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2010年1月

2010年1月28日 (木)

サヤレー法話「ヴィパッサナー瞑想で真実を見る」(2010年1月1日)

 皆さん、新年おめでとうございます。合宿では楽しく過ごされていることと思います。皆さんが、こうして集まり、智慧と気付きを持って、お布施をしたり、戒を守ったり、あるいは瞑想したりと、すべて善き行いをしているので、私も大変幸せに思っています。善きことというのは、善き人だけが行えることです。新しい年が始まり、私達が善きことをしていると、これはこの生だけではなく、未来の生にも良い結果をもたらします。

変化することがこの世界の本性

 全ての人は幸せに生きたいと願っています。そして、平安に死にたいと思っています。ダンマというのは理解するのがとても難しいのですが、心と体にしても、この世界あるいは宇宙にしても全て変化しているということがあります。私達は幸福でありたいと思っていますが、時としてその条件が変化し、不幸な状況になります。私達は毎日毎日、あるいは、毎年毎年、歳をとっていくわけですから、ダンマについて深く思いをいたす必要があります。

 人生というものも絶えず変化して、生まれ、歳をとり、病気になり、死んでいくという生老病死があります。それは、ダンマにおける人生四つの項目です。それで、一年をとってみても、ある時は幸福だったり、あるときは不幸だったり、苦しみが起こったりと、絶えず変化があります。変化するのがこの世界の本性であり、物事は絶えず変化しているから、私達は変化を受け入れなければならないと、仏陀はおっしゃっています。

 人生においても、ある時は一生懸命働いて、大変豊かになり、ある時は条件により、またカルマによって、貧しくなります。また、ある時はたくさんの人を従え、ある時は、誰もついて来ません。ある時は、人々に賞賛され幸せな気持ちになり、ある時は人々に非難され、落ち込みます。ある時は、この世で名声を挙げ、ある時は、誰にも認められません。

 これが、いわゆる世間における八つのダンマ(世間八法)ということです。こんな風に私達の周りのものは絶えず変化します。こういう変化は絶えず起こるわけですから、私達は瞑想することによって心を強くして、良い方へ行っても、悪い方へ行っても心が動揺することなく、それを受け入れバランスを保つようにしなければなりません。

ヴィッパサナー瞑想でこの世界の本性を見る

 私達はヴィッパサナー瞑想、観察の瞑想をして私たちの中で何が起こっているか、その真実を見ます。ヴィッパサナーというのは、心にしても、外の世界にしても、この世界の本性、本質を見るということです。ヴィッパサナーの第一段階では私達の体の中で何が起こっているかを見ます。それで最初に四つの要素、地、水、火、風がどんな風に働いているかを見ます。これは、瞑想をしていれば分かり易いことだと思います。ある時は硬く感じたり、あるときは柔らかく感じたり、ある時は熱かったり、ある時は冷たかったりと、そういう感覚を受け取ることができると思います。

 そして、ヴィッパサナーの第二段階は、体の32の部分について観察していくということです。瞑想の力によって体の内側を見ることができるようになって、その匂いであるとか、色であるとか、その真実を見ていくことができます。体の表面は皮膚に覆われていて、中まで見えませんが、集中力によって、その内側がどんな風になっているのか、汚いものもありますが、そういう事実を見て行きます。

 体の中の器官を見ても、長い間見ていないと、変化は分からないものです。ブッダは、あるところに焦点を当てて、現在の瞬間における変化を見なさいとおっしゃいました。例えば、病気になると、体の中の器官も、色が変化するのが見られます。例えば、集中力で自分の心臓を見ると、なかなか心臓は美しいものだとか思って執着が起こります。あるいは髪を見てみると、なかなか髪は綺麗じゃないかという風に、そこにも執着が起こります。どうですか、それは事実ではないですか(笑)?

 髪の毛などを美しいと思って執着するということがあります。髪の毛がなければ、美しいも何もありません(笑)。しかし、皆さんは、髪の毛を剃りたいとは思いません。剃ってしまえば安上がりなのですけれども。それから、時間の節約にもなりますし、いちいち手入れする必要もないですし、髪の毛というのはあまり綺麗なものではないから、本当は剃ってしまった方が良いのです。それが、執着になっています。

 そんな風に私達は自分の体のいろいろなところに執着しているために、ありのままに見ることが難しくなっています。そして、集中して、体の中を見ていくと、体の中にある細菌、黴菌の類がいろいろうごめいているのが見えて、それは、綺麗とはいえない状況です。皆さんそういうことを信じられますか、いかがですか(笑)?細菌同士が一緒になって、子孫を作ってどんどん増えていく、そういう状況が起こっています。細菌が生まれて死んでいく、そういうことが体の器官の中で起こっています。

 ですから、私達の体というのは、細菌の墓場でもあるのです。どうですか、これは事実ではないですか?集中力を持って、体の器官を見ていくと、どんな器官にしても細菌がいて動いているのを見ることができます。ですから、細菌の墓場である体に執着する必要は全くないわけです。本来細菌の墓場である体にさらに執着があれば、そういう時はさらに高い段階でのヴィッパサナーというものがあります。それは、体の部分をさらに細かくバラバラにして、ルーパ・カラーパという非常に小さな微粒子の集まりにまで分解してしまうという観察の瞑想です。

ルーパ・カラーパを見る

 私達の体には六つの感覚器官があって、それは、眼、耳、鼻、舌、身体と、もう一つは心が宿っているところの心臓。心臓のところに心が宿っていて、心基と呼んでいます。それで、例えばその一つの感覚器官である眼をずっと集中して見ていると、眼自身がとても微細な微粒子によって出来ているということが分かり、それを見ていると眼というものがなくなって、ただ単なる微粒子(ルーパ・カラーパ)の集まりというものがあるだけということなります。そうして、同じように、耳も、鼻も、舌も、身体も、あるいは、心の宿る心臓のところも同じように微粒子によって出来ているのが見えます。

 そして、ブッダは眼の中にはどんなルーパ・カラーパ、微粒子があるかを見なさい、とおっしゃっています。それで、眼のルーパ・カラーパに、それが作られる四つの原因があります。一つは、カルマによって作られるものであり、それは、どれがカルマによって作られた微粒子かというのを見ることができます。

