2019年10月22日 (火)

11月経典学習会(日時、場所変更)のお知らせ

11月の経典学習会の日時、場所を下記のとおり変更いたします。

11月24日(日)13:30~17:00 
中板橋MCWA事務所
住所 板橋区仲町39-1 電話03-3973-3348 

 

 

予定

 

13:30より自主瞑想(法話は14時からですが、それまで自主的に瞑想しています)
14:00より経典の解説
16:00より質疑応答
17:00ころ終了

 

参加費無料
予約の必要はありません

 

内容: トゥ・ミンガラ比丘(Thu Mingala Bikkhu)によるダンマパダ(法句経)の解説です。
ダンマパダ(法句教)158,165偈
「先ず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことが無いであろう。」
「みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることはできない。」
(岩波文庫「真理の言葉 感興のことば」中村元訳 より)

 

12月の予定 12月15日(日)和光市、新精舎にて
オバサ・セヤドーがミャンマーへ帰国されるため、引き続きトゥ・ミンガラ比丘にダンマパダの解説をしていただきます。

 

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Dhammapada 158

 

先ず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことが無いであろう。
Attanameva pathamam patirupe nivesaye
athannamanusaseyya na kilisseyya pandito.

 

釈迦族の人、ウパナンダ長老の物語
祇園精舎に滞在するとき、ブッダは釈迦族のウパナンダ長老に関してこの偈を唱えました。
ウパナンダはとても雄弁な説教者でした。 彼は、貪欲などもたず、ほんのわずかな物しか持たないように説教し、自足と質素、および厳しい実践の価値について雄弁に語っていました。 しかし、彼は自分が教えたようには実践せず、他の人が断念した衣やその他の必需品を自分のために取っておきました。

 

ある時、ウパナンダは雨安居(ワサ)の直前に村の僧院に行きました。 彼の雄弁さに感銘を受けた若い比丘たちは、僧院でワサを過ごすように頼みました。 彼は、僧院ではワサのときにお布施として何着の衣が受け取れるのか、と聞きました。いつもは1着の衣を受け取ると比丘たちは答えました。 そこで彼はその僧院には滞在しませんでしたが、スリッパを僧院に置いて行きました。

 

次の僧院では2着の衣を受け取ることを知りました。 そこで彼は杖を置いて行きました。 次の僧院では、3着の衣をワサのお布施として受け取ります。 そこで彼は水筒を置いて行きました。 最後に、4着の衣を受け取る僧院で、彼はワサを過ごすことにしました。

 

ワサの終わりに、彼は自分の持ち物を置いておいた僧院に衣の受け取りを求めました。 その後、彼はすべてのものを手押し車に乗せて、昔からいる僧院に戻りました。 途中で、彼は2人の若い比丘に会いました。彼らは、2着の衣と、高価な1枚のベルベット毛布の分配について争っていました。 彼らは友好的に解決することができなかったので、ウパナンダに仲裁を依頼しました。 ウパナンダは彼らにそれぞれ一着の衣を与え、仲裁人として高価なベルベットの毛布を取りました。

 

2人の比丘はこの決定に不満足でしたが、どうすることもできませんでした。 不満と落胆の気持ちから、彼らはブッダのところへ行き、この問題を報告しました。 それに対してブッダは、「他の人を教える者は、まず自分自身を教え、教えたとおりに行動するべきだ」と言いました。

 

それからブッダはつぎの偈を唱えました。
「先ず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことが無いであろう。」
この説法が終わったとき、2人の若い比丘は預流果を得ることができました。

 

Dhammapada 165

 

みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることはできない。
Attana hi katam pipam attana samkilissati
attana akatam papam attanava visujjhati
suddhi asuddhi paccattam nanno annanam visodhaye.

 

在家の弟子チュラカラの物語
祇園精舎に滞在しているときに、ブッダは在家の弟子であるチュラカラに関してこの偈を読みました。
在家の弟子であるチュラカラは、ある安息日、ウポサタの戒律を守り、一晩中宗教的な説法を聞きながら、祇園精舎で過ごしました。 朝早く、修道院の近くの池で顔を洗っていると、泥棒たちが彼の近くに束を投げ込みました。 盗まれた財産のそばにいる彼を見た所有者は、彼を泥棒と思って激しくたたきました。 幸いなことに、水を汲みに来た奴隷の少女たちが、彼を知っていて、泥棒ではないことを証言しました。 それで、チュラカラは解放されました。

 

ブッダがそのことについて言及したとき、チュラカラに言いました。「奴隷の少女たちが証言したからだけでなく、あなたが泥棒ではなく、盗みもしていないので、無実だから、あなたは解放されたのです。 悪を行う者はニラヤ(地獄)に行き、善を行う者はデーヴァの世界で生まれ変わるか、涅槃を実現します」。

 

そしてブッダは次の偈を唱えました。
「みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることはできない」
法話を聞いたチュラカラは預流果を得ました。

2019年10月 4日 (金)

10月経典学習会のお知らせ

10月の経典学習会は、10月20日(日)に開催予定です。

10月20日(日)13:30~17:00 
和光市、新精舎にて
住所 和光市新倉2丁目27-18  
和光市駅から徒歩20分くらい。バス:北口より新倉小学校下車3分。

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予定
13:30より自主瞑想(法話は14時からですが、それまで自主的に瞑想しています)
14:00より経典の解説
16:00より質疑応答
17:00ころ終了

参加費無料
予約の必要はありません

内容: オバサ・セヤドー念住経の解説 「心の随観」、法に関する随観「障害の部」

11月の予定 11月17日(日)和光市、新精舎にて
トゥ・ミンガラ比丘(Thu Mingala Bikkhu)によるダンマパダ(法句経)の解説です。
ダンマパダ(法句教)158,165偈
「先ず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことが無いであろう。」
「みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることはできない。」
(岩波文庫「真理の言葉 感興のことば」中村元訳 より)

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Dhammānupassanā 法に関する随観
A. Nīvaraṇapabbaṃ 障害の部

Kathaṃ ca pana, bhikkhave, bhikkhu dhammesu dhammānupassī viharati?
Idha, bhikkhave, bhikkhu dhammesu dhammānupassī viharati - pañcasu nīvaraṇesu.
Kathaṃ ca pana, bhikkhave, bhikkhu dhammesu dhammānupassī viharati - pañcasu nīvaraṇesu?
Idha, bhikkhave, bhikkhu santaṃ vā ajjhattaṃ kāmacchandaṃ ‘atthi me ajjhattaṃ kāmacchando’ ti pajānāti, asantaṃ vā ajjhattaṃ kāmacchandaṃ ‘natthi me ajjhattaṃ kāmacchando’ ti pajānāti, yathā ca anuppannassa kāmacchandassa uppādo hoti taṃ ca pajānāti, yathā ca uppannassa kāmacchandassa pahānaṃ hoti taṃ ca pajānāti, yathā ca pahīnassa kāmacchandassa āyatiṃ anuppādo hoti taṃ ca pajānāti.

