーヌパッサナー」と言って法の観察です。

身体の観察

一つ目の「カーヤヌパッサナー」は身随観といって身体と呼吸(出息入息)を観る瞑想です。呼吸というのも物質的な働きですから、吸う息・吐く息を観るということは、つまりは物質的なものを観ているわけです。また、身体の三十二の部分についても観ていきます。ブッダはその三十二の身体の部分についても、それぞれの部分について一時間、二時間でもかけて詳しく集中して観るようにと仰っています。より高度なレベルになりますとルーパ・カラーパという物質の最小の微粒子までをも観ていきます。

 吸う息、吐く息を観ているわけですが、ただ呼吸を観ているだけでは無常、苦、無我までは、なかなか分かりません。ですから呼吸をルーパ・カラーパ(物質微粒子の集まり)にまで分解して、さらにその中に地・水・火・風の要素を観て、非常に微細なレベルまで観ていくとルーパ・カラーパが生滅しているのが観えます。そして初めてそこに無常、苦、無我を観察することが出来るのです。このように私達は集中力をもってヴィパッサナーという観察の瞑想をします。

感覚(感受)の観察

 二つ目は「ヴェダナーヌパッサナー(受随感)」です。私達が呼吸を対象とする瞑想をしていると二ミッタが出てきます。それが次第に光り輝き、明瞭になってきた段階で瞑想の対象を呼吸からニミッタに移し、さらに一時間、二時間とニミッタを見続けて禅定に入っていきます。禅定には第一禅定から第四禅定までありますが、第一禅定の中には禅定を支える五つの要素(五禅支)というのがあります。五禅支には「尋」「伺」「喜」「楽」「一境性」の五つの要素が含まれています。

・尋(vitakka)- 心を対象に向ける働き
・伺(vicâra)- ”尋”を支える働き
・喜(pîti)- 対象に集中することで生じる喜び
・楽(sukha)- 心が落ち着くことで生じる楽な感覚
・一境性(ekaggatâ)- 対象と一心になる働き

 第一禅定、第二禅定ではとても強い「喜(pîti)」が現れます。禅定に入るとニミッタと心が一つになってしまいます。ニミッタというものも、そもそも物質的なものです。ニミッタという対象を観ていることにより、心に喜びの感覚が湧いてきます。その喜びの感覚を観ていくのが感覚(受)の観察です。

 そして「感覚」には楽(sukha)、苦(dukkha)、そのどちらでもない中立の感覚の三種類があります。例えば坐っていると、身体のいろいろなところに痛みが出てきますが、これは身体が痛いのではなく心が痛いと感じているのです。身体は単なる身体であって、「痛み」という感覚は心で感じるものです。坐っていることによって地・水・火・風のうちの「凝縮作用」が働いて、身体がこわばって堅くなってきます。そこに心が焦点を当てると、「痛み」として感じるわけです。このようにして「痛み」の感覚が生まれます。そのように坐っているときの「痛み」という感覚を感じることを「ドゥッカ・ヴェダナー(苦の感受)」と言います。

 ルーパ・カラーパ等を観ていると、それらが消滅を繰り返し、次から次へと過ぎ去っていくのが観えますが、この事実により「無常」を観て、同時に消滅し変化していくという事実に対して「苦」を観ているのです。
安定した人生なら、それで良いのですが、安定しているものは何も無く、全ては過ぎ去って行き、自分のものだと思っていてもすぐに消えてしまいます。それが「苦」という感覚になります。例えば家族、親しい人、愛しい人たちを失う時に悲しみ、嘆きを感じますが、それが「苦」という感覚になります。

 ブッダは「初転法輪経(ダンマチャッカ・パヴァタナ・スッタ)」の中で五蘊(色・受・想・行・識)は全て「苦」であると仰ってます。物質的なものは生じて、しばらく存在して、滅していくというプロセスをたどりますが、このうち「存在して滅していく」プロセスを深く瞑想すると「苦」がよく観えてくると仰っています。例えば、皆さんの家族が外国から帰ってきたら嬉しいという感覚が生じます。旅立って居なくなってしまうのは苦しみですが、また帰ってきて「現れる・生じる」時には喜びになります。