 もう一つは心によって作られるルーパ・カラーパで、また別の一つは、温度によって作られるルーパ・カラーパです。四番目は栄養素が原因になって作られるルーパ・カラーパで、これは例えば食べ物を食べたときに、それが分解され栄養素になって、その栄養素によって作られているルーパ・カラーパがあるわけです。ですから、眼の中のルーパ・カラーパを見たときに、どれがカルマによって作られているか、どれが心によって作られているか、どれが温度によって作られているか、どれが栄養素によって作られているかをチェックします。

 さらに、そのルーパ・カラーパが、変化して、絶えず生じて滅してを繰り返しているのを見ていきます。変化しているために無常であって苦であって無我であるというのを見ていきます。もし、そのルーパ・カラーパが生じて滅しているのを見ることができなければ、無常ということ、変化ということを理解することが難しいのです。それで、この微粒子、ルーパ・カラーパの中にどんなエネルギーがあるか、どんな性質があるかを見ていきます。

 例えば水について言いますと、コップの中の水を集中して観察すると何が見えるでしょうか。非常に集中力が良ければ、水の中に細菌たちがいるのが見えるでしょう。信じられますか。水の中を集中して見てみると、細菌がたくさんいるというのを信じられるでしょうか。皆さん見ることができますか(笑)?

 十分な集中力がないと見えないわけで、しっかりした集中力があると、水の中にいる細菌を見ることが出来ます。さらに、鋭い集中力をもって見るとH2Oの分子が見えます。信じられますか(笑)?さらに、H2Oの中の水素について詳しく見ていくと、電子があり、陽子、中性子、全てその中にあるのが見えます。それは信じられないかもしれませんが、信じようと信じまいと科学者はあると言っていることですから、見ることに挑戦してみてください。

 今、私達は水の中に細菌がいるということを見ることが出来ませんが、私達が今見ることが出来ないからと言って、そこに細菌がいないということにはなりません。どうですか、それが事実ではありませんか?もし、本当に見たければ、しっかりとした集中力をつければ、見ることが出来ます。自分で試してみてください。
 それで、体の中の最小の微粒子であるルーパ・カラーパというのを見ることは大変難しいことで、なかなか実践できないのですけれども、それを実際に見ないと、この世界の本性、本質というのが見えてこないわけです。

 それで、見えない為にそれを見逃してしまって理解を得ることができません。ですから、透徹した集中力によってルーパ・カラーパを見て、それが生じて滅しているのを見て、この世界の本性というものを理解することが出来ます。

 私達の体だけではなく、外側の体も観察します。自分自身のルーパ・カラーパだけでなく、外の他の人たちのルーパ・カラーパを見ることによって、例えば太陽の光線が、ぱーっと入ってきたときに、空気中に浮かんでいる塵がキラキラと見えるように、周りの人々、男であるとか女であるとか言うことでなく、最終的に全部ルーパ・カラーパの集まりにすぎないというのがはっきり分かってきます。空中にもルーパ・カラーパ、空気の微粒子があらゆる方向に動いているのが見えます。

 そのことによって正見(正しい見方)が起ります。正見によると、男か女か、人間か動物か、などは関係なく全てルーパ・カラーパであると究極の真実が見えてきます。対象についての誤った見方があるために、自分は誰それであるとか、あの人は私の彼氏であるとか、これは私の両親であるなど誤った見方をして、執着しています。

 この人はあなたの妻あるいは夫でありません、と言われたら、皆さんは怒り出すでしょうか。でもそれが事実ではありませんか?例えば、この人はあなたの夫ではないから、誰かにあげてしまいなさいと言ったら、怒り出すでしょう。なぜなら、妻あるいは夫は自分に属しているので、誰にもあげることはできないと思っているからです。

 独身の人は自分自身を糸で縛りつけ、家族を持っている人は家族をチェーンで縛りつけ、執着しています。その縛りつけているものを切るとすれば、どちらが切りやすいでしょうか?独身者の方が容易です。家族がいる人は容易ではありません。それが事実ではないでしょうか?もし、苦しみから自由でありたいならば、結婚しないのが一番です。家族の絆を切るのは非常に難しいからです。

執着を切って行く

 そこで、真実を見ることによって、執着を切って行くことができます。自分や他人に対する執着は、いろいろな困難や問題を引き起こします。例えば、嫉妬です。嫉妬は、愛と憎しみによって起こります。どうして愛と憎しみが起こるかというと、その対象に対する執着があるからです。ブッダは、執着を持っている人に、ヴィパッサナー(観察)をして、その対象をルーパ・カラーパまで分解して観るように教えました。

 執着についての一つのお話をしたいと思います。ブッダには、ナンダという兄弟がいました。また、ジャーナパタカラヤミーという姉妹がいました(*註)。あるとき二人の結婚式がありました。ブッダもその結婚式に呼ばれて、食事の供養を受けました。ブッダは、昼食の供養を受けて帰る時に、ナンダに食事の鉢を渡して、付いてくるように仰いました。
(*註)シャカ族では、同じ世代の親類を兄弟、姉妹と呼び合っていた。

 ナンダは、門のところまで鉢を持って行き渡せば良いのかと思い、門のところまで付いて行ききました。しかし、ブッダはスタスタと歩いていったので、ナンダはジェータ林の祇園精舎まで付いて行かざるを得ませんでした。ナンダがブッダに付いて行く時に、ナンダの奥さんは、「すぐに戻ってきてくださいね」と言いました。そして、ナンダは、祇園精舎に着くまで奥さんの、「すぐに帰ってきてください」という言葉を反芻していました。

 しかし、ナンダが僧院に着いた時に、ブッダは頭を剃って出家するように言い渡しました。皆さん、彼は出家したかったと思いますか?彼は全く出家したいとは思っていませんでした。しかしナンダはブッダを恐れていましたし、尊敬もしていました。ですから、ナンダはブッダの申し出を断ることができませんでした。それで、ナンダは仕方なく出家しましたが、家に帰りたいという思いばかりがつのって、瞑想が進みませんでした。