比丘たちよ、また比丘はどのようにして法において法を随観し続けるのか。ここに比丘たちよ。比丘は五つの障害の法において(五つの障害の)法を随観し続けるのである。では比丘たちよ。比丘はどのようにして五つの障害の法において(五つの障害の)法を随観し続けるのか。
  ここに比丘たちよ。比丘は内に貪欲(欲貪)があれば「私の内に貪欲がある」と知り、あるいは内に貪欲がなければ「私の内に貪欲がない」と知る。また、未だ生じない貪欲がどのように生じるかを知り、すでに生じた貪欲がどのようにして捨断されるかを知り、捨断された貪欲が将来どのようにして生じないかを知る。

Santaṃ vā ajjhattaṃ byāpādaṃ ‘atthi me ajjhattaṃ byāpādo’ ti pajānāti, asantaṃ vā ajjhattaṃ byāpādaṃ ‘natthi me ajjhattaṃ byāpādo’ ti pajānāti, yathā ca anuppannassa byāpādassa uppādo hoti taṃ ca pajānāti, yathā ca uppannassa byāpādassa pahānaṃ hoti taṃ ca pajānāti, yathā ca pahīnassa byāpādassa āyatiṃ anuppādo hoti taṃ ca pajānāti.

次に内に怒りがあれば「私の内に怒りがある」と知り、あるいは内に怒りがなければ「私の内に怒りがない」と知る。また。未だ生じない怒りがどのように生じるかを知り、すでに生じた怒りがどのようにして捨断されるかを知り、捨断された怒りが将来どのようにして生じない かを知る。
      
Santaṃ vā ajjhattaṃ thinamiddhaṃ ‘atthi me ajjhattaṃ thinamiddhaṃ’ ti pajānāti, asantaṃ vā ajjhattaṃ thinamiddhaṃ ‘natthi me ajjhattaṃ thinamiddhaṃ’ ti pajānāti, yathā ca anuppannassa thinamiddhassa uppādo hoti taṃ ca pajānāti, yathā ca uppannassa thinamiddhassa pahānaṃ hoti taṃ ca pajānāti, yathā ca pahīnassa thinamiddhassa āyatiṃ anuppādo hoti taṃ ca pajānāti.

あるいは内に惛沈・睡眠があれば「私の内に惛沈・睡眠がある」と知り、あるいは内に惛沈・睡眠がなければ「私の内に惛沈・睡眠がない」と知る。また、未だ生じない惛沈・睡眠がどのようにして生じるかを知り。すでに生じた惛沈・睡眠がどのように捨断されるかを知り、捨断された惛沈・睡眠が将来どのようにして生じないかを知る。

Santaṃ vā ajjhattaṃ uddhaccakukkuccaṃ ‘atthi me ajjhattaṃ uddhaccakukkuccaṃ’ ti pajānāti, asantaṃ vā ajjhattaṃ uddhaccakukkuccaṃ ‘natthi me ajjhattaṃ uddhaccakukkuccaṃ’ ti pajānāti, yathā ca anuppannassa uddhaccakukkuccassa uppādo hoti taṃ ca pajānāti, yathā ca uppannassa uddhaccakukkuccassa pahānaṃ hoti taṃ ca pajānāti, yathā ca pahīnassa uddhaccakukkuccassa āyatiṃ anuppādo hoti taṃ ca pajānāti.

 あるいは内に落ち着きのなさ。後悔があれば。「私の内に落ち着きのなさ。後悔がある」と知り、あるいは内に落ち着きのなさ、後悔がなければ「私の内に落ち着きのなさ、後悔がない」と知る。また、未だ生じない落ち着きのなさ、後悔がどのように生じるかを知り。すでに生じた落ち着きのなさ、後悔がどのようにして捨断されるかを知り、捨断された落ち着きのなさ。後悔が将来どのようにして生じないかを知る。

Santaṃ vā ajjhattaṃ vicikicchaṃ ‘atthi me ajjhattaṃ vicikicchā’ ti pajānāti, asantaṃ vā ajjhattaṃ vicikicchaṃ ‘natthi me ajjhattaṃ vicikicchā’ ti pajānāti, yathā ca anuppannāya vicikicchāya uppādo hoti taṃ ca pajānāti, yathā ca uppannāya vicikicchāya pahānaṃ hoti taṃ ca pajānāti, yathā ca pahīnāya vicikicchāya āyatiṃ anuppādo hoti taṃ ca pajānāti.

あるいは内に疑いがあれば「私の内に疑いがある」と知り。あるいは内に疑いがなければ「私の内に疑いがない」と知る。また、未だ生じない疑いがどのようにして生じるかを知り、すでに生じた疑いがどのように捨断されるかを知り、捨断された疑いが将来どのようにして生じないかを知る。

Iti ajjhattaṃ vā dhammesu dhammānupassī viharati, bahiddhā vā dhammesu dhammānupassī viharati, ajjhattabahiddhā vā dhammesu dhammānupassī viharati, samudayadhammānupassī vā dhammesu viharati, vayadhammānupassī vā dhammesu viharati, samudayavayadhammānupassī vā dhammesu viharati, ‘atthi dhammā’ ti vā panassa sati paccupaṭṭhitā hoti. Yāvadeva ñāṇamattāya paṭissatimattāya anissito ca viharati, na ca kiñci loke upādiyati. Evaṃ pi kho, bhikkhave, bhikkhu dhammesu dhammānupassī viharati pañcasu nīvaraṇesu.

このように自己の法において法を随観し続け、あるいは他の法において法を随観し続け。あるいは自他の法において法を随観し続ける。また法において(法を)生法なりと随観し続ける。
 あるいは法において滅法なりと随観し続け、あるいは法において生滅の法なりと随観し続ける。
 そこで「法のみあり」との念が彼に起こる。それこそは智慧の(増大の)ため、念の(増大の)ためになる。彼は(愛着・誤った考えに)よることなく(随観し)続け、世の何ものにも執着しない。比丘たちよ。比丘はこのように五つの障害の法において法を随観し続けるのである。
                                    
 障害の部終り

10月自主瞑想会(中止)のおしらせ

10月12日自主瞑想会中止のおしらせ

予定されておりました以下の瞑想会は、台風襲来のため中止とさせていただきます。

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(この会は有志により開催されています)

だれでも自由に坐れる場を提供したい、ということから始めた瞑想会です。
どうぞお気軽にご参加ください。
日時:10月12日(土)13:00~17:00
会場:板橋区見次公園集会所2階和室 都営三田線志村坂上駅より徒歩7分(地図参照)
住所:板橋区前野町4-59-1(https://map.goo.ne.jp/place/13002641886/map/)
参加費:無料
会場費のお布施を受け付けています。

 

予約は必要ありません。
座布団はあります。瞑想しやすい服装でおいでください。

 

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注意事項

 

・会場内では「沈黙行」をお守りください。お話したい方は室外にてお話し下さい。
・途中での出入りは自由です。受付名簿に記入し、坐っている方の迷惑にならぬよう静かに出入りしてください。
・瞑想指導はありません。各自で、自分の行なっている瞑想をなさってください。
・瞑想会終了後に1時間ほどの「懇親会」を持ちます(自由参加です)。

 

およその時間割(当日の状況で多少変わることもあります)

 

13:00    受付開始
13:20-13:30 読経(慈経)
13:30-14:30 瞑想
14:30-14:45 休憩 
14:45-15:45 瞑想
15:45-16:00 休憩
16:00-17:00 瞑想、回向
17:00-  懇親会(1時間くらい)

 

次回の予定
11月30日(土)板橋区見次公園集会所2階和室

 

