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2009年2月

2009年2月26日 (木)

サヤレー法話:宗教とダンマ(理法)  (08.12.27)

宗教とダンマ(理法)

 今日は、宗教とダンマ(理法)についてのお話をしたいと思います。ダンマはブッダが作ったもので、とても大切なものです。ブッダのことについてお話しますと、ブッダは2500年前に、インドでお生まれになり、出家をし、真理を求めて修行しました。
 ブッダは王家に生まれ、大変良い生活環境にいたわけですが、その時に波羅蜜が熟して、この世界に生きるすべての人々が、苦しみの中にあるという思いを抱いて、王宮を離れ、修行に出ました。ウルヴェーラの森で修行したのですが、それは大変厳しい修行でした。たとえば食事を取らない断食修行などをして、骸骨のようになって修行をしました。

 6年間にわたってそのような修行をしたのですが、非常に厳しい修行をしても阿羅漢になることはできませんでした。それで今までの自分自身を省みて、王宮で生活していたときの事を思い出しました。そのときにも瞑想をしていて、そこではとても恵まれた生活をしていたのだけれども、そこでも悟りを開くことは出来なかった、と思いました。
 王宮にいたときはとても快適な生活だったけれども、そこを出てからの6年間というのは、森の中で断食をしたり非常に厳しい修行をしてきたにもかかわらず、悟りを開くことは出来なかった。

 それで彼は、その二つの生活を省みて、とても快適な、気持ちの良い生活でも悟りは得られないし、もう一方の、苦行ともいえる厳しい修行においても、悟りは得られないと思いました。つまり両極端を行ったのでは、悟りは得られないので、中道を行こうと思うようになりました。
 そのようにして彼は29歳で出家し、6年間修行して35歳のときに、阿羅漢になりました。悟りを開いた35歳の時から、亡くなる80歳まで、45年間、ブッダは人間に、あるいは梵天たちに対して、ダンマを説くという仕事をしてきました。

 ブッダの説いたダンマは、三つあります。一つ目は学習、学ぶことです。二番目は実践、実際の修行ということです。三つ目は洞察です。見て、それを認識する。とても深く洞察するという、その三つがあります。ブッダの説いたダンマ(理法)というのは、どんな人でも、どんな宗教の人でも学ぶ事が出来ます。

 宗教ということについて言いますと、宗教はダンマとは違うものです。宗教には三つの特性があります。第一番目の特性は信じるということです。神であるとか、ブッダであるにしても、信じるということがまず第一番目にあります。二番目は崇拝。三番目は祈りです。神に対しての祈りです。

 全世界を見てみると、四つの宗教があります。一つ目はインドのヒンドゥー教です。ヒンドゥー教というのは大変に長い歴史があって、いったい誰が作ったかというのはよく判りません。二つ目は仏教です。仏教については誰が作ったかというのははっきりしているわけで、2500年前にブッダが悟りを開いて、ダンマを教えるようになったというわけで、三つの教え、三宝、仏・法・僧の三つを礼拝します。
 ブッダが亡くなってから600何年か経って、イエス・キリストが生まれました。ですからキリスト教というのはブッダが亡くなった後600年ぐらい経ってから出て来たわけです。

 最も現代に近いのはイスラム教です。イスラム教というのはブッダが亡くなってから1170年あとにモハメットが生まれました。ヨーロッパやアメリカではキリスト教が大きく広がっています。アメリカとかヨーロッパだけではなく、アジアの国々でも、キリスト教は広まっています。アジアの国ではイスラム教も混在して、全てが混合しているという状態です。

 見てみると全ての宗教に自分たちの信じる神という、信じるものがあります。それでまた宗教には礼拝とか崇拝というのがあって、イスラム教では1日に5回礼拝します。私たち仏教徒もブッダを礼拝しています。
 先ほど言いました三番目に祈りというのがあり、キリスト教にしても「神が私たちを守ってくださるように」とか、仏教徒は「ブッダが守ってくださるように」とお祈りします。

 宗教においては、祈りとか崇拝とか礼拝というのがあって、それで十分なのですが、ダンマというのはそれとはまた別なもので、それだけではないものです。たとえば自分がガンなどの重い病気になって、医者へ行く。医者へ行って薬を処方されるのですけども、その時にお医者さんがいて、薬があって、その薬を信じるかどうか、ということがあります。飲まないということもあるわけです。