 あるとき、ブッダは、天界にはいろいろ素晴らしいものがあるので神通力で天界に行こうとナンダを誘いました。「私には神通力がないので行くことはできません」とナンダは答えました。ブッダは、「私の神通力で連れていくので一緒に行きましょう」と仰いました。
 それで天界に行く途中、ヒマラヤの山々を横切るときに、そこで止まって、ブッダはナンダに、「あれを見てみなさい」と指をさしました。その先には、年老いた雌の猿が座っていました。そして、ブッダはナンダを天界に連れていきました。

 天界に着くと、天界の女神(デーヴィ)達が集まってきて、ブッダに祝福を捧げました。その女神達は大変に美しかったのです。ナンダは、美しい女神達を見て、喜び、一緒にいたくなり、ブッダに「この女神の誰かと一緒になりたい」と言いました。そこで、ブッダは、「この女神達を見た後で、奥さんのジャナパタについてどう感じますか?」と質問されました。ナンダの奥さんは人間界では大変美しい人でした。しかし、ナンダは、「天界に来て女神を見た後では、ジャナパタは来る途中で見た年老いた猿みたいなものです」と答えました。

 もし、皆さんのご主人がそんな風に答えたら、どう感じますか?(会場から)「すぐに離婚します」(笑)。 でも、それが自然です。なぜなら、人はいつも美しいものを探し求めているからです。また、変化するものを探し求めているからです。それが事実ではないでしょうか?

 ですから、手放してしまうことです。心をオープンにするということが大事です。心をオープンにして、慈悲の心を持っていれば、いろいろな変化を受け入れることができます。これは難しいことですが、少しずつ実践して行くことにより、徐々に心が安定し、平安になることができます。これがダンマ(理法)です。ダンマは、手放すということです。

 そこでブッダは、「もし天界の女神と結婚したければ、瞑想して阿羅漢になりなさい。阿羅漢になれば、私がアレンジしてあげましょう」と仰いました。ナンダは、「分かりました。瞑想します」と答えました。 ナンダは以前、瞑想が苦痛で仕方ありませんでしたが、そのような理由で、僧院に戻ってから一生懸命瞑想に励みました。

 そこでブッダは、侍者のアーナンダ尊者を呼び、「ナンダはいまとても一生懸命瞑想に励んでいるが、それは天界の女神と結婚したいからだ」と僧院の皆に伝えなさいと仰いました。アーナンダ尊者が皆に知らせた後、ナンダは僧院の人々から、「あなたは瞑想して、天界の女神と結婚したいんだって?」と聞かれて、非常に恥ずかしくなりました。それでも、とにかくナンダは一生懸命瞑想に励んで、ついに阿羅漢になりました。阿羅漢になると全ての執着がなくなり、女神たちのことはどうでもよくなりました。このようにして、ブッダはナンダが執着から離れるよう助けました。

 その後、宮殿に残されたナンダの奥さんは、ご主人やお母さんなど周囲の人が皆出家し、周りに誰もいなくなり、淋しくなってしまいました。そこで、出家すれば前の家族と一緒にいられると思い、彼女も出家しました。しかし、皆がクティ(小舎)でブッダの法話が素晴らしかったと話していても、彼女はあまり法話に興味を示さず、聴く気もありませんでした。

 なぜ、彼女がブッダの法話を聴きたくなかったというと、ブッダはいつも死体など、死の話ばかりしていましたが、彼女はいつも美人だと誉められて、美しいものに執着があったからです。それで、ブッダの法話のときには、前の方には決して座らず、見えないよう、比丘尼達の背後に隠れるように座っていました。

 しかしブッダは、神通力で彼女のいることが分かっていました。そして神通力を使って、16才ぐらいの赤いドレスを着た大変に美しい女性を創りました。その女性は、ブッダの横に座って、扇でブッダを扇いでいました。彼女は、美しいものに執着があるので、その女性を見て、大変幸せな気持ちになりました。ブッダは、彼女がその女性に惹かれているのを感じて、20才、30才、40才と徐々に年齢を変化させていきました。彼女は、女性の年齢が徐々に変化していくのを見ていました。ブッダは、50才、60才、70才、80才、90才とさらに女性の歳を変化させました。

 女性は、黒髪から白髪に変化し、80才、90才になってくると、病気になったり、あちこちが痛そうな様子を見せました。最後には、女性は死に、死体となって横たわりました。それを見ていた彼女は、次第に恐れの感情を持つようになりました。同時に、それを厭う気持ちが湧いてきました。彼女は、瞑想で深く自分を観ることにより、自分自身も同じように年老いて死んでいくことを知りました。ブッダは、さらに女性が骸骨になる姿を見せました。彼女は、それを見ながら、次第に瞑想に入っていくことができました。

 ダンマというのは、私たちが現在理解しているものとは反対の面があります。私たちは、醜いものを美しくしたいと思っています。しかしダンマでは、いかに美しいものでも、醜いものであると見ます。結局私たちは、そのような醜いものを理解し、そのような状態でも幸福になるよう努めなければなりません。

 それがダンマです。骸骨を見ると誰でも恐ろしく思い好きにはなれません。皆さん他人の骸骨を見るのが好きですか(笑)?ですから皆さんも良く瞑想してください。誰でも骸骨なのですから。それは美しいでしょうか?どんなに汚くても、あるいは醜いものであっても、それがダンマであってそれが事実ですから、我々は深く瞑想することによって、それがこの世界の本性であり本質であると知るわけです。

 ある時ある日私たちにはそういう事がいつか起こります。現在はすぐ火葬場に持って行って燃しますからそういう事を見ることはできません。でも亡くなった人の死体というのは見ることが出来ると思います。例えば死体を見ていると、美しいわけじゃないし、匂いもするし、みんな嫌だというような気持ちになるけれども、それでも死体というものに集中してそれを深く見つめて、瞑想していくことによって、次第にそれを受け入れていくことが出来るようになります。しかも深く瞑想することによって、心が段々落ち着いてきて、第一禅定まで達することが出来るようになります。

 私たちは事実を事実として本当のことを見ることによって執着というものを断ち切ることが出来るようになります。ジャナパナタは、そんな風にしてブッダの説法を段々聞くようになって、最後には瞑想をしっかりやって阿羅漢になることが出来ました。

カルマを見る

 今、私達の心とか体は、カルマという原因によって作られているものもありますが、それを見ていくことは大変興味深いことです。私達はカルマの支配下、カルマのコントロールの下にあります。カルマと執着というのは同じことです。今現在のこの生、生きているこの生があるのは、その前の過去のカルマがあって、現在ここに生きているわけです。

 皆さんそういう事を信じられますか?皆さん疑っているみたいですね(笑)。皆さん前のカルマすなわち、過去のカルマが現在の自分たちを作っていると信じられますか?では、自分がどんなカルマを作ってきたかが分かりますか。それを見ることが出来ますか?