主催:静寂瞑想の会

2019年9月15日 (日)

クムダ・セヤドー 法話(6)

2019年5月に来日されたクムダ・セヤドーの法話を文章にして順次掲載しています。
文章化にあたって協力してくださった皆様に感謝申し上げます。 

 

4 民宿前の桜の木

 

恩を忘れないこと  今日は、わかりやすい法話をします。輪廻している中で大切なこととして、「立派な人や目上の人には悪心を抱かない」ということがあります。「悪いことをしないこと。悪い言葉も言わないこと。心の中で悪く思ったりもしないこと」です。目上の立派な方は、いい影響を与えている方たちです。そういう人達には、親や、祖父母、目上の兄弟達がいます。また自分の世話をしてくれた人たちです。こうしたお世話になった人には、悪いことをしない、悪いことも言わない、心でも悪く思わないこと。

 

 こんな話がありました。池にいる白鳥が魚を獲っていました。獲った魚を空中に放り投げ、落ちてきたところを上手くくわえて食べています。ある男がそれを見ていて、「自分も真似してみよう」と思いました。棒を空中に放り投げ、落ちてきたところを口で捕まえました。これをしていたところ有名人になり、みんなの前で披露することになりました。みんなは、「どうやって練習したんですか?」と聞きました。男は、「教わる人がいないので自分で練習しました」と言いました。そして、棒を放り投げて口にくわえようとしたとき、棒が口に突き刺さって死んでしまいました。  教えてもらった人やお世話をしてもらった人への恩を忘れないこと。いつも憶えていることが大切です。

 

 

菩薩コピダの話  お釈迦さまが「コピダ」という菩薩だった時代の話しをします。バラナシにコピダという人がいました。コピダは竪琴が上手だったので、竪琴を弾いて生計を立てて生活をしていました。コピダの竪琴は有名でした。この町にはムティアという人もおり、やはり竪琴が上手でした。しかしコピダほど上手くはありません。ムティアは、コピダの所に習いに来ました。もっと上手くなりたいので教えてくださいといってやってきました。コピダは人相を見ることもできたので見てみると、ムティアはお世話になった人を裏切り、逆らう人相をしていました。それで、竪琴を教えることは断りました。

 

 ところで、コピダの親は目が見えませんでした。ムティアは、コピダの親の世話をして、恩を売って、コピダの弟子にしてもらうように、その親に頼み込みました。コピダは、親から言われたので仕方なく、ムティアを弟子にすることにしました。そうして竪琴の弾き方を教えることになり、コピダは、ムディアに竪琴の全てを教えました。竪琴の全てを教わったムディアはうまくなって、先生のようになりました。ムディアは、バラナシで自分が一番上手いと自慢するようになり、教わった先生よりも優れていると鼻高々になってしまいました。
 あるとき、ムティアは王様に竪琴を披露したいと思いました。そして王様を紹介して欲しいとお願いしました。コピタは王様の前で竪琴を演奏するときに、弟子達も連れて行き、紹介しました。

 

 王様はムティアの竪琴の腕前を知りたくなりました。そして、ムティアの竪琴を聞いた王様は、ムティアが気に入り、彼は王様のお抱えになりました。ムティアは王様のために竪琴を奏でるようになり、王様は給料を出すことにしました。しかし王様は、「ムティアはコピダの弟子なので、弟子としての給与しか出せない」と言いました。たとえば先生が1000円なら、弟子は500円です。けれどもムティアは反発しました。自分には先生と同じくらいの実力があるのに給与は弟子の金額というのはおかしい。王様は、「ムティアよ、あなたは先生より腕前が上かもしれないが、そのことは言わないように」と言いました。ムティアは納得がいきません。自分の竪琴の技術は先生と同じなのに、どうして弟子並の金額しかもらえないのか。そこでムティアは、王様と国民達の前で、竪琴を披露して、先生のコピダと自分の竪琴の、どちらが上手いかを見てもらいたいと言い出しました。

 

 これを聞いたコピダは、ムティアと勝負して、もし負けたらどうしようかと思い、つらくなりました。先生が負けるのは恥ずかしい。竪琴で勝負することを考えると、つらくなって、死にたくなりました。コピダは、森の中に入って自殺しようとしました。しかし死ぬのは怖くて戻ってきました。何度も自殺を考えて森へ入り、思い直して森から戻るということを繰り返しているうちに、コピダが歩いた跡が道になってしまったくらい、何度も逡巡しました。実際のところ、先生のコビダよりも、ムティアのほうが実力があったのです。

 

 そのときデーヴァ(天人)が、それを見ていました。デーヴァは事情がわかっていたのでコビダに対して「何かお手伝いしましょうか」と言いました。コピダは、「ムティアが竪琴を披露しあって勝負しようと言い出した。どうしたらいいものか」と言いました。それを聞いたデーヴァは、「コビダさんを助けますよ。だからあなたは落ち込まないで、負けないで」と言いました。「コビダさん、あなたが勝ちます。7日後に行われる竪琴の勝負のときに、天界から降りてきてあなたを助けます」と、デーヴァは言いました。

 

 7日後、竪琴の勝負が行われました。デーヴァはやってきました。竪琴の披露では、先生であるコピダが先に弾きました。その演奏は綺麗な音だった。竪琴には7本の糸があるけれど、コピダは、1本の糸を切って、6本で弾き始めました。しかしまるで7本の糸で弾いているかのように綺麗な演奏でした。次にまた1本切って、5本の糸で演奏を始めた。またもや7本の糸で弾いているかのように綺麗な音でした。そうして、また1本切って4本。3本。2本。1本。とうとう7本全部切って、糸が無い状態で演奏しても、綺麗な竪琴の音が響き渡りました。糸が無くても綺麗に聞こえたのです。
 実はこれらはデーヴァが全て助けてくれたことでした。しかしデーヴァの姿は、みんなには見えません。この様子を見ていたムティアは驚いて負けを覚悟しました。ムティアはショックのあまりに竪琴が弾けなくなってしまいました。そうして観衆から、「あなたは何故、先生と勝負すると言ったのですか?」と問われました。ムティアは答えることができず、出て行こうとしたところ、観衆から石や棒を投げつけられて、その場で亡くなりました。

 

 この話しのポイントは、お世話になった人に対して文句を言ったり争いをしてはいけないということ。セヤドーは今年60才です。60年生きてくると、いろんな先生やお世話になった方々がいらっしゃいます。そういうお世話になった人達に、争いごとを持ちかけたり、文句や不満を言ったり思ったりすることもよくないことです。このことには注意したほうがいいでしょう。
若い時は一生懸命に働きます。その甲斐ががあって年齢を重ねると地位を得たり偉くなることがあります。けれども鼻が高くなって慢心が強くなることもあります。でも、そういうふうになってはいけません。お世話になった人のことを忘れてはいけません。この話しは、輪廻して生き続けている中で、気をつけないといけないことです。

 

 