 先生を信じるだけで、薬を飲まずに、「治してください。治してください」と祈っても、それで治るでしょうか?それはなかなか難しいことです。ですから祈るだけで病気が治るわけではないのです。その場合には、実際に薬を飲まなくてはならないわけです。

 私たちの人生には波があって、良いときもあれば悪いときもあり、大変厳しいものです。人生というのは海みたいなものであって、天候が良くて静かなときは、船で出てっても大変に平和でどこへでも快適に行く事が出来ます。ところが状況が変わって、天候が悪化し、波が来たり、津波が襲ったりとか、状況が悪くなってくると、航海するのが大変困難になってくるわけです。

 そんなふうにして海と同じように人生も上手く行く時と、大変に悪い状況になってしまう時もあります。嵐が来たときにどうやって泳ぐかということを知らなければ非常に困難なことになります。それでブッダは私たちに、海に放り出されたときにどうやって泳げば良いのかということを教えてくれました。つまり、いかにして苦しみから抜け出すかということを教えてくれたわけです。

 先ほどの、お医者さんの例に戻りますと、お医者さんが出してくれた薬というのはダンマ(理法)に当たるわけで、そのダンマを適切に使って飲めば、人生の苦しみを無くす事が出来ます。それでブッダが言われたのは、私たちはしっかり学んで実践して洞察しなくてはならないということです。
 私たちが学ばなくてはならないダンマなのですけれども、それはブッダが教えてくれたティピタカ(三蔵)の教えです。全てのダンマは三蔵の中に含まれています。

 三蔵というのは三つの籠(かご、バスケット)ということですが、まず第一番目にスッタ、お経です。二番目は戒律です。三番目がアビダンマです。一番目の経典ですが、これは人生どのように生きて行ったら良いかということを教えてくれているものです。二番目の戒律というのは、いかに自分の言葉、話とか行動をコントロールするかということを教えています。三番目のアビダンマというのは、私たちの心とか心所、身体についての理解を教えています。

 私たちはそれで、洞察力によって自分たちの体の中を見る。自分の身体にしてもそれを洞察していって、最小の微粒子の集まりであるルーパ・カラパとかを見るわけです。心について言うと、善心とか不善心とか、あるいは原因と結果、原因があってこういう結果が生まれたとか、そういうことを見ていきます。
 そういう風に洞察をする時に、集中力がとても必要になってきます。集中力を成長させるためには、まず慈悲の心の訓練が、心を安定させて、集中力をつける基礎になります。

 今日は五戒を唱えたわけですけれども、その戒の中には二つがあって、一つは言葉です。言葉についての制御。もう一つは行いです。実際の行動ということです。言葉と行いという二つがあります。体を使った行ないに対するコントロールとして、まず一番目にあるように、生き物を殺さないということがあります。

 二番目、三番目の、自分のものでないものを盗まないとか、あるいは性的な不道徳をしないということは、これも体を使った行いのコントロールです。それから、アルコールやドラッグを飲まないというのも、体を使った行いのコントロールです。
 それで、言葉を使った行いのコントロールとしては、四番目の嘘をつかないという戒律があります。話をするときには真実を語るということが大事です。それから誠実であるということ。礼儀正しく話すということ。調和、ハーモニー、和ということを大事にして話すということ。そのように話せばお互いに有益になります。

 たとえ正しい事を話していても、時間について適切でないと、ちょっとおかしなことになります。タイミングというのがとても必要なので、例えばとても怒っていて、「あいつを殺してやる」と思っている人に、「あなた、メッタが必要ですよ。慈悲が必要ですよ」と言っても、その人にはあまり効果がないので、タイミングをよく見て話さなければなりません。

 ですから、話をする、言葉を出すときは、注意する必要があり、いつも良い言葉をかけるようにする事が大事です。私たちもそのように、言葉と行いをコントロールできるようになれば、その人はとても良い人間になることができます。戒律をちゃんと守るようになればとても良い人間になることができます。
 私たちの人生は非常に短いわけです。100年生きられるわけではないし、大変短いものです。ですからこの人生において、言葉と行いについて戒をしっかり守ると、とても良い人生にする事が出来ます。