 そして「捨 ( upekkhâ)」の感覚ですが、例えば、自分に関わりのない仕事には、自分とは関係ないという冷めた見かたが出来ますね。そういう感覚が「捨」 の感覚です。みなさん「自分には関係がない」という感覚は良い感覚だと思いますか?
例えば阿羅漢になると全ては生滅していることが分かるので、全てを手放してしまいます。自分の内側のナーマ・ルーパ(心と体)を観ることに専念して、外のことは手放してしまうという感覚になるとブッダは仰っています。阿羅漢になると既に執着が無くなっていますので煩悩も無くなっています。

 阿羅漢たちは、皆、このような性質を持っていますが、そのパワーが各々によって違っています。この話は、ちょっと皆さんが理解されるのは難しいと思いますが、普通の阿羅漢と呼ばれる人たちは、執着を捨てて、全て手放し、外界のことよりも自分自身の身体を観ることに専念しています。

 しかしサーリプッタ尊者、モッガラーナ尊者、ブッダは、もちろん執着もなければ、煩悩も無くなって阿羅漢の一人ではあるのですが、普通の阿羅漢たちよりも、とても高いパワーを持っていました。彼らも阿羅漢になる前の修行で自分の身体、または他人等の外側のものをヴィパッサナーで観察したのですが、彼らは普通の阿羅漢たちよりもより多くの時間、外側の物質的なものを観察することに費やしました。そこが普通の阿羅漢とは違うのです。

 ブッダのパワーはサーリプッタ尊者、モッガラーナ尊者よりも、さらに大きかったのですが、なぜかと言うとブッダは全ての世界の人々、全ての物質的なものを観察する能力があったからです。そのときにブッダは「慈悲の心」で観察していました。心と体(名色)を観るときも、因果関係、縁起を観るときも、慈悲を持って行っていました。
ブッダの場合は慈悲の基礎の上に禅定を作ってからヴィパッサナーをしていました。

 今、アーナパーナ瞑想をやっていますが、この瞑想では第四禅定まで達することが出来ます。第四禅定などの禅定には感覚が伴っていますが、感覚というのは一つではなく、いろいろな要素が含まれています。その中には、31の心と心所(心に伴う要素)が含まれます。31の心と心所には、感受(vedanâ)が含まれます。感覚の中でも第四禅定においては、捨の要素が非常に強いのです。

 第一禅定や第二禅定では、喜の感覚が大きいのですが、第四禅定になると、捨の感覚がたいへん大きくなります。このように、感覚といっても、その中にいろいろな要素が入っていて、段階によって強くなる感覚が異なります。また、心の過程には感覚だけではなく、他の心所も含まれています。このように、感覚について観て行くのが受随観(感受の観察)です。

【会場からの質問】
第4禅定でも喜の要素が少しでも含まれるのでしょうか?

【答え】
第2禅定から第3禅定に移るときに喜の感覚を捨て、第3禅定から第4禅定に移るときに楽(sukha)の感覚を捨てるので、第4禅定では、喜や楽の感覚は残っていません。
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 こんなふうにして、不快な感覚や、喜、楽、捨といった感覚を観察します。ブッダは、慈悲というものを基礎にしてヴィパッサナーをしました。ブッダの力は大変強かったのです。ブッダは、怒りの無い慈悲の感覚で、多くの人を助けました。現在の私たちは、「阿羅漢になると、他人のことは切り捨てて、あたかも敵であるかのように自分には関係ないと考えている」ように思っていますが、それは間違いです。私たちは、慈悲の心をもって、他人の心と体、因果法則を観察するようにします。

 ブッダは最初に第一禅定に入って、そして禅定から出て、禅定の中にあった心の過程を観察しました。それから、第一禅定から第四禅定、さらにその上の無色界禅第八禅定まで、それを見て、それから第八禅定から第一禅定まで逆に見ていきました。そして、また第一禅定から第四禅定に達し、そこから涅槃に入られました。ですから、禅定というのは大変重要なことで、禅定における心の過程をもヴィパッサナー(観察)の対象になります。