お布施と天界  ところで竪琴の勝負が終わった頃、天界では、天女達が、「デーヴァはどこへ行ったのか?」と探して、デーヴァが戻ってくるのを待っていました。デーヴァは、「人間のコピダのところへ行っていた」と言って事情を説明した。すると天女達は、「コピダの演奏を聞きたい」と言いました。そこで使いの神をコピダの元に行かせて、天界に招待しました。
 ちなみに生きている間に天界へ行った者は三人いました。一人は、コピダ。二人目は、雌の白鳥。三人目は、王様のメーミです。この3人は、生きながら天界へ行った者たちです。3人ともデーヴァから招待されて天界へ行きました。雌の白鳥は、前世ではデーヴァの奥さんでした。けれども善いことは何もしていなかった。着飾ったり、化粧したりして自分を美しくすることばかりしていました。そして、いつも綺麗になりたいと言っていました。それで次の生は白鳥に生まれ変わったそうです。

 

 さて、天界に招かれたコピダは天女達の前で竪琴を披露しようとしました。コピダは、「竪琴を弾く場合はお金をいただいて披露しています。お金をいただけないなら竪琴の披露はできません」といいました。天女たちは、「コピダさん、お金の代わりに何が欲しいですか?」と聞くと、コピダは、「天女の皆さんは、どうして天界にいるのですか?何をして天女に生まれ変わったのですか?それを教えてください」と言いました。
 それで、天女たちは、前世で何をしたのかをコピダに話し始めました。天女は36人いました。天女たちは、「そんなに大したことはしていません、けれども、カッサパ仏の時代に、お布施をしました」と言いました。「お布施したものは、『花・よい香りのするもの・服(布)・果物・燈明・食べ物』。こういうものをカッサパ仏へ施しをしただけです。それで天女に生まれ変わりました」と言いました。

 

 36人の天女のうち「ご飯(食事)」をお布施した人が多かった。戒律を守っていた天女もいました。天女になったのは、カッサパ仏にお布施した功徳でした。お布施をして、戒律を守っているならば、かならず天界へ行くし、天女にもなれる。天女が持っている財産、食べているもの、その他諸々のすべては「ルーパ(物質)」です。前世で善行をし、施しをしていたので、財産、物といった「ルーパ(物質)」に恵まれるようになりました。気持ちや心は「ナーマ(心)」です。所有物は「ルーパ(物質)」です。

 

 

ナーマとルーパも自分のものではない  ところで私たちは、前世で善いことをしたので、今、現世で人間になっています。人間が持っているものは「ルーパ(物質)」と「ナーマ(心)」です。天人にも「ルーパ(物質)」「ナーマ(心)」があります。けれども「ルーパ(物質)」、「ナーマ(心)」は自分のものではない。もし、「ルーパ(物質)」や「ナーマ(心)」が自分のものであるならば、自分でコントロールすることができるし、思っている通りにすることができます。
 自分の髪の毛が白くなったら黒くするこができますか?それはできないでしょう。なぜなら髪の毛は自分のものではないからです。自分のものであるならば、綺麗にしようとすれば、綺麗にできる。若くなろうと思えば若くなれる。けれども実際はできない。これは「ルーパ(物質)」や「ナーマ(心)」は自分のものではないからです。

 

 「ルーパ(物質)」や「ナーマ(心)」は、変化し壊れる性質がある。「ナーマ(心)」もいつも動いている。変わり続けている。なので「ルーパ(物質)」や「ナーマ(心)」は自分のものとは言えない。お金や財産も「ルーパ(物質)」で、自分のものではない。配偶者や子どももそうだし、自分の身体もそうです。死んでしまったら、その死体は自分のものと言えるでしょうか。そのときには、地・水・火・風・色・味・香・栄養素の8種の要素だけが残ります。その8種の要素は自分のものといえるでしょうか。自分の体といえるでしょうか。自分の所有物といえるでしょうか。
 ですから、ヴィパサナーまで頑張ってください。ヴィパサナーができるようになると、カラーパ(微粒子の集合)もわかります。要素も全部わかるようになります。これは本当に大事なポイントです。私たちにとって大事なことは、「(これは)自分でないし、(これは)自分のものではない」ということです。

 

 セヤドーのお寺でも、ここにある木でもそうですが、枯れて下に落ちる枯れ葉があります。この枯れ葉を、拾って持って行っても、誰もなんとも思いません。枯れ葉を燃やしても誰もなんとも思いません。どうしてでしょうか?  その枯れ葉は、自分のものではないからです。だから全然気にしない。財産、身体も、この枯れ葉と同じです。本当は自分のものではありません。枯れ葉と同じで、いつか燃やされてしまうものです。枯れ葉と同じで、亡くなったら私たちの体も燃やされてしまいます。だから自分の体、自分の物と思わないでください。誰も何も持っていません。

 

 ヴィサパナーまでできるように頑張ってください。ヴィサパナーまでできなくても、ダーナ(布施)とシーラ(戒律)を行う。ダーナ、シーラを守る。これがいつか身につくようになります。ヴィサパナーができるようになれば最高です。ヴィサパナーができれば本当のしあわせになれます。涅槃まで行けます。苦しいことも悲しいこともなくなります。   今日はここまでです。

 

   サードゥ!  サードゥ!   サードゥ!

 

                   (2019年5月1日  みなかみ合宿での法話)

2019年9月12日 (木)

9月自主瞑想会のおしらせ

9月自主瞑想会のおしらせ
(この会は有志により開催されています)

だれでも自由に坐れる場を提供したい、ということから始めた瞑想会です。
どうぞお気軽にご参加ください。
日時:9月21日(土)13:00~17:00
会場:板橋区見次公園集会所2階和室 都営三田線志村坂上駅より徒歩7分(地図参照)
住所:板橋区前野町4-59-1(https://map.goo.ne.jp/place/13002641886/map/)
参加費:無料
会場費のお布施を受け付けています。

予約は必要ありません。
座布団はあります。瞑想しやすい服装でおいでください。

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注意事項

・会場内では「沈黙行」をお守りください。お話したい方は室外にてお話し下さい。
・途中での出入りは自由です。受付名簿に記入し、坐っている方の迷惑にならぬよう静かに出入りしてください。
・瞑想指導はありません。各自で、自分の行なっている瞑想をなさってください。
・瞑想会終了後に1時間ほどの「懇親会」を持ちます(自由参加です)。

およその時間割(当日の状況で多少変わることもあります)

13:00    受付開始
13:20-13:30 読経(慈経)
13:30-14:30 瞑想
14:30-14:45 休憩 
14:45-15:45 瞑想
15:45-16:00 休憩
16:00-17:00 瞑想、回向
17:00-  懇親会(1時間くらい)

次回の予定
10月12日(土)板橋区見次公園集会所2階和室

主催:静寂瞑想の会

9月経典学習会のお知らせ

9月の経典学習会は、9月22日(日)に開催予定です。

9月22日(日)13:30~17:00 
和光市、新精舎にて
住所 和光市新倉2丁目27-18  
和光市駅から徒歩20分くらい。バス:北口より新倉小学校下車3分。

Wakocity

予定

13:30より自主瞑想(法話は14時からですが、それまで自主的に瞑想しています)
14:00より経典の解説
16:00より質疑応答
17:00ころ終了

参加費無料
予約の必要はありません

内容: トゥ・ミンガラ比丘(Thu Mingala Bikkhu)によるダンマパダ(法句経)の解説です。
ダンマパダ(法句教)146,147偈
「何の笑いがあろうか。何の歓びがあろうか?―世間は燃え立っているのに―。汝らは暗黒に覆われている。どうして燈明を求めないのか?」
「見よ、粉飾された形態を!(それは)傷だらけの身体であって、いろいろのものが集まっただけである。病に悩み、意欲ばかり多くて、堅固でなく、安住していない。」
(岩波文庫「真理の言葉 感興のことば」中村元訳 より)