 なかなか難しいでしょう。瞑想して、集中力によってヴィッパサナーの瞑想をすることによって、過去世を見ることが出来るようになります。そういう風に見ることによって、過去においてどんな行動をして、どんな行いをして、どんなカルマを作ったかというのを知ることが出来るようになるわけです。

 カルマを作る原因には二つあって、一つは無知、無明です。もう一つは、サンカーラ(行)で、心の中で何かを作り出す働きのことです。過去における無明、無知があって、次の生で私は男に生まれたいとか、女に生まれたいとかそういう意思が作られます。無明(アビッジャー)があると、そういう事が起こります。

 無明(アビッジャー)というのは不善な心なのですけれども、人間に生まれるには善きカルマ、善き行いをしていないと生まれる事は出来ないわけで、それで過去にどんなカルマを作ってきたかというのをチェックすることが必要なわけです。例えばお布施をしたり、戒を守ったり、あるいは瞑想をしたりすると、これが善い行い、善いカルマを積むことになります。それがサンカーラという心・意思(チェータナ)――その人の意思を作って、サンカーラという風に呼ばれているわけですけれども、それが過去にもあって、それで人間に生まれてきているというわけです。

 それが過去から現在に再生する主要な原因です。ですからこの二つの原因、無明と、行すなわち心の形成力(サンカーラ)ですね、この二つの要因によって現在私たちはここにまた生まれてきているわけです。
 ですから過去におけるこの二つが原因になっています。過去において亡くなる直前の事、亡くなる時の意思がとても重要です。死ぬ時の意識に、ある種のイメージが出てくる。そのイメージとは、その次に行くところのイメージです。それはほとんど色として出てくる。例えば次に人間として生まれとすれば自分が入る母親の子宮の中の色のイメージが出てきます。

 死ぬ瞬間の意識があり、その意識が次の瞬間には新しい生が始まる意識に繋がるという事で、そんな風に次々に繋がって行きます。次に新しい生が始まると、意識の次にナーマ・ルーパすなわち、心の働きと、体、物質的な働きが次に生まれます。それは原因と結果という関係でもあります。無知・無明(アヴィッジャー)があり、それが原因になり、サンカーラ、すなわち心が何かを思い、心が何かを作り出すという、心の形成作用が起こります。

 そのサンカーラ(行)が原因になって「意識」が生まれます。サンカーラ(行)というのは一つの意思ですから、意思があるために、「次に何かをしよう」というわけで意識が発生し、その意識があるためにナーマ・ルーパすなわち、心の働きと、それから体の働きが生まれるわけです。

 それからナーマ・ルーパ、心の働きと体の働きが起こると、次に六つの感覚器官が出来ます。六つの感覚器官が出来ることによって六つの接触すなわち、見るとか聞くとか外界との接触が起こります。六つの外界からの接触があると、次に六つの感覚が生じます。六つの感覚が生じると執着が起こります。

 この執着が起こるという所が境界になり、現在の人生と未来の人生が起こる、境界線になっています。ここが境界線であり、阿羅漢になると執着というものが無くなりますから、感覚から次の執着が始まるということが無くなって、ここで切れてしまい、阿羅漢では亡くなる時にそこから次に涅槃の方に行くようになります。

 今いかにして執着を切るかという事について、その連鎖について説明してきました。それから自分というのも無いし、他人とか彼女とか彼というのも無い。あるのはルーパ・カラーパだけであるという事を見てきました。現在の執着を断ち切ることが出来れば未来は、幸福な未来へ行くことが出来るわけです。

幸福な未来

 どうですか、皆さん、未来にまた違う人生を始めたいと思いますか。死んでから皆さんどこへ行きたいと思いますか?今、丁度年が変わったわけですけれども、人生が変わったらどこに行きたいでしょうか?年が変わってhappy new yearですけれども、自分の人生はどういうhappy new lifeにしたいでしょうか?
 
未来に人間界とか天界とかに行くと言うのがはっきり見えないとすればちょっと危険なことです。それが見えないというのは、happyなnew lifeに行くことが出来ないという事です。

 いかがですか、それが事実ではないでしょうか?
自分は次にどこに行きたいかについて、はっきりとしたイメージ、意識・意思を持つことが必要です。例えば天界に行くにしても、人によりいろいろな欲求があって、天界に行って大いに楽しみたいと思っている人もいるし、天界に行って瞑想をしたいと思っている人もいると思います。瞑想によって自分はどこに行きたいのかをはっきりさせるのが大事で、必要なわけです。例えばイギリスへ行きたいと思ったら、チケットを買う必要があり、何もお金を持っていなかったら行くことは出来ません。ですから良いカルマというのは大変重要なわけです。

 もし阿羅漢になっていたら、良き未来かどうかの心配をする必要は全くありません。阿羅漢になるのは私達にとってはちょっと難しいですから、良いカルマを積む、善い行いを積む事が必要で、1週間位のリトリートではそれほど充分ではありません。すべての事についていつもマインドフルすなわち、気づきをもって行うという事が必要です。

 色々なお布施をするというのも一つなのですけれど、こんな風に瞑想するというのが行いとしては善い行いという事になります。皆さん、下の世界に行きたいと思いますか?例えば死んだ後に、動物界に生まれるとか、地獄界に生まれるとか、そういう所に行きたいと思いますか?
 誰も行きたいとは思わないでしょう。それは、何故でしょうか?苦しみがあるからです。もし集中力があって能力があれば、下の世界の生き物たちが如何に苦しんでいるかを見る事が出来るようになります。

 心の中で、一つの過程、プロセスが起こります。例えば何か一つのものを見て、それに対して好きではない、嫌だという感情が起こると、一つの心の過程、一つのプロセスが一つのカルマを作ります。