言葉と行いと二つ話しましたが、もう一つ心があります。言葉と行いに気をつけていても、心がしっかりしていないと非常に危険なことになる。私たちの心というのは、いつも貪瞋痴―欲と怒りと無知―という三つによって揺り動かされています。
 その三つがとても多いと、心はいつもかっかと熱くなっている状態です。ブッダは心を集中することによって、心を静めていくということを言われました。瞑想することで心をコントロールすることを身につけていくということをおっしゃいました。

 私たちにとって大事なのは、戒とサマーディ(集中力)、それと慈しみの心(メッタ)、苦しんでいるものに対する共感(悲、カルナー)、二つ合わせて慈・悲です。その慈しみと苦しみに対する思いやりというのはハートを使ってするものです。心は心臓で起こるから、慈悲の瞑想をするのが大事です。

 皆さん、心は頭にあるのか、それとも心臓のところにあるのか、どちらだと思いますか?10年前、サンフランシスコに行ったときに、質問した人がいました。その人が質問したのは、私たちの心というのはいつも頭から生じるが、サヤレーはハートベース(心基)から起こってくると言われます。それは実際どうなのか、という質問でした。

 それでこう答えました。あなたに二人ガールフレンドがいるとして、一人は、「頭であなたを愛しています」というガールフレンドで、もう1人は、「ハートであなたを愛しています」というガールフレンドがいるとしたら、あなたはどちらを愛しますかと。
みなさんどちらを選びますか。頭から愛する人のほうですか。
 そういうふうに逆に聞いたら、その人は「いや、私は、ハートで愛すると言ったガールフレンドを愛します」と言ったわけで、心臓(ハート)というのは感情が起こるところです。

 ですから本当の愛というのはハートから起こってくる。感情とか思いというのはハートから起こってくるでしょう。ですから心というのはハートから起こってくるわけで、頭や脳から起こってくるわけではありませんと答えたのです。
みなさんどう思いますか?
心がどこから来るかというのは大変に大切な問題です。

 教育、ハートへの教育というのがあり、それから働くための教育というのがあります。科学とか仕事への教育というのはこの世の中を生きていく上でのいろいろな教育、知識です。
 大学を出て働く時にそのような知識が必要になってくる。科学者で大変知識に優れている人がいたとしても、ハートのところがちゃんと教育されていないと、非常に危険なことになります。たとえばハートに慈しみとか親切とかが教育されていないと、たいへん危険なことに、その人は核兵器を作ったりします。

 私たちは二つのものを学ぶ必要があるわけで、科学など現実的な知識と、ハートへの教育という二つが大切です。この二つを学ぶ事が必要です。お寺のお坊さんや尼さんにしてもこの二つが必要で、例えばどのようにしてお寺や瞑想センターを運営していくとか、人々を上手にまとめていくかという知識と、ハートの二つを学ぶ事が必要なわけです。

 人生を見てみると、いろいろな年齢の人がいる訳ですけれども、一体何を目的に生きているのかということです。
皆さん、何を目的に生きていますか?
何になりたいと、思っていますか?
阿羅漢になりたいと思っていますか?
それとも何か他のものになりたいと思っているのでしょうか?
どういう目標を目指そうとしているのでしょうか?
お金持ちになりたい、お金をいっぱい貯めたいという目的でしょうか?

 阿羅漢を目指そうという人もいるでしょうし、他の人たちに貢献するとか、利益を与えるということを目的にする人もいます。ブッダは吉祥経の中で、人間は全ての他の、生きとし生けるものに対して、利益を与えるものでなくてはならないと、言いました。パーリ語で「ローカサティ(lokassaati)」といいますが、全ての生きとし生けるものに対して、ということです。

 それで、慈しみの心を起こすときにも、仏教徒だけに慈しみを送るということではなくて、全ての宗教の人たちに、慈悲を広めていくようにます。ですから、ブッダとかボーディサッタ(菩薩、ブッダの前世)というのは、自分以外の他の生きているものに対して、利益を与えるようにという思いで行動しました。

 だいたい、生き物というのは、自分自身のために、あるいは、自分の所属しているグループのために生きるというものです。ですから、さっき言った「ローカサティ」ですが、すべての生物に対する分け合う気持ち、すべての生き物に対し、利益を与えるという意味です。その「ローカサティ」が指すことは、まず、慈しみと、それから、カルナー、苦しみの中にいる人に対する思いやりと、慈と悲です。