10月の予定 
10月20日(日)和光市、新精舎にて オバサ・セヤドー念住経の解説 

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Dhammapada Verse 146
Visakhaya Sahayikanam Vatthu

Ko nu haso kimanando niccam pajjalite sati
andhakarena onaddha padipam na gavesatha.
「何の笑いがあろうか。何の歓びがあろうか?―世間は燃え立っているのに―。汝らは暗黒に覆われている。どうして燈明を求めないのか?」
(岩波文庫「真理の言葉 感興のことば」中村元訳 より)

146偈 ヴィサカの仲間の物語

祇園精舎に滞在中ブッダはヴィサカの仲間に関してこの偈を詠みました。サーヴァッティから来た500人の男たちは、自分たちの妻を、ヴィサカの妻のように寛大で、親切で、高潔にしたいと望み、ヴィサカのところに連れて行きました。 7日間続くバッチャナリアンのお祭り期間中、男たちの妻はヴィサカの不在中、夫が残した飲み物をすべて飲んで酔っぱらいました。この悪い行いのために、彼女たちは夫に打たれました。

またある時、彼女たちは、ブッダの法話を聞きたいと言って、ヴィサカに連れて行くように頼み、服に小さな酒瓶を隠して持って行きました。僧院に到着すると、彼女たちは持ってきた酒をすべて飲み、ボトルを捨てました。ヴィサカはブッダにダンマを説くように頼みました。その時までに、女性たちは酔っていて、歌ったり踊ったりしたく感じていました。マーラはこの機会に彼女たちを大胆かつ恥知らずにしてやろうと思いました。すぐに彼女たちは僧院内で騒々しく歌い、踊り、拍手し、飛び回りました。

ブッダは、マーラの手の内にある、女性たちの恥知らずな振る舞いを見て、「マーラに機会を与えてはならない」と自分に言いました。それで、ブッダは体から暗青色の光を送り、部屋全体が暗くなりました。女性たちはおびえ、冷静になり始めました。それから、ブッダは彼の席から消え、メール山(須弥山)の上に立ち、そこから白い光を送ると、空は千の月に照らされたように明るくなりました。こうしてブッダは神通力を表したのち、500人の女性たちにこう言いました。「このような気づきのない状態で僧院に来るべきではありません。あなたたちは怠慢だったので、僧院のなかで恥知らずに振る舞い、笑い、大声で歌わさせるような機会をマーラに与えてしまいました。さあ、あなたたちの中にある貪欲の火を消すように努めてください」。

それからブッダは次の偈を唱えました。
「何の笑いがあろうか。何の歓びがあろうか?―世間は燃え立っているのに―。汝らは暗黒に覆われている。どうして燈明を求めないのか?」

Dhammapada Verse 147
Sirima Vatthu
Passa cittakatam bimbam arukayam samussitam
aturam babusankappam yassa natthi dhuvam thiti.

「見よ、粉飾された形態を!(それは)傷だらけの身体であって、いろいろのものが集まっただけである。病に悩み、意欲ばかり多くて、堅固でなく、安住していない。」(岩波文庫「真理の言葉 感興のことば」中村元訳 より)

147偈 シリマの物語
祇園精舎に滞在中ブッダはシリマに関してこの偈を詠みました。かつて、シリマという名のとても美しい遊女がラジャガハに住んでいました。 シリマは毎日八人の比丘に食事のお布施をしました。比丘の一人は、たまたま他の比丘にシリマの美しさについて語り、また彼女は毎日非常に美味しい料理を比丘にお布施していると言いました。 これを聞いて、若い比丘はシリマに会ってもいないのに恋してしまいました。翌日、若い比丘はもう一人の比丘と一緒にシリマの家に行きました。シリマはその日、調子が良くありませんでしたが、比丘に敬意を払いたいと思ったので、彼らの前に現われました。シリマを見た若い比丘は、「病気であるにもかかわらず、彼女はとても美しい!」と思いました。 そして彼は彼女への強い欲求を感じました。

その夜、シリマは死にました。ビンビサーラ王はブッダのところに行き、ジーバカの姉妹であるシリマが亡くなったことを報告しました。 ブッダはビンビサーラ王に、死体を墓地に運び、カラスやハゲタカから護り、埋葬せずに3日間保管するように話しました。王は言われたとおりにしました。 4日目に、美しいシリマの死体は、もはや美しくも望ましくもなくなりました。それは膨らみ、ウジが9つの穴からから出てきました。その日、ブッダは比丘たちを墓地に連れて行き、シリマの遺体を観察させました。王も部下と共に来ました。シリマに必死に恋していた若い比丘は、シリマが死んだことを知りませんでした。彼はブッダと比丘たちがシリマを見に行くと知ったとき、そこに加わりました。墓地のなかで、シリマの死体は、ブッダに率いられた比丘たちと、王と彼の部下に囲まれていました。

ブッダは王に、シリマが一晩につき現金千で手に入ると発表するように頼みました。 しかし、現金千であっても、五百、二百五十、あるいは無料であっても、彼女を連れて行く人はいません。それからブッダは人々に言いました、「比丘たちよ!シリマを見てみなさい。彼女が生きていたとき、彼女と一晩過ごすために千を出す人がいました。しかし今では、ただでも彼女を連れて行く人はいません。人の体は劣化し壊れていくものです」

それからブッダは次の偈を唱えました。
「見よ、粉飾された形態を!(それは)傷だらけの身体であって、いろいろのものが集まっただけである。病に悩み、意欲ばかり多くて、堅固でなく、安住していない。」

2019年7月28日 (日)

8月経典学習会のお知らせ

8月の経典学習会は、8月18日(日)に開催予定です。

8月18日(日)13:30~17:00 
和光市、新精舎にて
住所 和光市新倉2丁目27-18  
和光市駅から徒歩20分くらい。バス:北口より新倉小学校下車3分。
(地図参照)
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予定

13:30より自主瞑想(法話は14時からですが、それまで自主的に瞑想しています)
14:00より経典の解説
16:00より質疑応答
17:00ころ終了

参加費無料
予約の必要はありません

内容: オバサ・セヤドー念住経の解説 「心の随観」
テキストは、ブログ「3月経典学習会のお知らせ」をご参照ください。
http://parami-library.cocolog-nifty.com/blog/2019/03/3-3bde.html

9月の予定 9月22日(日)中板橋MCWAにて
トゥ・ミンガラ比丘(Thu Mingala Bikkhu)によるダンマパダ(法句経)の解説です。
ダンマパダ(法句教)146,147偈
「何の笑いがあろうか。何の歓びがあろうか?―世間は燃え立っているのに―。汝らは暗黒に覆われている。どうして燈明を求めないのか?」
「見よ、粉飾された形態を!(それは)傷だらけの身体であって、いろいろのものが集まっただけである。病に悩み、意欲ばかり多くて、堅固でなく、安住していない。」
(岩波文庫「真理の言葉 感興のことば」中村元訳 より)

2019年7月18日 (木)

クムダ・セヤドー 法話(5)