 皆さんがもし阿羅漢になろうと思うのであれば、慈しみの修行もたいへんに大切です。他人を観る時にも慈しみに集中し、平和な心で、心や体を観察するようにします。一般の人は、阿羅漢になると、ただ痛みや苦しみだけを見ているというふうに考えていますが、楽と苦と中立の感覚の三つのバランスを取ることが大事なのです。

心の観察

 三番目のチッターヌパッサナー(心随観)というのは、意識を観察するのですが、例えば、外の対象と眼の接触により眼識(対象が見えたという意識)が発生します。詳しく言いますと、物質的な対象と、物質的な眼という感覚器官の接触により、眼識が生じ、それが心基を刺激します。心を揺さぶるわけです。私たちの基本的な意識はババンガ(有分心)と言って、「眠っている意識」です。外の物質的な対象と接触すると、眠っている意識であるババンガ(有分心)が揺すぶられます。そして引転心という心が生じ、心の過程(心路過程)が生まれます。

 例えば、ここにあるコップが物質的な対象で、それを眼で見る時のことです。心の過程というのは一つ一つ順に起こります。コップを見ると、最初からコップが見えるわけではなく、初めは何か分からないけれども、何かの情報が飛び込んできます。それで、心が揺すぶられて、そちらに心を向けるという働きがあり、次に外側のものとの接触が起こります。接触が起こると、引転心という心が生じ、眼識が生じます。

 次に眼識を受け止める心(領受心)が生じます。次に、「これは何なのか?」と疑う心(推度心)が生じて、次にこれはコップであるいうことが分かり、コップであると確定します(確定心)。 その次に、コップであると分かってから、速行心という心が7つ起こります。速行心の中には、意識と心所も含まれています。速行心が7つ発生した後に、見たときの印象が、残像のように残る心(彼所縁)が2つ後に続きます。
心の過程を細かく見ていくと、そのようになります。

 心の過程は大きく二つに分かれますが、今までの説明が眼門(Eye door)の過程で、次に意門の過程が始まります。眼門の過程では、対象が見えたというくらいで、それほど大きなカルマは発生しません。その後で、意門の働きがいろいろ始まって、そこからカルマに関係あるものが生じてきます。

 意門の過程が発生すると、最初は、これは良い、悪い、楽しい、楽しくないなどのある種の感覚が発生します。最初の1つだけでは、それほど大きくありません。それが、ずっと「嫌だ、嫌だ」とか、「楽しい、楽しい」と、後につながっていくことにより、大きなカルマになっていきます。

 例えば外で、きれいな女性を見て、「美しい」と感じたとします。ただ、見ただけでは、それほど感覚は大きくありません。それで、美しい人を見たことによって、心が楽しくなります。最初はそれほど強くなくても、心の中で「きれいな人だった」と何度も思うことによって、しまいにその女性を愛するようになります。その次に起こる意門の過程が、カルマになるということです。

 逆に、あまり楽しくないものを見ると、怒りの感覚が発生して、「面白くない、面白くない」と後に続くと、カルマを作ることになってしまいます。ですから、心の随観においては、そのように心の細かい過程を詳しく見て行きます。

 対象について分かっているというだけでは十分でなくて、もっと細かく心の過程を見ていく必要があります。ですから、このように細かく、1つ1つどんな微細な心が起こっているかを、眼門の過程、それに続く意門の過程において微細に見ていく必要があります。
 現在において起こっている心の過程、どんな心が生じて滅して、次の心が生じて滅しているかについて、今の例は眼門についてでしたが、他の門についても細かく見ていかなくてはなりません。

 今起こっている心の過程だと、容易に切り捨てることができます。これは楽しいと思っても、次の瞬間にそういう思いを切り離すことができます。 それは事実ではないでしょうか?
例えば、映画を見ると、映画の中のスターを好きになることがあります。しかし映画が終わってしまったら、それで執着はなくなります。ところが、過去のカルマと関係している感覚を切るのは容易ではありません。なぜかというと、過去に一緒だった家族とかに対する感覚は非常に強いので、現在見て起こった感覚よりも、切るのがたいへん難しいのです。

 いま起こった感覚が、過去のカルマによって起こっているものか、現在起こっているものか、どうやって見分けるのでしょうか?