 ですから、ブッダは、大いなるカルナー、苦しんでいるものに対する思いやり、とても大きなカルナーを持っていたわけです。ユニバーサル・ラブ、つまり宇宙的な愛、この世界全てに対する愛を持っていました。
 この全世界への愛とは、全てのものに対してです。だから、餓鬼であるとか、あるいは、動物に対しても、全ての生きとし生けるものに対する愛を持っていたということです。天上界の神々にしても、人間にしても、持っているのは壊れてしまう愛である。

 なぜ、壊れてしまう愛と言うのか分かりますか?
餓鬼と自分の家族を同じように愛することができますか、といったら、どうでしょうか。自分のボーイフレンドとか、ガールフレンドと同じような感覚でこの餓鬼達を愛することができるでしょうか。どうですか?
 ですから、壊れてしまう愛、みんなを同じように愛することができないと愛、ということです。

 この世界を全て包む愛というのは、動物であっても、餓鬼であっても、みんな同じように、同等に愛を持つことができるという愛です。
誰が、全世界に対する愛を持っているでしょうか?

 二番目は、もう少し狭めて自分の家族とか友達に対して利益がありますように、という風に思う人です。自分が住んでいるところの国民だけだとか、限界があって、ある意味で狭いわけです。
 ニャータタスリア、パーリ語ですが、ただ自分とか自分の周りの友達とか家族だけにしか、愛を持たない人のことです。三番目はアッタタスリア、アッタは自分という意味です。自分だけに愛を持っているという人です。
家族とか仲間に対する愛を持っている人が二番目で、自分だけにしか愛というのを持たない人が三番目と。この三つです。

 ですから、自分自身のことについて言うと、戒と、サマーディ(定、集中力)、智慧、この三つを訓練していくということが必要です。それが、私達が瞑想をする理由なわけで、瞑想することによって、聖なる人間、善き人間になることができます。ただ、知識を学んでいるというだけでは、充分ではないわけです。

 ですから、最初に言ったように、ブッダがおっしゃったのは、まず、学ぶことと、それから、実際に、実践すること、修行すること、それから、洞察すること、この三つです。
今まで、瞑想をやってきたわけですけども、自分の心をコントロールすることができましたか?
短い時間か、また、ある程度長い時間か、コントロールすることができたでしょうか?

 自分に聞いてみてください。心をコントロールするのが、難しかったか、自分にたずねてみてください。
難しかったですか?簡単でしたか?
心をコントロールするというのは、大変難しいことです。自分の心を制御しようとすると、大変疲れてしまいます。

 それはなぜかというと、私達は、生活において、欲望に従っていた、欲望を追いかけていたからで、たとえば、お金を貯めたりとか、あるいは、美味しいものが食べたいとか、欲望に従っていたということがあるから、そういうふうになるわけです。特に、貪欲という欲が、私たちの心を捕まえて、引っ張って行きます。
どうですか、皆さん、そう思いますか?どうでしょうか?

 それで、欲しいものがもらえない、手に入らないと、今度は、怒りを覚える、怒りが出てくるわけです。それで、怒りの後に、今度は、無知ですね。無知、迷妄という、「よく分からない」状態が出てきて、それが心をくらませてしまい、非常に危ないことをしたりする。全ての不善な行いをしてしまうわけです。

 そんなわけですから、心に起こる貪欲とか怒りとかを、しっかりコントロールしようと思うと、非常に、疲れるわけです。それが苦しみになるわけです。ですから、瞑想をした第一日目というのは、みんな、瞑想がとても苦しいわけです。
 なぜ苦しいかというと、普段、私たちは一つの対象に対して、心を一つに絞るということをしていないからです。どうでしょうか。

 サヤレーが言っていることを聞くのは、楽しいことではないでしょう。いま話していることは、耳には快くはないかもしれないけれど、真実を言っています。また、今はダンマトークの中ですから、ぴったりのタイミングで話しているわけです。
 今、ダンマトークを聞こうとして集まっている人にそういう真実をしゃべるというのは、ちゃんとタイミングを得ているわけですが、そうでなく、どこかを歩いている人にこういうことを話して、聞いてくださいと言っても怒り出すだけでしょう。そういう人に話しても、サヤレーの方に怒りを向けるようになるだけです。