 モッガラーナ尊者が下の世界、地獄へ行って、そこで苦しんでいる人たちにどういうカルマであなたは苦しむようになったのかと、いろいろ聞いて回ったそうです。その時にそれが怒りであったり、嫉妬であったりとかいうことで、その世界に行ってしまったと。それを見てみると非常に短い心の過程で、つまり怒りにしても大変短い怒りなのだけれども、それによって下の世界に行って長く苦しまなければならない、という事が起こるわけです。

 ですから私たちはいつも自分の心の中で、善の心を育てるように、いつもマインドフルで気づいているという事が大切です。マインドフル、気付きをいつも持っていないと、不善な心――怒りとか嫉妬だとかが起こって、それが重なってくることによって悪いカルマになって、最後の死ぬ瞬間に悪いイメージが現れてきたりします。

 ですから瞑想する時は楽しく瞑想するように、幸せに瞑想するようにして、1週間の瞑想合宿で苦しんだなんて、そういう気持ちを持たないようにしましょう。またその瞑想の対象に対して、あまり退屈にならないようにしてください。瞑想というのはとても楽しく幸せなものです。それを信じられますか?まあ皆さん眠そうですが。

 ですから皆さんに是非とも阿羅漢になってほしいのですけれども、それが無理だとしても次の人生、新しい人生はhappyな人生になるように、善い人生が生まれますように、善い行いをしてほしいと思います。例えばこのリトリートで熱心に瞑想して楽しかった、というような事を毎年毎年いつも思い出す事によって、段々心が良い方に、良い思いが積み重なって行きます。

 今年のゴールデンウィークは、サヤレー自身のリトリートがあるために来る事が出来ませんが、暮にはまた来る事が出来ると思います。今年で出家して20年経ちました。いままで、教えることばかりで自分自身の瞑想が出来なかったのですが、今年は自分自身の瞑想をしたいと思っています。集中力と瞑想を深める事が出来れば、さらにパワーアップして、また皆さんの瞑想を成長させるために教える事が出来ると思います。

 よろしいですか。天国、天界の名簿に、皆さんの名前を書き込んでおきます。天国の王様にEメールで送っておきたいと思います(笑)。毎年この人たちは善いことをしていると書いて送ります。ブッダの時代にお布施をすると、お布施というのは大きなカルマで、徳を積んだ事になって、それが結果となってすぐ現われました。

 例えば誰かがお布施をすると、天界に大変美しい立派な家が出現しました。モッガラーナ尊者は度々下の世界に行きますが、上の世界にも行ったときに、この美しい家を見て、「この綺麗で立派な家は誰の家ですか」と尋ねたら、「いや、まだそこの住人は来ておらず、下の人間界に居ます」という答えでした。ブッダにお布施をした人の、お布施の力、徳の力で家が出来てしまったということがあったそうです。

 お布施でさえこれだけの結果が出るのですから、瞑想による功徳、力というものは、もっと強いわけです。皆さんも天界で誰もが立派な家を持っていることと思います。ですからhappy new yearならぬhappy new lifeをお祈りいたします。
今日はありがとうございました。

サードゥー! サードゥー! サードゥー!


サヤレー法話「苦の原因とその止滅」

 皆さん、今晩は。そして新年明けましておめでとうございます。
今日は、みなさんに人生の本性、本質という事についてお話したいと思います。今、新しい年を迎えたわけですけれども、私たちは毎年毎年、歳をとって変わっていきます。年も新しく変わるし、また自分たちも新しく変わっていきます。その変っていくということが、一つの本性であり流れなのです。

苦しみの原因について

 ブッダは、いつも弟子である比丘や比丘尼たちに、四つの聖なる真理、(四聖諦)について教えました。今日はその中で二番目の真理について話したいと思います。四つの聖なる真理という事については、すでに存知の方もいらっしゃるだろうし、初めて聞くという方もいらっしゃると思いますので、ここで少し説明しておきます。四つの真理というのは、一番目が苦しみについての真理。二番目が、苦しみの原因についての真理。三番目が苦しみの止滅、終わらせることについての真理。それから四番目が苦しみの止滅に至る修行の道についての真理。それが四つの真理です。

 苦しみはどこから起こるかという事について、ブッダは五つの集まり(五蘊)から苦しみは生じると仰っています。五蘊というのは何かというと、色・受・想・行・識といって、要するに私たちの心と体の事です。心と体から苦しみは起こるという事を仰っています。それで私たちは、生まれた時から心と体を持つわけですけれども、その心の中に特に知恵を持っています。

 例えば15歳ぐらいの時に、先生は私たちに何が正しくて何が間違っているかという事を教えてくれます。それに従って私たちは善き事、正しい事をして間違っている事はしないようにという風にしてきました。善い波羅蜜(パラミー)、善い徳を持っている人はいろいろと善い事を教わってくるのですが、そうではなく、あまりよくない波羅蜜を持っている人はそういう事を教わっても善い事をしようと思わずに、不善な事をしてそれを積み重ねて行くという事があります。

 それが第二の真理、苦しみの原因の真理という事に関わってきます。私たちは心と体を持っています。どうして現在私たちがこういう風にして心と体を持って存在しているかという原因をたずねていくと、それは過去にあるわけです。つまり過去の心と体があり、過去の執着というものが現在を作り出している。そういう原因があって結果がある。過去の原因が現在を作っているという風になっています。それで、過去のどういう原因が現在を作っているのかという事を私たち自身でチェックをする必要があります。その場合二つ大事なものがありまして、まず第一は無知という事です。何もよく知らない、分かっていないという事です。二番目が、サンカーラと言って、日本語に訳すと「行」です。行いとか行為という事です。善い行いをする。そうすると善いカルマ(業)を積むというように、過去における行為が原因となるわけです。

皆さん、過去に自分がどういう事をしてきたかという事がわかりますか?
どんな善い行いをしてきて今ここに居るかという事がわかりますか?
過去の原因と現在の結果というものが分からないと、すなわち、「縁起」(十二因縁)、において過去と現在が分からないとそれが理解できずに、預流果(ソータパン)いう悟りの第一段階に至るのは難しいわけです。ブッダは、侍者であったアーナンダ尊者に縁起について語っています。縁起について理解できないと、最初の悟りには至る事が出来ないと。だから、縁起を理解するためには、過去の自分の行いを知る必要がある。過去の行いをどうしても調べる必要があると仰っています。