 例えば、誰かと結婚するとします。親が相手をアレンジして、この人はなかなか良さそうな人だと頭で判断します。ある人たちは、この人はどのくらい車を持っているのか、どのくらい大きな家を持っているのかと、そういうふうに計算して決めるわけです。それで、結婚して一緒に住むようになりますが、一緒に住むことによって起こる執着というのは、過去に作ったカルマに比べると、それほど大きくありません。

 過去のカルマによる感覚というのは、誰かに会った瞬間に心臓がドキドキするとか、「アッ」と思うような感覚で、昔のカルマが非常に強いのです。どうですか、それが事実ではないでしょうか?
例えば、誰かまたは何か一目見た瞬間にあまり心がドキドキすることがなければ、それは選ばなくても良いのです。頭で、これはこうだと考えて選ぶと、後で苦しみを受けることになります。ですから、心の感覚に従って選んだ方が良いでしょう。

 このように過去の心が現在の心の過程に入ってきます。ですから、ヴィパッサナーをするときに、ただ単に現在の精神的な働きや肉体的な働きを見るだけではなくて、過去のそういうものを見て、過去と現在との関係を見る必要があります。自分だけでなく家族、親類等の別の人たちについてもヴィパッサナーで観察する必要があります。

 ですからヴィパッサナーをするときは、現在と過去と未来のナーマとルーパ(心と身体)、自分に近いナーマとルーパ、自分と遠いナーマとルーパを観る必要があります。
自分と「近いナーマとルーパ」と「遠いナーマとルーパ」というのは、距離的に近い、遠いという意味ではなく智慧と関係しています。善い行いをしている智慧をもった善い人たちは智慧から観て近く、逆に不善な行いをしている人たちは智慧から観ると遠い存在です。

ヴィパッサナーには11種類があります。
 1.過去のナーマ・ルーパ(心と身体)
 2.現在のナーマ・ルーパ
 3.未来のナーマ・ルーパ
 4.智慧と近い(善)ナーマ・ルーパ
 5.智慧と遠い(不善)ナーマ・ルーパ
 6.粗大なナーマ・ルーパ
 8.微細なナーマ・ルーパ
 9.優れたナーマ・ルーパ
10.劣ったナーマ・ルーパ
11.外側と内側のナーマ・ルーパ

「優れたナーマ・ルーパ」というのは、例えば禅定を得ているときのナーマ・ルーパで、非常に微細でソフトであり、梵天界などが良い例です。「劣ったナーマ・ルーパ」というのは動物界とか地獄界、つまり四悪趣のナーマ・ルーパです。このようにヴィパッサナーによって観察する中に「無常、苦、無我」を観て、阿羅漢に達することができます。

法の観察

四つ目の「ダンマ(法)」の観察についてですが、今までお話してきた心と体(名色)について、想(saññâ)行(sankhâra)を除いた残りのすべてについて観ていきます(想と行は心随観ですでに観ています)。

質疑応答

ここまでで何か質問がありますか?

【会場からの質問】
慈悲の心が無くても阿羅漢になれますか?

【答え】
禅定を支える要素のうちのひとつである「喜」は慈悲と結びついていますので、阿羅漢になった人は皆、慈悲の心を持っています。

【会場からの質問】
ニミッタというのは物質的なものだというお話がありましたが、ニミッタは心のエネルギーではないのでしょうか?

【答え】
ニミッタというのは心が創り出した物質性(ルーパ)です。心が集中状態に入ると光を創り出すのです。

【会場からの質問】
慈悲というのは、なかなか出すのが難しいのですが、どのような条件を揃えれば慈悲が現われますか?