 それで、今、五戒について、戒律をしっかり守り破らないように、と話しています。ですから、いまの話をよく聞いていると、善い人になるし、聞かないと不善な人になってしまいます。
どうでしょうか、それが事実ではないでしょうか?
ですから、瞑想を始めて2,3日はとても苦しいわけですけが、心を捕まえておくようにいつも努力して、努力していくと、段々それに慣れてくることができます。

 心は、猿の心(モンキーマインド)みたいなもので、あっちこっち飛んだり跳ねたりしたがります。ですから、そういう心を、マインドフル(気付き)という手法で、縛り付けて、あちこち行かないようにコントロールしなくてはいけないということです。
 心は、とても頑固です。小さい頃お母さんが、これをしては駄目、あれをしては駄目と言ってもなかなか聞かなかったでしょう。学校へ行くと先生が、言うことを聞かないと、叩いたりする。最初は、何で叩かれているのかと、怒るわけですが、だんだんと、その理由が分かって来ます。

 ですから、子供の時には母親とか先生たちが、言うことを聞かなから叩いたりしたのを、大変怒ったわけですが、段々大きくなるにしたがって、その意味が分かってきて、また自分が子供を持つようになってくると、感謝するようになるわけです。ですから、先生が叩いたとしても、怒らないようにしてください。

 私たちの心というのも同じようなもので、叩いて、つまり叩くというのは努力をしなくてはなりません。心があちこち行きたがるときに、これを叩いて、戻してくる。それは、苦痛なわけです。

 瞑想していると、体があちこち痛くなってくる人がいる。たいした痛みではなくても、痛いからもう止めた、と言って帰ってしまう人もいます。皆さんはちゃんと座って帰らなかったから、しっかりした人たちです。
 苦しみに慣れて来ると、苦しみや痛みを逆にうまく使って利益にすることもできる。苦しいものを楽しいものに変えていくことができます。

 病気になったら、医者へ行って、医者にかかるでしょう。病気が重ければ注射をします。痛いから針を見て恐れます。注射しないで、もう嫌だと帰ってしまうと、病気は治らないわけです。ですから、そういう風に帰ってしまうと病気が大きくなって更に苦しむようになります。注射を打つという、ちょっとの痛みを我慢すると、病気はだんだん治っていって、楽になるわけです。

 過去から今に至るまで、お母さんのお腹の中に入って、生まれて、歳をとって死んでいくことを繰り返していくのは苦しみである。いくつもの生をこういうふうに経てきているのは苦しみである。こんな風にして、この生とかあの生とか生まれ変わって、経ていくのは病気と同じようなものです。

 ですから、痛みがあったときに、薬を飲んだり、注射する必要があるのと同じように、瞑想が心を直してくれる。痛みを恐れずに、頑張って、努力してください。一日では、なかなか、禅定に達することは困難です。
 20分とか30分、呼吸に集中することができれば、ニミッタという集中のサイン、印しが現れてきます。集中が良くなってくると心がとても静かになって、平安で快い感覚が出てきます。

 これは例えですけれども、もし、お金を貯めたい人、お金をたくさん持ちたい人がいたら、一生懸命働かなくてはいけないのと同じように、本当に心の平安と、幸せな心を持とうとしたら、最初は苦痛がありますが、それを越えていかなくてはならないということです。

 ですから、本当に、集中力を得たければ、自分の心をコントロールするようにしなくてはいけません。心をコントロールするということの意味は、いろいろな思考、思いが入ってくるのを止めるということです。思考が出たときに、それをストップするということが必要なわけです。
 最初はそれをするのが、難しいですけれど、だんだんと、やっているうちに身に付いてきます。それで、はっきりとしたニミッタが見えて、そこに1時間とか2時間とか集中できるようになってくると、1時間、2時間ずっと対象に心を向けることができて、禅定に入っていくことができます。

 それで、禅定という段階を得ることができたら、今度は、自分の身体の中を禅定の力をもって、洞察することができるようになります。そんな風に自分の身体をはっきり見ることができれば、私たちの身体はナーマとルーパ(心と身体)に過ぎないということが分かるわけです。

 ナーマ・ルーパ(心と身体)は、まずそれが無常であるということがわかって、それがものすごい速さで生じて滅して、生滅を繰り返しているというのが分かります。もっと深く突き通して見ることができるようになれば、何もないというのが分かってきます。生じて滅して、生じて滅して、を繰り返して、結局は何もないのだということが見えてくるわけです。