2019年5月に来日されたクムダ・セヤドーの法話を文章にして順次掲載しています。
文章化にあたって協力してくださった皆様に感謝申し上げます。 

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会場付近の民家

戒律を守った天人
今日は、シッダ・ダタという名の天人の話です。その天人は三十三天(帝釈天がいるところ)にいました。モッガラーナ長老がシッダ・ダタに、なぜあなたは今の生でここに生まれ来たのか質問しました。天人の前世は人間でした。結婚しないで親の世話をして、戒律を守って生活をしていました。モッガラーナ長老は、なぜ結婚しなかったのか尋ねました。シッダ・ダタは、結婚しても、奥さんが親の世話をしてくれるとは限らないからだと答えました。そして彼は親の世話をしながら、戒律を守って生活をしをしたため、次の生で天人に生まれ変わりました。

戒律を守る人は、自分がかなえたいことを実現することができます。ですから皆さんも戒律を守っていれば、自分の欲しいものが手に入ったり、望む状態が得られたりします。
1番目に、戒律を守れば心が穏やかになります。心が穏やかになると、心が綺麗になります。
2番目に、戒律を守れば戒律が好きになってきます。
3番目に、身体も心も穏やかになっていきます。そして悲しんだり落ち込むことがなくなってきます。
4番目に、身体と心が楽になります。

皆さんも戒律を守るようにしてください。3番目に言ったのは自分の身体と心が穏やかになる、ということです。悪いことをしないし、悪いことを思っていなから心が穏やかになって、楽(スカ)になります。悪いことをすると、楽しくないし、楽(スカ)にはならないですね。4番目までいってさらにサティとヴィリア(精進)をちゃんと持てば、瞑想につながります。それをちゃんとやればサマーディになります。私たちは戒律をちゃんと守っているのですから、4つの要素をもっていて、さらにサティとヴィリアを足したら、サマーディになります。

今私達がサマーディに入れないのは、ちゃんと戒律を守っていないからかもしれないと、セヤドーはおっしゃっています。
お酒を飲んだら絶対にサマーディには入れません。
お酒を飲んでいる方はいらっしゃいますか?
参加者:(手を挙げる人なし)

自分が戒律を守らないと、なかなかサマーディには入れません。私たちは昔、戒律を守っていなかったので、今こうして良いことをしていても、なかなかサマーディには入れません。気持ちが前のことに戻って、そこにいってしまうのです。前のところに気持ちが行ってしまうから、サマーディになかなか入れません。ですから、前戻りしないほうがいいのです。自分たちが昔していたこと、たとえば飲酒で戒律を守ってなかったとか。そういうことを以前していたので、今良いことをしても、前に少し悪いことをしたことを思い出して、そこに気持ちがいってしまいます。前にもどらないように、とは後悔しないことです。

戒律をちゃんと守って、行ないをちゃんとすれば、サマーディも高まるし、あとは正しいことが観えてきます。自分の身体を観ると、32身分が観えます。私達はサマーディがないので、32身分も観えません。サマーディのある人が自分の身体を32身分で観ると、カラーパ(微粒子)が観えます。そしてそのカラーパから8要素が見れます。サマーディができたら、そのサマーディで全部観えます。どこを観ていても、全部カラーパに観えます。どこを観ても、雪のように観え、その雪のように観えるカラーパの中に8つの要素が観えます。そこまでできたらヴィパッサナーができます。ルーパ(物質)まで観えるようになります。

ルーパが観えるようになると、自分の身体や他人の身体が全部カラーパに観えます。そこまで観えるようになるのはちょっと難しいのです。でもそこまでできるようになったら椅子を見てても観えるようになるのです。全部がカラーパに観えています。夜中に起きても観ようと思えばそれが観えます。全てがカラーパに。私達は、まだできてないから、観えませんが、もしできるようになったらいつでもカラーパが観えます。

そして、自分の身体を観ていると、いつもカラーパが生まれては代わるので、存在してないということ、「無常」ということがわかります。そこまでできるようになると、他の人が「この身体は存在します」と言っても、存在しないと答えてしまうのです。生まれては代わる、生まれては代わる、そういうものを、「それが存在するか、存在しないか」と質問されたらどう答えますか? 皆さん。
私達が「存在する」と思っても存在しないんですね。 これがスニャータ「空」です。

(参加者が補足説明)
ニッチャは「常」で、「ア」が付くと否定なのでアニッチャは「無常」ですね。「無常」が分かれば、常に存在するものはありません。そういう状態を「空」という、そういうご説明でした。

もしドゥッカ(苦)が観えたら、スカ(楽)がない。アナッタ(無我)が観えたら我がない。これは修行した人じゃないとなかなか分からないとセヤドーはおっしゃってます。
カラーパの中に、良い匂いとか良い味とか綺麗な色とかが混じっています。綺麗でないカラーパはアスバ(不浄)です。アスバが観えたらスバ(浄)はありません。ここまでいくと涅槃は近いです。

参加者:理屈で理解するのと、実際体験するのとでは、どれくらいの差がありますか?
セヤドー:理屈で理解するのと、実際体験するのとは全く違います。実際体験した人と知識だけの人を比較すると、頭のいい人と馬鹿な人ぐらいの違いがあります。だから実際に体験できるようにがんばってください。

こういうことを全て体験すると人生に飽きてきます。もっと分かりやすく言うと、生きていることが楽しくないのです。遊びに興味がなくなり、瞑想することが幸せになります。

参加者:仏教を学んで瞑想をしていて、遊びに興味がなくなるのは良いことですか?
セヤドー:良いことです。サマーディに入っていなくて何も観えてなくても、遊びに興味がなくなってくる。人と会いたくなくなってきます。そういう方でも一人で瞑想やり続けています。そういうふうにやればその人は必ず涅槃に入れるようになります。

サマディで全て観えるようになると人生に全て飽きてきます。私達が守っている戒律にプラス、サティとヴィリアがあればサマーディになって、サマーディになったら涅槃に行けます。今私達が瞑想をして3~4日目で身体の痛みが消えてきました。そしてだんだん呼吸に馴染み、サマーディが高くなって、サマディが高くなると難しいところまで行けます。私達はまだ期間が短いのでそこまで行っていないだけです。戒律が良いところまで行けるようにサポートします。涅槃に行けなくても、ちゃんと戒律を守っていれば天界に行けます。ですから戒律だけはきちんと守ってください。八戒が守れなければ、せめて五戒だけでも守ってください。戒律を守ることで、自分の人生に頼ることができます。

私達人間は一年365日で、もし100年生きるとしたら、365X100で36,500日しかありません。 しかしこの中では100歳まで生きる人は誰もいない。もし80歳まで生きるとしたら29,200日、大体30,000日ですね。そこから50歳を引くとすると、10,950日。セヤドーはもう60をこえているので、10,000日もないのです。
だから残っている時間、良いことをして幸せになるか、悪いことをして不幸せになるか。皆さんそういう計算をしたことがありますか?