 先ほどあげた第一の項目である無知、あるいは無明という事ですけれども、これは間違った考え、間違った思い込みですね、これを持っているという事です。どんな風に間違っているかというと、私たちは例えば死ぬ時に、死んでまた人間に生まれ変わりたいとか、あるいは天界の神に生まれ変わりたいとか、あるいは動物に生まれ変わりたいとか、そんな風に思ったりするわけですけれども、それは誤った考え方であるということです。

欲・怒り・無知

 人間は、執着というものを持っています。何か欲しい、これがしたい、あれがしたいという風に思ったりしますが、それが貪欲(lobaローバ)です。その貪欲、「これが欲しい」、「あれがしたい」という欲と、それから見方・見解(ディッティ)、とくに間違った見解、とが結びついて、アクサラ(不善な)グループを作っていいます。これは、欲を持っている人の話です。

 また他のタイプの人がいて、怒りを根本に持っています。怒りを持っていると次は動物界に生まれたり、あるいは地獄界にいったりという事になります。そしてもう一つのタイプは、無知で、何もよく分かっていない。迷いとか、妄想、迷妄の人たちのグループがあって、まとめると、欲と怒りと無知、貪瞋痴と言いますけれども、この三つのタイプと、その反対の、欲がなくて不貪、怒りがなくて不瞋、無知の反対である智慧。その六つのタイプによる原因でまた次に生まれ変わって行き、その原因により結果が表れるという風になります。

 それで一番最初のグループの人たちは、欲(ローバ)のグループですけれども、この欲を持っている人達は、人間として生まれてくると、若い時にとても欲張りであって、何がしたい、何が欲しいという風に「欲しい、欲しい」というような人になります。そういう人達は、若い時から色々な物が欲しいのと同時に、例えば眼に美しい物があると、それに執着するという傾向を持ちます。美しい物が眼から入ってきて、それ執着するだけでなくて、耳から入ってきたもの、例えば美しい音・音楽とか、そういうものに執着します。あるいは鼻から入ってくる匂い、芳しい香り、それから舌で感じるおいしい味、それから身体で感じる快い感覚とか、そういう感覚に対して執着します。欲のタイプの人達というのは、そういう執着という事が起こりやすいのです。

 その欲を持つ人たちは、感覚が起こった時に「これが好きである」という心が起こる。六つの門から入ってきたものに対して「これは好きだ」という風に思います。「これは好きだ」の次が、「それに愛着する」という風になり、そして「欲しい」という事になって、それが手に入れば非常に幸せで満足なのだけれども、それが実現されない、手に入らないと怒りが出たりとても不満足になります。あるいは人間に対してだと嫉妬の感情が起こったりという事があります。嫉妬の感情が起こるとそれは不善な心です。心を善と不善に分けると、不善な心を作り出すわけです。

 例えば一軒の家を持ち、車を一つ持っている。しかし、それだけでは満足できないで、もっと立派な家が欲しい、もっと良い車が欲しい、ということで、セッセとお金を貯めようとして仕事に精を出して、働いてそれを得ようとするわけです。ですから何かが欲しいとなると、一つでは絶対満足できずに、あれもこれもと言うようにもっともっと欲しくなって、それが死ぬまで終わらないわけです。ですから一生懸命働かなくてはならなくなって、満足が得られないために苦しむことになります。

 自分の満足を得るために、お金を稼ごうとして仕事で疲れきって結局短命に終わったりするわけです。それで智慧を持つという事が大事なのです。人間として生まれてきた以上、日常的に智慧を持つということが大事ですけれど、一般に人間というものは智慧に従う、というより欲に従って生きるという事がほとんどです。欲に従って生きるから苦しみが起こるわけで、私達はそこでバランスをとる必要があります。

より良い人生と瞑想

 蓮の花は、泥の中から顔を出し、朝早く日の出と共に開き、美しい花を咲かせます。他の花、例えば、バラも同じく日の光を浴びて花を咲かせます。しかし、他の花は、日が沈んでも咲いたままになっているので、すぐに散ってしまいます。一方、蓮の花には智慧があり、太陽が沈むと花が閉じてエネルギーを蓄えます。従って、蓮の花は、他の花と比べて、長く生き延びることができます。

 人間の平均寿命は、ブッダがいらっしゃった時代と比べて短くなっています。ブッダがいらっしゃった時代は100歳を超えていましたが、だんだん短くなり、現在は世界的に見ると60~70歳くらいです。たまに良いカルマを持った人が、100歳を超えるくらいです。

 仮に人間の平均寿命を60歳としますと、20歳まで、40歳まで、60歳までの三つの期間に分けて、自分がどの期間にいるかということを考えてみるといいと思います。50歳だと人生の終わりに近づいていますし、30歳だと人生の半分がすでに過ぎ去っています。現在、30~40歳の人は、昼も夜も非常にハードに働いています。どのようにしてエネルギーを節約するのかを知らずに、仕事にエネルギーを使いすぎて、体も心も大変疲れています。従って、病気になり易くなり、寿命が短くなってしまいます。

 もし人生を本当に良くしたいのであれば、エネルギーを節約する必要があります。40歳からは、本当は仕事を止めて、リラックスして、心を平安にすることを考える必要があります。リラックスするために一番良い方法は瞑想です。ところが、瞑想をすると、いろいろな痛みが出てきます。しかし、それは最初のうちだけで、集中が良くなってくると、そのような苦しみはなくなってきます。例えば、瞑想の合宿に参加するとか、毎日家で瞑想を続けていると、集中力が高まってきて、心が平和になり、強くなってきます。心が強くなってくれば、体も強くなり、非常に健康になり、病気になりにくくなります。

 また、瞑想をすることにより、心が平和になってきます。さらに、瞑想は、他にも多くの益をもたらします。疲れたり、歳を取ってくると、病気になりやすくなります。病気は死をもたらします。私たちがいつまで生きられるかという保証はありません。明日にも死んでしまうかもしれません。ですから、私たちは、病に直面する準備をする必要があります。病気になると、病院に行って医者に診てもらうわけですが、治療できる病と、治療できない病があります。瞑想をしていると、自分で自分の体を治療できるようになります。