 それで最終的には涅槃(ニッバーナ)というのは何もない、エンプティ、空であるということが見えてくるわけです。何もないということを見た人は、八正道の正見、正しい見方と、正思惟、正しい考え方を得ます。正思惟というのは、この身体は私のものであるとか、家族は自分のものであるとか、そんな風には見なくなるということです。

 私たちはそういう正しい見方、正しい理解ができないために、自分の肉体は自分のものである、自分であるという風に思って、自分は美しいとか、いや美しくないとか、他人は美しいとか、いう風に見て、この人は、自分のものであると、見てしまうわけです。

 自分に対する執着、あるいは他人に対する執着というのは、例えば、自分の妻は自分だけのものであるという風に思うわけです。他の人のものではないから、他の人に分け与えることはできないという思いです。他の人が取りに来たりすると非常に怒るわけです。
どうですか?
 旦那さんが他の女性と仲良くなったりしたら、とても怒ったりするわけです。なぜなら、旦那さんというのは、自分のものだから、自分だけのものだから、他の人のものではないと思っているからです。それは、誤った見方、考え方です。

どうですか、それが事実ではないでしょうか?
それは、誤った考え方、見方なわけです。正しい見方、理解というのは、ナーマ・ルーパ、すなわち心にしても身体にしても、生じて滅して、生じて滅して、という風に過ぎ去っていくものです。

 そんな風に自分の旦那さんとか奥さんに対して、生滅していくものだという風に見ることができないとき、私たちは、今の段階では、瞑想して自分の奥さんとか旦那さんとかが、ナーマ・ルーパであるという風には、見えないわけですから、また別の方法があります。

 それは、自分の過去世というのがあって、いろいろな過去世があって、たくさんの奥さんがいたわけです。過去をずっと見てみれば、たくさんの奥さんや旦那さんがいたわけです。ひとつの人生だけではなく、ずっと過去からの人生があるから、非常にたくさんの人生があって、そこにはたくさんの奥さんなり旦那さんなり、がいたわけです。

 結婚して、20年30年経った後に、もし、旦那が他の女性を見つけたりしても、その時に怒ったりしないで、こういう風に思うわけです。あっ、この人は過去においてこの旦那の奥さんだった人だ、という風に見ればいいわけです。よろしいですか。
 そうすれば旦那にしても奥さんにしても、自分のもの自分に属するものだとは思わなくなります。前世で奥さんだった人が、いつなんどき現れるかもしれないわけです。

 過去のカルマ、過去にしたことに思いを致すと、そういうことが分かってきます。
どうですか、それが事実ではないですか?
 もし、それでもよく分からなかったら、別の方法があります。お布施(ダーナ)することがいいことです。お布施という見方で、自分の奥さんも旦那さんも、お布施してしまいなさい。ただ、菩薩だけが人に言われて自分の奥さんや旦那さんを、お布施することができました。

 そんな風にお布施するのは大変難しいことですけれども、お布施するという努力して、やってみてください。それで、手放してしまうと心は、とても平和な心になります。困難であることに挑戦して、手放すということを訓練してみると、心は非常に平和になってきます。

 もっと欲しい、あるいはこれが欲しい、もっともっと欲しいという風に思うと、それが苦しみの元になります。もっと欲しいとなると、心配が生まれるわけです。それで、心配によって苦しみがもっと大きくなります。一人の奥さんに小さい家族だったらまだしもなんですが、奥さんがたくさんいて、家族がたくさんあったとしたら、非常に心配でしょうがなくなってしまいます。

 ダンマというのは、海のようにとても深いものがあって、海の底に着こうとすれば大変深く行かなくてはいけない、それと同じようにダンマも非常に深いわけです。ですから、この深いダンマに到達するというのは、大変な道なのですけれども、それを努力して、努力して、ダンマを身に付けるようにしなくてはなりません。
 ダンマはとても奥が深いものですから、それを智慧で身に付けるにつけ、もっともっと深くなっていくわけです。ですから、そういう智慧を得ることができれば、手放すということが容易になってきます。

 どうですか。この話を聞いて、納得できなかったら、ミャンマーへ来て、瞑想をしてください。今日はどうもありがとうございました。

サードゥ! サードゥ! サードゥ!

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