【答え】
これには訓練が必要で、慈悲の「悲(カルナー)」を基本にすることが大切です。「悲」というのは苦しんでいるものに対する共感ということです。例えば五戒にある「不殺生戒」というのは、生き物たちが殺されることを恐れ、苦しみに感じている、その想いに対する共感を育て養うことですが、その戒を守ることにより、慈しみの心も養われていきます。

 慈悲というのは意志に関係していて、最初の頃は感じられなくても、繰り返し、繰り返し実践して養っていけるものです。誰かに慈しみの心を送ったとして、すぐに喜びの心が自分の中に湧いてくるかといえば、それは難しいのです。最初は心を創りださないといけません。自分の意志で、皆が苦しみから解放されるように想っていくことが大事です。そしてその感覚に集中していきます。

 そのような努力を続けることで幸福な感覚が起こってきます。これを毎朝、実践できれば良いのですが、そのときにはただ言葉で唱えているだけではなく、心の感覚に注視して心から念じることです。毎朝、慈悲の訓練をしていると、何処へ行っても会う人、会う人に慈しみの心を送れるようになってきます。私達は慈しみを信じましょう。東京に居ながら全国に慈悲を送りましょう。坐ってできる簡単なことです。

 日本に着いた日、成田から電車に乗ろうとしたら買ったはずのチケットが見当たらず、みんなで探していました。すると階段を上がってきた見知らぬ方が「貴女のチケットですよ」と私にチケットを渡してくれました。電車に乗ってから気づいたのですが、その渡されたチケットに指定されていた座席は、私の購入した座席とは違っていました。そこで、これは私の落としたチケットではないことに気づき、もう一度、チケットを探してみるとチケットが出てきました。

 つまり彼は自分のチケットを私にお布施してくれたのです。全く見知らぬ方だったのですがお布施してくれたのです。とても驚きました。日本人はとても親切です(笑)。彼に感謝し、またそのときお礼ができずに申し訳ない気持ちです。全く知らない人であっても慈しみの心によって、このようなことが起こります。私はその夜、彼に慈悲を送りました。

 また別の経験もしました。11年前の話ですが、アメリカからシンガポールへ帰る途中に乗り継ぎのため日本に立ち寄りました。飛行機は一時間ほど遅れていたのですが、急いで別のターミナルへと移動しました。他にも2~3人の人たちが私と同様に急いで移動していました。女性は私だけで、みなさんは男性でした。急がないといけない状況だったのですが、私も疲れていてゆっくりしか歩けないので困っていたら、一人の男性が来て荷物を持ってくれました。

 そして、「あなた一人ではなく、私たちも待っていますから急がなくても大丈夫ですよ」と声をかけて、とても親切にしてくださいました。その時、彼が自己紹介で「私は日本人です」と言っていました。私は一人ぼっちで、どうなるものかと心配していた時だったので、とても彼に感謝しました。そして「次は日本に行こう」と思ったのです。

 私はこのような経験が多いのですが、たとえ全然知らない人同士であっても兄妹同士が世話するような、そんな慈悲の気持ちに触れ、体験することでとても心が豊かになります。宗教が違っても、皆同じ心を、幸福感というものを持っています。皆が良い意志を持てば他の人にもそれが伝わります。そしてイスラム教の人たちともキリスト教の人たちとも友達になることが出来るのです。何処に行っても良い意志を持っていれば、私達は幸福になることができます。

慈悲と、嫉妬、怒り・・・どちらが良いでしょうか?
・・・返事が無いということは中立ですか?(笑)
慈しみのほうが良いですね。なぜならば慈悲の心は不善な心にはなりません。また慈悲の心を持つことで、不善な心も善い心へと変化していきます。ですから皆さんも、あまりケチケチしないで慈悲の心を送ってください。(笑)
ちなみにケチな慈悲というのは何だか分かりますか?自分や自分の周囲に対してだけ慈悲を送ることです。好きな人には送って、嫌いな人には送らない、そういう慈悲です。それはbroken metta(壊れた慈悲)です。壊れた慈悲にはパワーがありません。

 本当にパワーのある慈悲を送ろうとすれば、動物であれ、餓鬼であれ、全てのものに対して送りましょう。良いですか、そんな風にやってみてください。
今日はありがとうございました。

サードゥ! サードゥ! サードゥ!

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