 昨日6日間の瞑想合宿を終了しましたが、初日に1人の瞑想者が、激痛を訴えて、救急車で病院に運ばれ、診察を受けました。診察の結果、腎臓からの管に結石があり、痛み止めの薬をもらって、何とか合宿に戻ってきました。次の日に、彼はサヤレーのところに来て、痛みがひどく不安なので帰りたいと訴えました。

 彼は、サヤレーが毎年日本に来るたびに合宿に参加していて、非常に集中力に優れています。それで、サヤレーは、「家に帰らずに、一日四界分別の瞑想をすれば、回復するでしょう。もし、回復しなければ、そのときは帰りなさい」と言いました。そして、サヤレーは、集中力をもって四界分別観で、石があり痛む箇所に火の要素で熱を当てて、水の要素で流すように決意してやりなさいと指導しました。彼は、一日指導されたとおりに瞑想をして、次の日再度病院に行き、医者に診てもらいました。そうすると、細い管にあった結石が膀胱に落ち無くなっていたので、医者も非常に驚いていたそうです。このように、医者でもなかなか治せない病気も、瞑想で治すことができます。

 瞑想をして、私たちの智慧を育てていくことは、大変良いことです。私たちは多くの欲を持っています。これらの欲を手放していくのには、瞑想が最も良い方法です。瞑想をすると、欲とは何か、体と心の中でどういうことが起っているのか徐々に分かってきます。体と心において全てが生じて滅している、すなわち無常ということを徐々に理解していくことができます。それにつれて、すこしずつ執着を手放していくことができます。

 その反対に、欲を持たない不貪の人、例えば、お釈迦様がブッダになる前の菩薩は、天界のトゥシタ天にいて、天界の神々が話を聞きにきていました。菩薩は、慈しみの心と、苦しみを持っている人への共感の心、つまり慈悲の心に溢れていました。人間界に生まれ変わることを決めて、母親の胎内に入って行ったときもその慈悲の心を持ち続けていました。ブッダは、若い頃から執着がなかったので、何でも気前よく人に上げたり、お布施したりしました。最終的には、29歳のときに、奥さんや子ども、立派な宮殿まで手放して、静かな森へ行って、毎日瞑想するようになりました。そして、慈しみの心を持って瞑想に励みました。
 
 また、無知(moha)の人は、智慧を持っている人とは正反対の人で、瞑想を始めるとすぐに眠気に襲われます。心は澄んでおらず、どんよりしています。努力を持って何かをしようとする精進の気持ちがあまりなく、自分がリーダになって皆をまとめていこうという気持ちがなく、いつも誰かに従って行こうとします。無知の人は、あまり一生懸命働きたくなく、夜も昼も寝ていたいような人です。ある経典で、ブッダが、過去において蛇であった人が人間に生まれると、眠りこけるのが好きな人になると仰っています。

外の世界と関わる四つの条件

 このように、人間には6つのタイプの人がいて、6つのタイプのうち各自の持っている本性は、一つの生から次の生へと受け継がれて行きます。私たちは六つの感覚器官、つまり、眼耳鼻舌身意の六つの門を持っていて、六つの門を通じて、対象と接触します。目に対して色、耳に対して音、鼻に対して香り、舌に対して味、体に対して接触感や熱、心に対してイメージや思考といった対象が、それぞれ重要になります。

 それで私たちの本性、本質として、例えば眼にいろいろな対象が飛び込んでくると、それが次に心に来るわけです。例えば音が耳に入り、その次に心に入ってきて、心がいろいろと始めるわけですから、六つの感覚器官をコントロールするということがとても大事であると、ブッダはおっしゃっています。 六つの感覚器官をコントロールするというのは、マインドフル、つまり「気付いている」ということ、「サティ」と言いますが、気付きをもっていることが大事である、とブッダはおっしゃっています。

 例えば、私たちが何かを見るとき、外の世界との接触をするわけですが、そのときに見えているというのは、物があるからただ見えているというわけではなくて、四つの理由、条件があります。第一に、そこに何か対象があります。それがないと見えるわけがない。それと、眼の中に(対象を)受け取る透明な要素がある。眼という器官があるということ、これが二番目です。それだけではだめで、さらに光が必要なわけです。物があって眼があっても、例えば真っ暗な中では何も見えない。要するにそこに光があるから見えてくるのですが、三つ目の要素は光です。

 それからもう一つ、四番目に大事なのは、心の働きで「マナシカーラ」とパーリ語でいいますが、「作意」すなわち注意を向けることです。見えていてもそこに心が向いていないと、物があっても見ていない。そちらに注意力が向かったところで初めて、映像が心に見えてくるということがあるわけです。それで映像、眼識、つまり眼の意識が生じる。この四つの条件があることによって眼識が生じるということになります。

 今言いました眼の意識、「眼識」が生じると、つまり何かを「見た」次に、心のプロセスが始まるわけです。このときに、さっき言ったマナシカーラ、つまり注意力、心をどこかに向ける働きのマナシカーラ(作意)というものが重要になります。
 マナシカーラについても、「善」なるマナシカーラと「不善」のマナシカーラがあって、善い方向に向けているマナシカーラがあるときは、次に起こってくるのも善の心のプロセスが起こってきて、善くない方向のマナシカーラだと、不善な方向の心のプロセスがその後に続いて起こってきます。

 今言いましたように、マナシカーラ(作意)という、心を向ける働きに、正しいマナシカーラと不善なマナシカーラがあるわけです。その正しいマナシカーラを持つということがとても大切です。
 ここで二つ大事なものがあって、もう一つは「意思」(cetanaチェータナ)、「何かをしようという意思」がマナシカーラと同時に大事なものです。その二つを持って、外の世界といかに関わっていくかという訓練をすべきである、とブッダはおっしゃっています。

 そのときにメッタ、 慈しみと、カルーナすなわち苦しんでいるものへの共感、つまり慈悲の心を養って、外の世界と関わっていく。そうすると、例えば人々と関わるときにもこの慈しみの心があれば、その心で人々と関わるから、その人も相手の人も、怒りを持つことがなく、平和な感覚の関係ができてくるということで、その意味で正しいマナシカーラが大事だということです。

 私たちは家族、友人、会社の同僚など、いろいろな人と付き合っていくわけで、こんなふうにして良い関係をもつということがとても大切です。他人と、メッタつまり慈しみの心で関わるということがあれば、他人だけではなく自分自身も心が平和になり、怒りも起こらないようになる。ですからそこが大切なのです。