人生は本当に短いです。あっという間です。ですので悪いことをして時間を消費しないでください。長いと思わないでください。今のように計算すると、人生は本当に短いとわかってきます。残りの日にちは良いことばかりやりましょう。

私達は今瞑想をしていますが、その中に妄想がどれくらい入っていますか?相当入っているでしょう?
それでも私たちは今いいことをしています。しかしその中でもアクサラ(不善)が沢山入っています。死ぬ前の気持ちは今のような気持ちです。死ぬ前は今のように、悪いことばかり思い出すのです。今の私達が瞑想をしていても、悪い妄想を沢山しますね。臨終のとき同じように悪い妄想をすると、地獄に行くことになります。

私達はこんな良いことをやっている最中にも悪い妄想が沢山入ってくるのに、良いことをやっていない普段の生活では、話になりません。ですから、なにを頼りにしたら良いでしょうか?
ちゃんと残りの時間を計算してみてください。そして瞑想をしっかりやってください。

    サードゥ!  サードゥ!   サードゥ!
                           (2019年5月2日  みなかみ合宿での法話)

クムダ・セヤドー 法話(4)

2019年5月、来日されたクムダ・セヤドーの法話を文章にして順次掲載しています。
文章化にあたって協力してくださった皆様に感謝申し上げます。  

 

Photo_20190718143601 水仙の咲く道

 

 

今日は、 「慈悲喜捨」(四無量心)と随念のお話をします。

 

カルナー(karuṇā 悲) 「慈悲喜捨」の二番目、「悲」のお話から始めます。パーリ語でカルナー(karuṇā)と言います。例えば、足を失ったり、足が折れたりとか、そういう人を見て「かわいそう」と思う気持ちがカルナーです。その気持ちを心身が不自由な人たちなどにを送ります。苦しんでいる情況を思い浮かべ、そこから抜け出せるようにカルナーを送ってください。カルナーを送る時にお唱えするパーリ語はメッターの場合と違って一つだけです。
「この善なる人が、苦痛から解放されますよように」
ayaṃ sappuriso dukkhā muccatu(アヤン サップリソ ドゥッカー ムッチャトゥ)

 

心身が不自由な人だけでなく、お年寄りや、元気がない人、死にかけている人、そういう人たちにもカルナーを送ってください。最近は人を殺したり虐待する事件が多くありますが、そのような事が起こるのはカルナーがないからです。カルナーがあれば、人を苦しませるような事件は起きません。

 

参加者:「死にかけている人」というのは自殺しそうな人のことですか?
セヤドー:死や病、つまり「生老病死」の事です。

 

生老病死でに苦しんでいる人にカルナーを送ってください。人々がお互いを殺しあったり、国家間の紛争などありますが、それはカルナーがないからです。この世界に生きている限り、慈(mettā メッター)・悲(karuṇā カルナー)・喜(muditā ムディター)・捨(upekkhā ウペッカー)が必要です。私たちが、慈・悲・喜・捨の四無量心を失うと、世界は滅びます。今、世界に起きている苦はこれら四無量心が失われつつあるからです。世界は広すぎるので四無量心を送ることが難しいとしても、家族や友人、自分の身の回りにいる人々などに必ず送るようにしてください。

 

 

ムディター(muditā 喜) 三番目はムディター、喜です。先ほど説明したカルナー(悲)が二番目、昨日話したメッター(慈)が一番目でした。ムディターとは、うれしいこと、よろこびです。たとえばお金持ちを見たときに起きる、喜びの気持ちです。
パーリ語で、
「ayaṁ sappuriso yathāladdha-sampattito māvigacchatu(アヤン サップリソ ヤターラッダ サンパティト マーヴィガッチャト)」
と唱えます。「この善き人がみずから得たものを失いませんように」という意味です。

 

ムディターの回向の偈はカルナーと同じくこの一つだけです。人を困らせたり、人の物を壊したり、人の仕事や物を奪ったりなどするのはムディターがないからです。相手を嫉妬せず、喜ぶことです。「あぁ、この人がお金持ちになってうれしいな、自分もうれしいな」という気持ちがムディターです。ムディターがないと他人や物を破壊してしまいます。友人がお金持ちになっても嫉妬しないでムディターの気持ちをもってください。日本は縦社会ですけれど、自分の後輩や同僚が出世しても嫉妬しないでください。その人のカルマによって出世したことなので、そのことに嫉妬せずにムディターの気持ちを持つことが大事です。

 

参加者:お金とか、地位とか、その人が持っている能力、才能とかも同じですか?
セヤドー:そうです。ムディターで接してください。

 

自分より能力や才能が優れた人にムディターで接しないと、その人が持っているものを破壊したくなるのです。わたしたちが今住んでいる世界も同様です。たとえば、アラビア諸国は石油のおかげでとても裕福ですが、周辺国から嫉妬されて争いが一年中絶えません。ムディターがないから戦争が起こるのです。自分より生活が上であることに嫉妬するからです。お金を持っている国、アメリカなどは貧しい国に対してかわいそうと思うカルナーがありません。殺そうとさえします。カルナーがないといじめてしまうのです。力を使って弱者を苦しめます。ですから、メッター、カルナー、ムディターを必ず持ってください。

 

 

ウペッカー(upekkhā 捨) 次はウペッカーです。日本語で「捨(しゃ)」と訳されています。
1.すべての生き物に平等に接することです。
2.まず最初に、嫌いでも好きでもない同性の人を思い浮かべてメッターを送ります。
3.充分にメッターを送ったことで自分の心が落ち着いたらウペッカーを送ります。

 

パーリ語で、
「Ayaṁ sappuriso kammassako(アヤン サップリソ カンマサッコ)」と念じます。
「この善き人が為したカルマはその人のものです」という意味です。

 

ある人がお金持ちだとすると「そのカルマによってお金持ちだ」と思ってください。自分より貧しい人には「そのカルマによって貧しい」など(先入観を捨てて)と思ってください。ある人がよい仕事をしているとき、嫉妬をせずに「そのカルマによってよい仕事をしているなぁ」と思ってください。

 

この四つの無量心は、この世界に住んでいる限り、絶対になくしてはいけません。仏教、キリスト教、イスラム敎など関係なく必ずその四無量心を持つようにしてください。この四つが世界にないと、人として生きてゆくことが難しくなります。たとえば、アメリカとウサマ・ビン・ラディンの場合はこれに当てはまります。四つの無量心がないのであのように殺し合ったりするのです。アメリカが攻撃されたり、ビン・ラディンが殺されたり、結局お互いにとってよいことがありません。国どうしで戦争したり、殺し合ったりするのです。たとえば、日本と北朝鮮の関係が悪化しているのは、お互い四無量心がないから争っているのです。これを理解してほしいのです。本質はもっと深く難しいので喩えとしてお話しています。

 

四つの無量心がこの世にあるかないかを省みて、この世から離れるべきかか、留まるべきかをよく見極めてください。世界に四無量があるかないかを見て、人間界に残るか、涅槃を目指すかを自分で決めてください。世界が苦であるとみて、瞑想修行をして涅槃に行く努力をしてください。

 

 

仏随念(Buddhanussati ブッダヌッサティ) 次は、仏の九徳を随念する仏随念です。九徳を念ずる修行は、自分の好きな仏像、例えば鎌倉大仏でもいいですし、牛久の大仏でもいいです。自分の家に仏像があるならばそれでもいいです。仏の姿を思い浮かべて九徳の一つを選びます。一つまたは九徳全部を選んでもよいです。たとえばアラハンを選んだら、「アラハン、アラハン…」と唱えます。この九徳を心を込めて唱えると、心が安らかになり、それが自分を護ります。この徳を何回も唱えます。そうすると自分の意思をコントロールできるようになります。

 

(通訳の体験)
私が小さい時の事です。母親に隠れて映画を見に行きました。しかし、帰りが遅くなり、母親から怒られるのではと怖くなりました。そこで仏の九徳を唱えながら帰りました。家に着くと母親に笑顔で迎えられ怒られなかったのです。私はびっくりしました。ミャンマーの親はとても厳しいので普通は子どもの帰りが遅いと当然怒られます。私は普段と違う反応にとまどいましたが、九徳を唱えたことを親には黙っていました。〔笑〕
これは私の実体験です。九徳を唱えるとよい結果を得るので、何回もやったことがあります。自分が何事かを実現したいとき、九徳を使うとうまくゆきます。

 

もしも、自分の力(power)を強くしたいならばこれを毎日唱えてください。

 

仏の九徳(Buddhaguṇa ブッダグナ)
Itipi so Bhagavā(イティピソー バガワー)
①Arahaṁ(アラハン)=阿羅漢(あらかん)
②Sammāsambuddho(サンマーサンブッドー)=正自覚者(しょうじかくしゃ)
③Vijjācaraṇasampanno(ヴィッジャーチャラナ サンパンノー)=明行足者(みょうぎょうそくしゃ)
④Sugato(スガトー)=善逝(ぜんぜい)
⑤Lokavidū(ローカヴィドゥー)=世間解(せけんげ)
⑥Anuttaropurisa-dammasārathi(アヌッタロプリサ+ダマサーラティ)=無上士(むじょうし)+調御丈夫( じょうごじょうぶ)
⑦Satthādevamanussānaṁ(サッター デーワ マヌッサーナン)=天人師(てんにんし)
⑧Buddho(ブッドー)= 仏陀(ブッダ)
⑨Bhagavā ti(バガワーティ)=世尊(せそん)

 

これをお唱えすると自分のパワーが強くなります。

 

 

アスバ瞑想(Asubha bhāvanā 不浄観) 仏随念の次はアスバ瞑想です。ラーガ(rāga 貪欲)、執著が強い場合はアスバ瞑想をします。アスバ瞑想をするときは、同性の死体をイメージします。異性で行ってはいけません。目の前に死体がない場合は、智慧によってはっきりと死体を観想します。そして「paṭikūla、paṭikūla(パティクーラ、嫌悪)」と唱えます。この瞑想の目的は、ラーガをなくすためです。ミャンマーではお墓にいって死体の眼前でアスバ瞑想をします。日本のお墓は、火葬なので死体はありませんね。ミャンマーも火葬ですが、アスバ瞑想のための死体置き場があります。人が亡くなると新聞や伝言などでアスバ瞑想者に告知します。

 

参加者:亡くなって何日ぐらい瞑想しているのですか?
セヤドー:二三日ぐらいです。昔は土葬でしたので虫がわいたり、腐って臭う死体が朽ち果てるまで瞑想していました。
参加者:ミャンマーは暑いので三日ぐらいで結構臭いそうですね。
セヤドー:そうです。臭くなります。私たちの身体も臭くなります。生きていても体臭があります。
参加者:今でも(実際の)死体で行うアスバ瞑想をやられているんですね。
セヤドー:人が亡くなると比丘を呼んでアスバ瞑想の場を設ける伝統があります。
参加者:日本人はぜんぜん死体を見なくなったのでよくないですね。

 

死随念(maraṇānussati マラナヌッサティ) 次は死随念です。まず、死随念に入る前にアスバ瞑想を30分ぐらい行います。アスバ瞑想で見た死体のように、自分もいつか死体になります。死から逃れることはできません。自分は必ず死にます。死随念では自分が死ぬことを随念します。

 

①私は必ず死ぬ。私の命は無常だ。
(maraṇaṁ me dhuvaṁ, jīvitaṁ me adhuvaṁ マラナン メー ドゥヴァン、ジーヴィタン メー アドゥヴァン)
②私はいつか死ぬだろう。
(maraṇaṁ me bhavissati マラナン メー バヴィッサティ)
③私の命は死によって終わる。
(maraṇapariyosānaṁ me jīvitaṁ マラナパリヨーサーナン メー ジーヴィタン)
④死。死。
(maraṇaṁ maraṇaṁ マラナン、マラナン)

 

これをsaṃvega(サンヴェーガ)を持って行います。
通訳:saṃvegaは日本語で何といいますか。後悔?
参加者:切迫感、自分の身に迫ってくるという…。

 

切迫感を持って、自分の死や死んでいる姿を思い浮かべて瞑想します。これが終わるとサマタ瞑想の修習が終わります。さらにレベルの高い瞑想がありますが今はおおまかな説明だけ終わります。

 

    サードゥ! サードゥ! サードゥ!

 

                 (2019年5月5日  みなかみ合宿での法話)

 

 

2019年7月16日 (火)

7月自主瞑想会のおしらせ

7月自主瞑想会のおしらせ
(この会は有志により開催されています)

だれでも自由に坐れる場を提供したい、ということから始めた瞑想会です。
どうぞお気軽にご参加ください。
日時:7月27日(土)13:00~17:00
会場:板橋区見次公園集会所2階和室 都営三田線志村坂上駅より徒歩7分(地図参照)
住所:板橋区前野町4-59-1(https://map.goo.ne.jp/place/13002641886/map/)
参加費:無料
会場費のお布施を受け付けています。

予約は必要ありません。
座布団はあります。瞑想しやすい服装でおいでください。

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注意事項

・会場内では「沈黙行」をお守りください。お話したい方は室外にてお話し下さい。
・途中での出入りは自由です。受付名簿に記入し、坐っている方の迷惑にならぬよう静かに出入りしてください。
・瞑想指導はありません。各自で、自分の行なっている瞑想をなさってください。
・瞑想会終了後に1時間ほどの「懇親会」を持ちます(自由参加です)。

およその時間割(当日の状況で多少変わることもあります)

13:00    受付開始
13:20-13:30 読経(慈経)
13:30-14:30 瞑想
14:30-14:45 休憩 
14:45-15:45 瞑想
15:45-16:00 休憩
16:00-17:00 瞑想、回向
17:00-  懇親会(1時間くらい)

次回の予定
8月25日(日)板橋区見次公園集会所2階和室

主催:静寂瞑想の会

«7月経典学習会(日時変更)のお知らせ

2012/8 宝台樹高原

  • 6
    8月に合宿の行われたみなかみ町藤原は宝台樹山のふもとにあり、冬はスキー場になる高原風ののどかな村です。

2009年クムダ・セヤドーのお寺 

  • 10 セヤドーのお話を聞く
    ミャンマー・ヤンゴン市郊外モービにあるクムダ・セヤドーの瞑想センターを訪ねた方が写真を送ってくださいました。 シーマホールも完成し、そこには富士山をバックにした仏像がまつられています。

2008/8 水上合宿

  • 雨上がり
    8月に合宿の行われた水上町藤原はまさに水の里。民宿周辺の風景をお届けします。

2008 夏の風景

  • 朝霧の沢
    夏の暑い日、川の源流では入道雲が湧き、山や木々は様々な表情を見せていました。

2008/7 関西合宿・瞑想会

  • 延命寺三門にて
    大阪、河内長野市にある延命寺は弘法大師空海が開基と伝えられ、市の紅葉名所にもなっている美しいお寺です。 ここで7月、クムダ・セヤドーをお招きして一週間の瞑想合宿が開かれました。
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