 知恵を持っているタイプの人は、心をいつも良い方向、善なる方向に向けることを第一にします。自分の心をいつも良い方向に向けている。それと他人の感覚によく気付いている。そうすることによって良い関係を築こうとします。良い関係を持とうとし、また良いカルマを作っていこうとします。これが、知恵を持っている人がすることです。

苦の循環を断ち切る

 次の話ですが、さっき話しました「縁起」、つまり原因と結果の循環がいつも、廻っているのですが、それをいかにして断ち切るかです。 ブッダは、縁起を切るためには、ヴィパッサナー、つまり「観察」、「洞察」によりそれを切ることができるとおっしゃっています。それは、自らの心と体を観ていくのですが、まず体についていうと、眼にしても耳にしても、体という物質的なものは、最終的に「ルーパ・カラーパ」という微粒子、最小の微粒子の集まりによって成り立っているのです。その最小の微粒子が生じて滅して、絶えず生滅を繰り返している。生じては滅しているということが起こっている。それを観て、自分の体そのものをその微細な所まで観て、粉々に分解していくのです。

 自分だけでなく、他の人たちについてもそういう風に観ていく。ルーパ・カラーパ、物質の最小の微粒子が、生じては滅している。滅してしまうからこれは苦しみであり、それは自分というものがない、つまり無我である。そのように無常、苦、無我というものを観ていく。それを内においても、また外においても観ていく。
 すると、彼である、彼女である、あるいはこの人である、自分であるという考え、見方はなくなってしまって、単に「ナーマ」と「ルーパ」つまり心と物質の働きがあるだけである、とだんだん分かってくるわけです。

 名色、心と体を観察し、最終的に心と体は無常、苦、無我であると観て、そのように世界、この現象界の本質を観ることにより、智慧を成長させて行く。すると、自分が死んだら次はどこに行くかということについて、例えば天界に行くとか、また人間に生まれ変わろうと言うような考えが無くなってしまう。というのは、この世界の本質はルーパ・カラーパという最小の微粒子が生じて滅しているだけであると観えてくると、次に人間であるとかいう考えは無くなってしまう。

 そうすると、次に人間界にしても、天界にしてももう生まれ変わることがない。どこへ行くかというと、涅槃というところに行くのです。執着を断ち切って、執着がなくなると、行くところは涅槃になるわけです。ですから執着を切って涅槃に行くのが良いのですが、まだ涅槃に行きたくないという人は、慈悲の心を成長させることによって、よい行いを積み、よい人生を送ることが望ましいのです。

 今、新年を迎えました。毎年毎年、新年、新年と言って、新しい年を迎えていますが、あるとき新しい年がもう無くなってしまうこともある。つまり、自分が死んでしまって、もう新しい年は来ないということがあるわけです。
 では皆さんは、死んでから次はどこへ行きたいと思っていますか?
 皆さん、自分がいつ死ぬか、分かりますか?
 明日死ぬという可能性もあるのです。信じられますか?
 皆さん、死ぬ準備はできていますか?

 今、私たちは自分の家を手入れして綺麗にしようとか、豊かなものにしようとか、現在の家を大切に世話していますが、では未来はどこへ行くのか?未来の家はどうなるのかを考えて、未来に対して準備することが必要です。

 皆さんは自分の心の中に、次に行くべき家のイメージがありますか?次はどこに行くのかと。
次に地獄界には行かない、という確信はあるでしょうか。いかがですか?
どうぞ皆さん、自分は上の世界に行くのか、下の世界に行くのか指で示してください。
今の世界で欲を持ち、怒りが強く、また無知で、迷いがあり、嫉妬が多くなど、不善なことをしている人々は、地獄界や動物界など下の世界へ、行きたくなくても行ってしまう可能性があります。
皆さんは、欲望、怒り、無知(貪、瞋、痴)を持っていますか?

 新年の課題として、今日帰ったら、自分の中にどれだけ欲、怒り、無知や迷いがあるのかを、よくチェックしてください。自分の心をチェックしてみてください。自分の体が病気になったとしても、心は体に従わないで、心の方は良いカルマを作ろうと思えば、例えば瞑想に励むなどして心がしっかりしていれば、体もそれに付いて来ます。心の方は良いことをするように努めてください。

 自分自身の心や体について面倒を見て、自分で世話をするようにしてください。この世界は無常だからといって、瞑想も無常なので帰宅したら無くなってしまった(笑)、というような事にならないようにしてください。
 家に帰っても1時間、2時間と瞑想するようにしてください。痛みもあるでしょうが、痛みが出てきてもどうということないでしょう。私たちが未来について準備することが肝心ですから。

 人々がいろいろ苦しんでいるのを見て今の話をしたわけですが、この話をどう受け取るか、あるいは受け取らないかは、その人のカルマによります。皆さんに任されているということです。今の話を聞いて瞑想など、次の世界に向けて準備をすれば、それはその人のなかで非常に益となり、得るところが多いと思います。

 今日はありがとうございました。皆さん、身体に十分気をつけて、世話をしてください。

 サードゥ! サードゥ! サードゥ! 

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2012/8 宝台樹高原

  • 6
    8月に合宿の行われたみなかみ町藤原は宝台樹山のふもとにあり、冬はスキー場になる高原風ののどかな村です。

2009年クムダ・セヤドーのお寺 

  • 10 セヤドーのお話を聞く
    ミャンマー・ヤンゴン市郊外モービにあるクムダ・セヤドーの瞑想センターを訪ねた方が写真を送ってくださいました。 シーマホールも完成し、そこには富士山をバックにした仏像がまつられています。

2008/8 水上合宿

  • 雨上がり
    8月に合宿の行われた水上町藤原はまさに水の里。民宿周辺の風景をお届けします。

2008 夏の風景

  • 朝霧の沢
    夏の暑い日、川の源流では入道雲が湧き、山や木々は様々な表情を見せていました。

2008/7 関西合宿・瞑想会

  • 延命寺三門にて
    大阪、河内長野市にある延命寺は弘法大師空海が開基と伝えられ、市の紅葉名所にもなっている美しいお寺です。 ここで7月、クムダ・セヤドーをお招きして一週間の瞑想合宿が開かれました。
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